生きてゐれば、肉體による制約を受ける(舊ブログ記事再掲)
きのふの續きとして書かうと思ふ――。
かう云ふ事を云ふと、「この人は大丈夫か?」と思はれるかも知れないが、人間、生きて、肉體を有してゐる限り、その精神は汚れてゐる事となる。精神とは、どうしても、肉體による制約を受ける。
然し、かう云ふ事は何も珍しい事ではなからう。古今東西の偉人賢人にしても、同じやうな事に思ひ至つたのではないか。
藝術家になる爲には、甚だ宗教的にならねばならない、と云ふやうな事を誰かが云つてゐたと記憶するが、宗教が多々あるとしても、その多くは魂を扱ふものではないか。
この魂とは、死してなほも存在する存在であるが、そのやうな事を考へるやうな人間でなければ、眞の藝術を行ふ事は出來ない。そして、藝術は、生きる人間がやるものだから、眞の藝術とは困難なのである。
パンを食べる事は生きる爲に必要であるが、生きて、藝術を志すとは、一體、どう云ふ事か。パンを食べようとするのは、精神であり、パンから超越してゐるのが、魂である。私としては、パンのみならずとは、魂に就いてと云ふ事だ。然し、生きて、肉體の制約を受けつゝ、如何にして魂である事を十全に感知出來ると云ふのか。「無私の精神」とは、矛楯である。精神とは、何かを志向するものだからだ。それは、誰それの精神だの、時代の精神だのと謂はれる。惟ふに、小林秀雄も、「無私の精神」と云ふ事で、魂であると云ふ感知を得ようと試みたのではないか。
眞心とは、日本人の言葉だが、これは、神道を信ずる日本人のみが考へ得る在り方である――と云つても、私は、神道に就いて詳しい訣ではないが――。死してなほ、魂が存在するとすれば、その時、始めて、眞心は得られると云ふよりも、眞心そのものになれるのであつて、之は、生きてゐる内に論へるものではない。
何が云ひたいかつて? 生きてゐれば、肉體を有してゐる限り、誰しも、惡から免れないと云ふ事だ。凡ての慾得は肉體から發し、クリスチャンではないが、されば、惡を免れない。死んだ者こそが、眞心そのものになれるのではないか。勿論、惡から免れないにもかゝはらず、惡を卻けようと葛藤する生き方こそが、この世に於ける、道徳的と云ふ事なのだが。詰り、道徳的とは、精神的緊張である。魂は、之とは質的に異なる。
きのふの續きとして書かうと思ふ――。
かう云ふ事を云ふと、「この人は大丈夫か?」と思はれるかも知れないが、人間、生きて、肉體を有してゐる限り、その精神は汚れてゐる事となる。精神とは、どうしても、肉體による制約を受ける。
然し、かう云ふ事は何も珍しい事ではなからう。古今東西の偉人賢人にしても、同じやうな事に思ひ至つたのではないか。
藝術家になる爲には、甚だ宗教的にならねばならない、と云ふやうな事を誰かが云つてゐたと記憶するが、宗教が多々あるとしても、その多くは魂を扱ふものではないか。
この魂とは、死してなほも存在する存在であるが、そのやうな事を考へるやうな人間でなければ、眞の藝術を行ふ事は出來ない。そして、藝術は、生きる人間がやるものだから、眞の藝術とは困難なのである。
パンを食べる事は生きる爲に必要であるが、生きて、藝術を志すとは、一體、どう云ふ事か。パンを食べようとするのは、精神であり、パンから超越してゐるのが、魂である。私としては、パンのみならずとは、魂に就いてと云ふ事だ。然し、生きて、肉體の制約を受けつゝ、如何にして魂である事を十全に感知出來ると云ふのか。「無私の精神」とは、矛楯である。精神とは、何かを志向するものだからだ。それは、誰それの精神だの、時代の精神だのと謂はれる。惟ふに、小林秀雄も、「無私の精神」と云ふ事で、魂であると云ふ感知を得ようと試みたのではないか。
眞心とは、日本人の言葉だが、これは、神道を信ずる日本人のみが考へ得る在り方である――と云つても、私は、神道に就いて詳しい訣ではないが――。死してなほ、魂が存在するとすれば、その時、始めて、眞心は得られると云ふよりも、眞心そのものになれるのであつて、之は、生きてゐる内に論へるものではない。
何が云ひたいかつて? 生きてゐれば、肉體を有してゐる限り、誰しも、惡から免れないと云ふ事だ。凡ての慾得は肉體から發し、クリスチャンではないが、されば、惡を免れない。死んだ者こそが、眞心そのものになれるのではないか。勿論、惡から免れないにもかゝはらず、惡を卻けようと葛藤する生き方こそが、この世に於ける、道徳的と云ふ事なのだが。詰り、道徳的とは、精神的緊張である。魂は、之とは質的に異なる。