映画の感想など・・・基本的にネタばれです。
しづのをだまき
花衣ぬぐやまつわる・・・・・・
2021年07月04日 / 本
著者 田辺聖子 集英社刊 1987
副題 わが愛の杉田久女
杉田久女(1890ー1946)を知ったのは「足袋つぐやノラともならず教師妻」で十代のころ。その後松本清張の「菊枕」吉屋信子の「私の見なかったひと」などに現れた、何やら癖の強い女性というイメージがずっとあった。
田辺聖子氏は、あとがきによると、はじめこの評伝を書くのにためらいがあったという。そのわけは、日頃なじんでいた川柳と違い「伝統と因襲にみちた暗黒大陸のよう」な俳句を敬遠してきたためだ。しかし久女と周辺の俳人の作品を次々読んで、すっかり俳句に魅了されてしまった。そして、芸術家が妻として生きることの困難、ひいては現代女性の生き方の困難を、久女は半世紀前に体験し、示してくれたと言う。著者は5年間にわたって膨大な本と資料を点検し、現地踏査によって、一つ一つの事実を確かめていく。
久女は父の赴任地の鹿児島に生れ、琉球から台湾へと移り住み、小学校を卒業後、東京のお茶の水高等女学校に進学し、結婚後小倉へ。やがて、精神病院に分裂病で収容され、終戦直後の食糧難の中、体力及ばず死んだ彼女。
清張は偏屈で世に入れられない孤独な性格に興味があり、いくつもの短編を書いている。吉屋信子は、優れたストーリーテラーで、話を面白くするために素材を自由に料理するくせがあった。両者とも大衆的な人気があったために、偏った人物像がひとりあるきしてしまった。愛読者であった田辺聖子だが、この点で吉屋信子の責任は大であると明言している。
久女が絶対的な存在として師事した高浜虚子とはどういう人間だったか。虚子がホトトギスという最大組織の頂点に立つ魔王のような存在で、思いつめ取り乱した彼女を除名するのにさらし者のように定期誌上で発表するという仕打ち、生前も死後も彼女につきまとった数々の悪評は、大もとは虚子の事実無根な文から発していたこと、ゴシップ好きな人々がたしかめもせずに浅はかにそれに尾ひれをつけてひろめたという事実に、人の不幸を喜ぶ、真実よりもデマを好む人間性の残酷さ恐さを感じる。
父祖の地・信州と長年暮した小倉に足を運び、関西人の著者は、土地の持つ独特の空気とそこから生じる人間の気風に思いをはせる。
また「谺(こだま)して山ほととぎすほしいまま」の作られた九重山にまでも足を運ぶ。先天性股関節脱臼症の著者にはつらかったろうに……。
著者には「千すじの黒髪ーわが愛の与謝野晶子」があるが、これは晶子への「ラブレター」と称するだけに、あまりにも思いこみが強く、自己陶酔的に感じる。同じく「わが愛の」でも、もともと疎いテーマだったのがかえって幸いし、国文科専攻の綿密さで取り組んだ、理性的な愛が産み出したこの作品は、門外漢の読者にとって十分に納得がいき、読後には大きく深い感動を覚えた。
この6月6日は田辺聖子が亡くなって満2年なので、何か書きたいなぁと思っていたら、新聞が彼女の「十八歳の日の記録」の発見を報じ、文芸春秋7月号で興味深く読んだ。敗戦の日に「何事ぞ!」と悲憤慷慨した18歳の彼女は、これから後は、エライ人たちの言葉をうのみにしない態度を身に着けていくのだ。これをもって彼女をしのぶ文とする。
→「田辺聖子さんが亡くなって」19-11-13
→「欲しがりません勝つまでは」7-6-23
→「姥(うば)うかれ」7-6-27
→「ときの声」21-7-28
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