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辻邦生「時の扉」

1977年 毎日新聞社 辻邦生著 1976.2-1977.2 連載

新刊「若き日の友情 辻邦生・北杜夫往復書簡」をおとといの毎日で見て連想し県立図書館から借りた。

当時はパルミラの遺跡(↑)のように美しかった表紙が、今や汚れそそけているのが、時の流れを象徴している。

辻邦生は熱烈なファンもいるらしいが、私は別にかれを好きでもないのに、これに限って3回も読んでいる。初回は新聞で、2回目は単行本で、そして今度は松江で閉架図書として。

読んでいてあちこちで引掛り、小骨の多い魚を食べるようで、読む快感よりは苦痛が勝る。どこが引掛るのか。人物像が類型的であることに尽きる。まず女性たち。「卜部すえ」と「梶花恵」は、純情無垢と傲慢放埓、ひどく対照的に描かれているが、両者ともあまりに極端で、こんな女性は見たことがない。そのあとで会う女性達が、みな、この2種類に分類されているので、この方、女性経験が殆んど無いのかしら、作家の割りに、と思ってしまう。主人公の男性もだし、周辺の人が「あなたの詩で生きる勇気がわいた」と、口々に言うのだが、「詩」に対してそういう感想を抱いたり、口にするなんて、ホイットマンとか、高村光太郎ならいざ知らず、可能なものだろうか。私が知らないだけか?作者自身が詩と遠いので、そんなことが書けたのではないか。

そもそも詩人を主人公にして、散文で、長編小説を書くのは至難の業であると思う。常識人から見た変人とか落伍者として、外面的に描くならまだしも、この小説は、詩人が自分で自分を肯定しながら、薔薇色のシャボン玉に入って外を見ているようだ。あえて厳しい環境に挑み続けているように見えても、シャボン玉は破れず、自己陶酔が続いているように感じられる。

主人公は、華やかに詩作・演劇活動していたが、関係のあった卜部すえが自殺したことを己の罪と感じて、東京を離れ、自分自身を流刑にするような気持で(ここの所は「新生」風でイヤ味)北海道の僻地に中学教師として赴任したり、さらに、灼熱の砂漠で遺跡発掘作業に携わる。小説は北海道で始まり、東京の追憶が続くが、3分の1位でパリを経由してシリアに舞台が移り、あとは充実したシリア紀行みたいになる。年譜によると、連載開始直後の1976年3月に、ひと月位シリアに取材旅行したらしい。が、北海道とかシリアは、流刑地にされるほど恐ろしい場所だろうか。東京で生まれ育った、都会の大好きな人間ならではの大袈裟なたとえである。

あれやこれやの気になる点は、彼も言っているが、初めての新聞連載で、広範な読者層に受けるものを、とか、毎回毎回、次を楽しみにさせるような工夫を、とか、意識しすぎたことが裏目に出たのかも知れない。本人にとっても会心の作では無いらしく、全集には入ってない。もっとも「絶えず書く」人と言われた彼の膨大な作品を全て収録するのは不可能だろうけれど。

と散々文句を言っているけれど、辻邦生本人は作品の数倍面白い(北杜夫に「ぼくのリーベ」と呼びかけているのが何よりの証拠)ことを発見したので、もう少しいろいろ読んで見よう。彼本人と関係を持ちたいとは思わないが、彼が持っている関係には興味がある。北杜夫の愛した美少年"ブルンネン”についても知りたいなあ・・・オッとわき道に逸れてしまった。

【蛇足】この物語はわたしの人生と不思議に連動している。小説の舞台が日本からシリアに移って間もなく、76年末ごろ、私にシリア行きの可能性が出て来た。本が発売された1977年の秋は、既にシリアに住んでいた。そして、ダマス、アレッポは勿論、パルミラ、古都ハマの水車、ユーフラテス川、ラッカ、デルゾールの町も見たし、日本の発掘隊や、コーヒー占いのリディア、「シリア在住20年のドクター」、「日本化工のT重役」にも会った。松本清張「砂漠の塩」→07年1月ではドクターはシリアに来て1年目だったが、「時の扉」では20年目(実際は10年あまり)になっている。容貌はもじゃもじゃの銀髪とか赤銅色の顔とかギラギラ光る目とか、本人とは正反対であるし、シリア定住の動機が、妻の不倫だと言うのは、かなりの潤色があるようだ。

【蛇足その2】「日本化工」の重役T氏が登場することには今回はじめて気がついた。滞在の後半アレッポでお会いしたT氏は、若手ばかりの宿舎で、ぽつんと孤独そうに見えた。私は、世界各地を飛び回ったかれの体験談と語学のうんちくを、食堂で差向いで聞いた。夫はその間、別室で麻雀か何かしていたようだ。彼をとかく敬遠しがちな周囲の人々にとって、進んで話相手になる私は重宝だったろうし、彼にとっても熱心な若い(まだ30代前半だった)聞き手といるのは楽しかったらしくその後よく「OOさん(=私のこと)は来ませんかね?」と言っていたそうだ。

私企業の宿舎ではあるが、浴槽(!)と日本食があるので、ドクターと訪れる協力隊員にはとても有難い場所であった。独身の男性ばかりで、すっきりと機能的に暮らしていた。2、3回訪問しただろうか、ある時、ぜんざいをご馳走してくださった。「昨夜から水につけておいたのですが、どうも小豆がうまく煮えなくて」の言葉の通り、小豆はすこし固かったかも・・・しかし、そういう言い訳と共に、ちょっとはにかんだ表情で、すり足で大事そうにお盆を運んでおられたあの姿、日本食の店も、食堂も皆無のシリアで、日本の味に飢えていた、甘党の私には後光が射すように思えた。

帰国して31年、協力隊とは殆んど縁が切れてしまった。ドクターOもT氏も、ご存命なら90歳前後、どうしていらっしゃるだろうかと、何かの折に思い出しては語り合っている。

→「砂漠の塩」 7-1-27
→「折田魏朗氏」11-10-12
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
びっくりしました。Tの息子です。 (toommy)
2012-08-22 11:01:23
アレッポといえば「時の扉」で検索、偶然、たどり着きました。
父は1999年12月に亡くなりましたが、晩年まで、うんちくで周囲から煙たがれていました。でも、聴いてあげさえすればご満悦でした。

当時なら、ネパールでのI親子の話とかエベレストの話、おそらく、そこら中の人に話をしていたのでしょう。
 
 
 
Unknown (Bianca)
2012-08-22 11:40:56
toommyさま

アレッポでの女性記者射殺ニュースに、朝食の席で連合いとひとしきり当時の思い出を語り合っていたところです。突然、ご子息がご訪問くださるなんて驚きましたし、とても嬉しいです。T様は晩年まであの当時と変わらず意思伝達の意欲が満々だったようですね。何よりも頭の回転が良い方だと思いましたが、優しいフェミニストだったと連合いは申しております。(中国語の4声の手振りつきの実演が記憶に残っています)
 
 
 
アラブの友 (戸張 昇)
2012-08-24 18:50:51
しづのをだまきさま

辻邦生のファンとしてこの作品も読みました。そしてシリアに駐在員として4年生活し、ドクター・オーとも親しくさせてもらいました。ドクター・オーは残念ながら2008年でしたか亡くなりました。
昨今のシリアの状況を悲しく見つつ、又「時の扉」を読み出しているところです。20年前にダマスカスに駐在していた時も今回のような内乱が起きることを心配しながらの生活でした。
 
 
 
Unknown (Bianca)
2012-08-25 06:24:03
戸張昇さま
シリアには、現代日本にもですが、疎くなっていますので、ネット検索してみました。某大学ラグビー部とか某商社と関係がおありとか。当時はまだ在シリア日本人は50人くらい、大使館・協力隊以外は電気とか建設関係だけでしたが、商社も駐在するようになったのですね。首都の生活は文明化されたもので、地方の協力隊員には夢のようでした。電気も水道もあり、お風呂にも入れますしね。折田先生、お亡くなりになったのですね。お世話になりっぱなしだったことが心苦しく、いつか思い出を語ることで供養したいと思っているのですが…
 
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