ゲーム上では不確定要素として第8〜第10ターンの間に上方情勢が伝わり、上杉勢の撤退がはじまることとなる。
この時期伊達政宗は白石から福島へ向かうとみられていたが、9月25日、とつじょとして米沢方面へ山越えの奇襲を敢行した。二井宿峠であがる煙は長谷堂を包囲する上杉勢からも見ることができただろう。ちなみにこの周辺6郡(刈田郡、置賜郡をはじめとする)は天正19年(大崎・葛西一揆)までは伊達家の領地だった。
さらに史料を読んでみよう。
「きのう(10月1日)の合戦であなたが比類のないはたらきをしたことは、いまに始まったことではありません。とくに100余りを討ち取ったことは大慶です。大きな合戦だったので、さだめて味方にも多くの負傷者がでたことでしょう。残った敵もいるとのことですので、いそいで増援をそちらへ向かわせます。明日(10月3日)には半数以上がそちらに到着することでしょうから、安心してください。そちらにいる全員に書状をつかわしたいのですが、急いでいますので、そうもできません。『みなみな、骨折り大義であった』と伝えたいところです。そのように全員に伝えてください。大条実頼が負傷したと聞いて心配しています。また、この書状を最上義光殿へとどけてください」
【史料】10月2日付留守政景宛伊達政宗書状(『仙台市史・政宗』1085)
皆々へ書状遣度候へ共、急候間、無其義候、皆々骨折り大義之由申度候、必々各へ此由可被仰候、大さつま手負申之由、無心元候、又此書出羽殿へ御届尤候、かしく、
昨日合戦之様躰、御手前無比類由、不始義ニ候、殊百余人被討捕之由大慶ニ候、大合戦ニ付而、定而味方ニも手負可有之候、又于今敵残候由承候間、茂石見・屋勘・湯信・奥与一、早打申付候、明日者過半も可為着陣候間、可御心安侯、恐々謹言、
十月二日 政宗(花押)
伊上州
まいる
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます