犧牲的精神を有せず、正義をも有せず、それゆゑ、無力な日本人
日曜日のNHKテレヴィニューズを聞いてゐて、知つた事だが、何やら日本政府筋の人間にしても、トランプ政權に對しては、「云ふべき事は云つて行く」らしい。詳しくは聞けなかつたが、どうせ、日本の事、經濟關聯に就いて、懸念してゐるのであらう。が、經濟を經濟のみで考へる事は不可能。經濟と軍事力とは、密接な關係にある。そして、軍事的小國である日本と軍事的經濟的大國であるアメリカとでは、アメリカの言ひ分がとほるのが、道理と云ふものである。日本に對してのみに限らないが、アメリカは、今迄――少くともオバマ政權下にあつて――、他國に對して寛容であり過ぎたのだ。他國に對してとは、同盟國に對しても、假想敵國に對しても、發展途上國に對してもである。
「アメリカファースト=保護主義」は駄目だと、産經新聞の記者や論者迄語る爲體だが、自國の都合を最優先するのは、當然の事であり、個人に於ては、個人は自らの都合を最優先する。實際、以下に引用するやうに、日本人にしてからが、そのやうに正直に考へてゐるではないか。と云ふのも、渡辺和子著「置かれた場所で咲きなさい」(幻冬舎)と云ふ本には、以下のやうな否定的なレヴューがある――。
――以上のやうに日本人が、アメリカに對して考へるならば、アメリカ人が「アメリカファースト」であつて、一向に構はないと云ふ事になる。然し、少し許り智慧のあるマスコミ人や知識人は、それでは「損」だと考へるから、「アメリカファースト=保護主義」は、グローバリズムや自由主義の否定だと云ひ、グローバリズムや自由主義を利用して、之迄どほり、アメリカに對して、軍事的經濟的な犧牲を強ひようと云ふ魂膽なのである。
アメリカによる「キリスト教独特の『犠牲的精神』や『正義のおしつけ』」によつて、敗戰後の日本の平和は維持されて來た訣である。「犠牲的精神」を體現するのが、軍人であり、アメリカによる「正義のおしつけ」によつて、日本には「戰後民主主義」や紛ひの「自由」が配給された訣である。上述のレヴュー者は、その事實を認識してゐるのかどうか、頗る怪しい。さう/\、アメリカは、憲法さへも、違法な形で、吾國に「おしつけ」て來た訣だが、その「おしつけ」憲法に對して日本人の多くはどのやうに考へてゐるのか。少からず護憲派がゐるではないか。
「他人を助けようとして、自らが命を落とす事があってはならない」と云ふが、そのやうな人命尊重主義では、軍人は軍人たり得ないのである。何故ならば、幾ら訓練を積み、實戰經驗が豐富な軍人にしても、有事に於ては、「確實」と云ふ事はあり得ないからである。抑、件のレヴュー者は、「消防隊員、海難救助隊員、レスキュー隊員などは、相当の訓練を受けており」云々と書き、自衞官を省いてゐるのは、偶々か、それとも何らかの意圖あつての事か。加へて、(他にも同樣のレヴュー者がゐるが)キリスト教を、左迄、拒否するのは、何らかのイデオロギイが背景にあつての事か。その邊の事が氣になる(譬へば、他のレヴュー者の中には、「宗教は阿片」と明言してゐる者もゐるのである)。
トランプ政權に對しては、平和の「象徴の街」らしい被爆地・廣島でも不安の聲があがつてゐると云ふ。曰――
――「平和の『象徴の街』らしい被爆地・廣島」と先述したが、原爆ドームとは、日本國や日本人の無力の象徴に過ぎず、それを觀光資源にしてゐる廣島人とは、自らの無力は、アメリカに補つて貰ひながらも、自身は、平和で飯を食ひ、その矛楯に氣附かない日本人を代表してゐる縣民、市民である。
一體、軍事的に無力な日本人、廣島人が、「しっかりと見極めて」「注目してい」き、それで、一體、何が出來ると云ふのか。
「犧牲的精神」を有せず、亦、その大事を理解も出來ず、他者や他國に「押附け」たいと思ふくらゐの「正義」を有しない日本人が、土臺、力を有するやうになる筈がない。そして、無力であり續ける日本人であれば、アメリカを「しっかりと見極めて」「注目してい」つた處で、無意味である。
と、茲迄、書いて、「押附け」と云ふ點で、先日書いた事と矛楯するではないかと云はれさうだが、結局の處、僞善的な言辭と云ふのは、長續きせず、眞實ではないと云ふ事である。自ら、感ずる事だが、矢張り、人間が人間である限り、正義に拘らざるを得ないのである。「正義を疑ふ」と云ふ日本人の多くこそが、人間性を失つてゐるのである。では、この私の正義とは何か。この大事に就いては、今後、考へて行きたい。
日曜日のNHKテレヴィニューズを聞いてゐて、知つた事だが、何やら日本政府筋の人間にしても、トランプ政權に對しては、「云ふべき事は云つて行く」らしい。詳しくは聞けなかつたが、どうせ、日本の事、經濟關聯に就いて、懸念してゐるのであらう。が、經濟を經濟のみで考へる事は不可能。經濟と軍事力とは、密接な關係にある。そして、軍事的小國である日本と軍事的經濟的大國であるアメリカとでは、アメリカの言ひ分がとほるのが、道理と云ふものである。日本に對してのみに限らないが、アメリカは、今迄――少くともオバマ政權下にあつて――、他國に對して寛容であり過ぎたのだ。他國に對してとは、同盟國に對しても、假想敵國に對しても、發展途上國に對してもである。
「アメリカファースト=保護主義」は駄目だと、産經新聞の記者や論者迄語る爲體だが、自國の都合を最優先するのは、當然の事であり、個人に於ては、個人は自らの都合を最優先する。實際、以下に引用するやうに、日本人にしてからが、そのやうに正直に考へてゐるではないか。と云ふのも、渡辺和子著「置かれた場所で咲きなさい」(幻冬舎)と云ふ本には、以下のやうな否定的なレヴューがある――。
キリスト教のおしつけ
私は、このようなキリスト教独特の「犠牲的精神」や「正義のおしつけ」が大嫌いです。キリスト教徒は、異教徒に対して「神のみ恵みを知らない可哀そうな子羊」として、さげすんでいるような気になります。
こちらが文句を言っているのに、微笑みかけられると「ゾッ」とします。「犠牲的精神」や「正義のおしつけ」は「ありがた迷惑」です。
キリスト教の「正義」を「異教徒」におし付けるから争いが起こるのです。他国にちょっかいを出すな。欧米人はそのことにまだ気づいていない。
線路に転落したAさんを助けようとして、自ら線路に降りたBさんとCさんがいました。結果として3人とも亡くなったのですが、自分の命を犠牲にしてAさんを助けようとしたBさんとCさんを、ヒーローのように褒めていました。
しかし私は、BさんとCさんを褒めようとは思いません。他人を助けようとして、自らが命を落とす事があってはならない。Aさんを助け出せる自信が無い場合、自分の命を危険にさらしてはいけないと考えます。
消防隊員、海難救助隊員、レスキュー隊員などは、相当の訓練を受けており、助け出す術を知り、自信をもって事に臨んでいます。
教師が教え子のために、親が子のために危険を冒すのは、確かに理解できますが、それならば、教師や親は、そのような事がある事を想定して、ある程度の訓練をしておく必要があると考えます。それが教師である覚悟、親である覚悟です。
助けようとして亡くなった方にも家族があったり、悲しむ方がいます。
仮に、私が線路に転落したAさんであった場合、自分の命を落としてまで助けようとしてくれなくても結構だと考えます。BさんCさんに、そしてBさんCさんの遺族に申し訳なくて死ぬに死にきれません。そこまでしてくれなくてもよいのです。迷惑なんです。
次に、私がAさんの遺族であった場合も、BさんCさんに申し訳なく、かつ、BさんCさんの遺族に申し訳なくて、かける言葉が思い当たりません。大迷惑なんです。
かくして、キリスト教という奇妙な教えは、ついに私には理解できませんでした。
――以上のやうに日本人が、アメリカに對して考へるならば、アメリカ人が「アメリカファースト」であつて、一向に構はないと云ふ事になる。然し、少し許り智慧のあるマスコミ人や知識人は、それでは「損」だと考へるから、「アメリカファースト=保護主義」は、グローバリズムや自由主義の否定だと云ひ、グローバリズムや自由主義を利用して、之迄どほり、アメリカに對して、軍事的經濟的な犧牲を強ひようと云ふ魂膽なのである。
アメリカによる「キリスト教独特の『犠牲的精神』や『正義のおしつけ』」によつて、敗戰後の日本の平和は維持されて來た訣である。「犠牲的精神」を體現するのが、軍人であり、アメリカによる「正義のおしつけ」によつて、日本には「戰後民主主義」や紛ひの「自由」が配給された訣である。上述のレヴュー者は、その事實を認識してゐるのかどうか、頗る怪しい。さう/\、アメリカは、憲法さへも、違法な形で、吾國に「おしつけ」て來た訣だが、その「おしつけ」憲法に對して日本人の多くはどのやうに考へてゐるのか。少からず護憲派がゐるではないか。
「他人を助けようとして、自らが命を落とす事があってはならない」と云ふが、そのやうな人命尊重主義では、軍人は軍人たり得ないのである。何故ならば、幾ら訓練を積み、實戰經驗が豐富な軍人にしても、有事に於ては、「確實」と云ふ事はあり得ないからである。抑、件のレヴュー者は、「消防隊員、海難救助隊員、レスキュー隊員などは、相当の訓練を受けており」云々と書き、自衞官を省いてゐるのは、偶々か、それとも何らかの意圖あつての事か。加へて、(他にも同樣のレヴュー者がゐるが)キリスト教を、左迄、拒否するのは、何らかのイデオロギイが背景にあつての事か。その邊の事が氣になる(譬へば、他のレヴュー者の中には、「宗教は阿片」と明言してゐる者もゐるのである)。
トランプ政權に對しては、平和の「象徴の街」らしい被爆地・廣島でも不安の聲があがつてゐると云ふ。曰――
トランプ大統領就任 被爆地では不安の声も
これまで「アメリカの核能力の強化」を主張するなどしていたトランプ氏が、大統領に就任しました。
被爆地・広島では不安の声も上がっています。
トランプ大統領は、就任前の去年12月、自身のツイッターに「アメリカの核能力の強化」を主張する投稿をしていましたが、就任演説では核政策については言及しませんでした。
「世界の人がみんな平和で幸せになるように心から願っていますので、核の使用を心配しています。不安と期待と半々です」
「当然平和は誰であろうと大事なことではないかと思う。広島は象徴の街ですので、それだけは絶対に揺らいでは困るという感情を持っています」(以上 市民)
県被団協の坪井直理事長は、「現時点ではトランプ大統領の核政策についてのスタンスがはっきりしない。今後しっかりと見極めていく必要がある」と述べました。
「予想ではトランプ大統領は我々と同じ道ではないと思う。オバマ前大統領は同じ道。これからトランプ大統領が具体的にどういうことをやっていくかを注目していく」(県被団協・坪井直理事長)[2017.1.21 17:59]
――「平和の『象徴の街』らしい被爆地・廣島」と先述したが、原爆ドームとは、日本國や日本人の無力の象徴に過ぎず、それを觀光資源にしてゐる廣島人とは、自らの無力は、アメリカに補つて貰ひながらも、自身は、平和で飯を食ひ、その矛楯に氣附かない日本人を代表してゐる縣民、市民である。
一體、軍事的に無力な日本人、廣島人が、「しっかりと見極めて」「注目してい」き、それで、一體、何が出來ると云ふのか。
「犧牲的精神」を有せず、亦、その大事を理解も出來ず、他者や他國に「押附け」たいと思ふくらゐの「正義」を有しない日本人が、土臺、力を有するやうになる筈がない。そして、無力であり續ける日本人であれば、アメリカを「しっかりと見極めて」「注目してい」つた處で、無意味である。
と、茲迄、書いて、「押附け」と云ふ點で、先日書いた事と矛楯するではないかと云はれさうだが、結局の處、僞善的な言辭と云ふのは、長續きせず、眞實ではないと云ふ事である。自ら、感ずる事だが、矢張り、人間が人間である限り、正義に拘らざるを得ないのである。「正義を疑ふ」と云ふ日本人の多くこそが、人間性を失つてゐるのである。では、この私の正義とは何か。この大事に就いては、今後、考へて行きたい。