● きっかけ
若い頃まだ30才になる前の事、長崎にデパートがあってその宝石売場の販売手伝いに2週間ほど出張させられたことがあった。僕は営業部に属していたが全然センスがなくて、販売応援などに不向きな事は明らかだったが他に人手もなく、会社の決めた事に従うだけの僕の頭の中には今だから告白するが、全く仕事のことなど浮かんでこなかったのは事実である。当然のごとく出張前には「るるぷ長崎」を買い、一生のうちで行けるチャンスはほとんど無いだろう長崎という土地の情報を、行きたい順番にルートを組み立て覚えこんだ、取引先の売場情報は正直どんなだかは憶えてないと言うのに。こんな販売応援者が来るなんて先方は思ってもいなかったろう、何故なら、もし気づいていたら別の人間を寄こすように言ったはずだから。「あの~、今度来る人は余り経験が無いようなので別の人に代えたほうがよくはないですか」ぐらいは言ってくると思う。うちの社長も期待はしてなかったようだが、もうちょっとマシな仕事をすると思ったんだろね、仕方ない。まぁこれが僕の長崎行きを決めたんだから、ユルい会社には感謝しないと。そんなこんなで僕は長崎出張に出かけたわけだ。というよりは長崎旅行かな?
● 長崎チャンポン
最初の日はデパートに行き、挨拶して取ってもらったビジネスホテルに荷物を置いた。まだ時間があるのでぶらっと散策する。食事は中華街でと思って新地の有名店を目指した。横浜中華街と神戸南京町とで日本三大中華街だそうだ。何でも三大◯◯にするのは日本人の悪い癖だが、長崎に来たら真っ先にチャンポンを食べようと決めていたので、三大◯◯と関係無いのは好都合だ。何とか門をくぐり、目についた店に入ってビールと餃子、それにお目当のチャンポンを注文した。何で東京から来る客は皆んなチャンポンを頼むかと言うと、最近ではリンガーハットがあちこちにあって気軽にチャンポンを食べられるが、当時はやっぱり長崎と言えばチャンポンと言うくらい名前が売れていて、どんな味だか一度は食べたいなと思っていた。チャンポンが来るまでの間ビールをぐびぐびやって店の中を見回したが、ウィークデーのまだ早い時間だったせいか客が3~4人で、わんわん盛り上がる雰囲気じゃない。そのうちチャンポンが到着、どれどれって感じで味見するが別に感動するほどじゃなかった。チャンポンは味がどうこう言う料理ではなく、海鮮食材をたっぷり盛り込んだ太麵料理である、というのが僕の感想だ。不味くはない。しかし、サクサクっとしたキスや穴子の天ぷら・脂の乗ったトンカツ・カリッとした豚肉の生姜焼き・スパイスの効いた黒カレー・ニンニクたっぷりのペペロンチーノ・その他、想像しただけでたまらなくなる他の料理に比べると、格段にインパクトの落ちる「特に食べたいとは言えない」料理の部類に入るのだ、残念だが。こんなもんかな、と1人で結論付けて外に出た。当然である。チャンポンというのは調理法なので、ラーメンとかスパゲティとかいうのと一緒で美味い不味いの対象ではないのだ。取り敢えず入り口は分かったから、これから鮑チャンポンとかフカヒレチャンポンとか最高のチャンポンに出会うかもしれない。とにかく新しい料理は旅先で見つけるのに限る。リンガーハットではろくに覚えてないものが、長崎の新地で食べたチャンポンは30年経っても忘れないでいる。やっぱり食は何か特別な出来事と絡めてこそ記憶に残るので、味そのものが美味い不味いというのと違うのだろう。今では長崎の街の記憶は殆どがなくなっているが、チャンポンを腹いっぱい食べた思い出だけは残っている。と言っても、初めての九州出張で一番最初に食べた料理、それがチャンポンだったというわけ。
● 全然売れなくて店長もガックリ
ちなみに商売は全然ダメで、お客に寄ってゆくと逃げてしまう始末で店長も困っていた。3日くらい応援してたら先方の社長が見かねて、夜寿司に連れて行ってくれた。「どのくらいやってるの?」と聞かれたので「販売経験はまだないんですよ」と正直に答えた。「そうですか、まだねぇ」、社長は驚いた風でもなく思った通りのリアクションだった。「すいません、お役に立てなくて」と言ったが、それきり仕事の話はしなかったように記憶している。社長も諦めていたようだ。で、話は長崎の話になった。「どこか見に行きましたか?」「ええ、今度の水曜日にオランダ坂を歩いてみようと思ってます」「それはいい、ついでに大浦天主堂へ行ったら良いですよ」。僕の観光気分はとうにバレバレだったみたいで、お勧めのスポットを紹介してくれた。会社の売上不振が原因で5年くらいしか持たなかったのは僕だけのせいではなく、ありていに言えば会社全体の力量不足である。言い訳にしか聞こえないが、これは真実であった。つまり時には真実は、どうでも良い場合があると言いたかったのである。5年後に会社が倒産するとは夢にも知らず、とにかく僕は水曜日に行くオランダ坂を地図で確かめてあれこれ想像してみた。何でオランダ坂って言うのかな?
● オランダ坂
長崎は坂の多い町である。初めて貰った休みを使って、オランダ坂に行ってみた。出島とかのある歴史地区のあたりで案内板を頼りに探してようやくたどり着いたが、余りに人口に膾炙しているせいか特にこれと言って面白くもない普通の坂である。団子坂や神楽坂とさして変わらない「ここがオランダ坂かぁ」という程度で拍子抜けした。長崎は坂の町、ちょっと歩くだけで10や20の坂に出くわすそうだ。海に向かって急斜面が迫っている地形だから、自然と坂だらけになるのは当たり前。瀬戸内の尾道も坂の町で有名であるが長崎の方が町が大きいだけに、全体を一望するといった風情ある坂はどうもないようだ。しかし左右に並んでいる屋敷は昔ながらの造りのしっかりした家々で、情緒のある樹木と石畳の古びた景色が相まってさすがに名前に恥じないだけの感慨を与えてくれる。「龍馬もここを通ったのか」などとミーハーらしく幕末の動乱に思いを馳せていたら、やっと旅人気分が湧いてきた。オランダ坂は結構な急坂である。何かの雑誌で見たが、オランダ坂を登る旅人とすれ違う2人連れ女子高校生のツーショットが目前に蘇った。歴史とは女子高校生のようにキャッキャッ言って笑い転げる日常の脇に、ひっそりと生き続ける目立たぬ存在なのかも知れないな。オランダ坂はそんな普通の生活道路の坂である、特に何かがあるわけではなかった。ただ、名前に「オランダ」が入っていて何か異国の香りがするというだけのことである。もちろん由緒は色々あるのだろうが、わざわざ調べるほどではないし、調べたからといってオランダ坂の魅力が増すわけでもない。数ある長崎の坂のひとつ、僕はそう思って頂上のへんで振り返り、快晴の長崎港を眺めて一息ついた。長崎はやはり美しい町である。坂の傾斜角度と距離が絶妙なんだろな、きっと。坂は頂上で眺めるのが一番である。鎖国政策の中で外国との貿易を拡大し、繁栄と没落の狭間で無数の物語が生まれては消えた長崎という町をじっと眺め続けたオランダ坂は、僕には何も語らなかったが何となくその想いは伝わっている、と勝手に解釈した。旅は人それぞれ、十人十色である所に味がある。
● 大浦天主堂
オランダ坂で時間を食った僕は、目当ての大浦天主堂目指してぶらぶら歩いていった。グラバー邸も近いこの辺りは観光地のメッカで人も多く、大浦天主堂も予想どうりの混雑であった。と言うが僕は人混みの観光スポットは大嫌いなので、大浦天主堂は遠くから先端の十字架を眺めるだけで通り過ぎてしまった。転びバテレンや隠れキリシタンの踏み絵の話は、伝道の道のりの哀しく切ない物語である。遠くから眺めてその場所と建立の由来を思えば、異郷の地に布教を続けた宣教師個人個人の熱情とそれに答えた26聖人の純粋な宗教心はひとつの偉大なエピソードである。人々は何故キリスト教に救いを求めたのか。弾圧や拷問の果てに彼らが見たであろう永遠の都に実在する心の平安とは、言葉もままならぬ外国人の布教の熱心さだけではないだろう。食い詰めた農民やうらぶれた丁稚や行き着く先もない娼婦だけでなく、つましく平和に暮らしていた村民や下級武士をも含めた多くの平均的日本人の心に眩しい光を与えたキリストの教えとは何だったんだろう。日本には、先人の殉教で守り通したこのキリスト教は、とうとう西洋の如くには広まらなかった。近くは韓国・フィリピンでわずかに面目を保っているに過ぎないこのヘンテコリンな宗教が、ここ長崎で大浦天主堂を建て、細々と法灯を紡いできた歴史の不思議さには、また一つ人間の煩悩の深さを思い知らされて味わい深い。神道でも仏教でも何でもあっただろうに、選りに選ってキリスト教という馴染みのない一神教の虜となった凡百の民の願いは、果たして見事に叶えられたかどうかは僕には伺い知ることは出来ない。
● 外人墓地
大浦天主堂からほど近い崖の途中に、訪れる人もほとんどない外人墓地がある。僕は坂をくねくね登って見も知らぬ外国人の墓を見に行った。さすがにここまで来る観光客はいないのか、行き交う人もない急な崖の階段を登り降りしながら、幾つもの名前を刻んだ墓標の一つ一つを記憶の片隅に押し込んだ。斜面に海を見下ろすように置かれた質素な造りの墓の表面には、ロドリゲスとかピエルサとかカスティーヨといったスペイン・ポルトガル系と思しき名前が、故郷を離れ何千キロの東洋の彼方で肩寄せ合うようにして並んでいる。人は世界のどこに居ようと最後には、キリストの統治する天国に迎えられその人生の来し方を祝福されて、愛に包まれた後生を全うするそんな喜びに一点の迷いもない覚悟した明るさとともに、世界中の人類を包み込むキリストの力の大きさを今更ながら実感した。墓地の斜面の墓から眺める長崎の港は輪郭と陰影のはっきりした、地中海の気候が創り出した景色そのものに見えたであろう。この外人墓地に眠る人々は死ねば天国に行けると信じたとしても、束の間のこの世の最後の休息を、故郷に似た長崎の港の風景に心安らいで葬られることに多少なりとも安堵したに違いない。家族との天国での再会を夢見て逝ったであろう異人達の墓の列に短い黙祷と別れを告げて、僕は再び大浦天主堂へ続く坂道をゆるゆると下っていった。木々の間から見え隠れする長崎の街並みは静かで、色とりどりの瓦屋根がキラキラ光を反射している。遠くトロリーバスの姿が見えたかと思ったら、だんだん小ちゃくなって右手の方に消えて行った。さてと今日はどうしようか、明日はデパートの宝石売り場でまた頑張らなきゃと思うと、何とは無しにちょっとばかり深酒したい気分の夜になりそう。
若い頃まだ30才になる前の事、長崎にデパートがあってその宝石売場の販売手伝いに2週間ほど出張させられたことがあった。僕は営業部に属していたが全然センスがなくて、販売応援などに不向きな事は明らかだったが他に人手もなく、会社の決めた事に従うだけの僕の頭の中には今だから告白するが、全く仕事のことなど浮かんでこなかったのは事実である。当然のごとく出張前には「るるぷ長崎」を買い、一生のうちで行けるチャンスはほとんど無いだろう長崎という土地の情報を、行きたい順番にルートを組み立て覚えこんだ、取引先の売場情報は正直どんなだかは憶えてないと言うのに。こんな販売応援者が来るなんて先方は思ってもいなかったろう、何故なら、もし気づいていたら別の人間を寄こすように言ったはずだから。「あの~、今度来る人は余り経験が無いようなので別の人に代えたほうがよくはないですか」ぐらいは言ってくると思う。うちの社長も期待はしてなかったようだが、もうちょっとマシな仕事をすると思ったんだろね、仕方ない。まぁこれが僕の長崎行きを決めたんだから、ユルい会社には感謝しないと。そんなこんなで僕は長崎出張に出かけたわけだ。というよりは長崎旅行かな?
● 長崎チャンポン
最初の日はデパートに行き、挨拶して取ってもらったビジネスホテルに荷物を置いた。まだ時間があるのでぶらっと散策する。食事は中華街でと思って新地の有名店を目指した。横浜中華街と神戸南京町とで日本三大中華街だそうだ。何でも三大◯◯にするのは日本人の悪い癖だが、長崎に来たら真っ先にチャンポンを食べようと決めていたので、三大◯◯と関係無いのは好都合だ。何とか門をくぐり、目についた店に入ってビールと餃子、それにお目当のチャンポンを注文した。何で東京から来る客は皆んなチャンポンを頼むかと言うと、最近ではリンガーハットがあちこちにあって気軽にチャンポンを食べられるが、当時はやっぱり長崎と言えばチャンポンと言うくらい名前が売れていて、どんな味だか一度は食べたいなと思っていた。チャンポンが来るまでの間ビールをぐびぐびやって店の中を見回したが、ウィークデーのまだ早い時間だったせいか客が3~4人で、わんわん盛り上がる雰囲気じゃない。そのうちチャンポンが到着、どれどれって感じで味見するが別に感動するほどじゃなかった。チャンポンは味がどうこう言う料理ではなく、海鮮食材をたっぷり盛り込んだ太麵料理である、というのが僕の感想だ。不味くはない。しかし、サクサクっとしたキスや穴子の天ぷら・脂の乗ったトンカツ・カリッとした豚肉の生姜焼き・スパイスの効いた黒カレー・ニンニクたっぷりのペペロンチーノ・その他、想像しただけでたまらなくなる他の料理に比べると、格段にインパクトの落ちる「特に食べたいとは言えない」料理の部類に入るのだ、残念だが。こんなもんかな、と1人で結論付けて外に出た。当然である。チャンポンというのは調理法なので、ラーメンとかスパゲティとかいうのと一緒で美味い不味いの対象ではないのだ。取り敢えず入り口は分かったから、これから鮑チャンポンとかフカヒレチャンポンとか最高のチャンポンに出会うかもしれない。とにかく新しい料理は旅先で見つけるのに限る。リンガーハットではろくに覚えてないものが、長崎の新地で食べたチャンポンは30年経っても忘れないでいる。やっぱり食は何か特別な出来事と絡めてこそ記憶に残るので、味そのものが美味い不味いというのと違うのだろう。今では長崎の街の記憶は殆どがなくなっているが、チャンポンを腹いっぱい食べた思い出だけは残っている。と言っても、初めての九州出張で一番最初に食べた料理、それがチャンポンだったというわけ。
● 全然売れなくて店長もガックリ
ちなみに商売は全然ダメで、お客に寄ってゆくと逃げてしまう始末で店長も困っていた。3日くらい応援してたら先方の社長が見かねて、夜寿司に連れて行ってくれた。「どのくらいやってるの?」と聞かれたので「販売経験はまだないんですよ」と正直に答えた。「そうですか、まだねぇ」、社長は驚いた風でもなく思った通りのリアクションだった。「すいません、お役に立てなくて」と言ったが、それきり仕事の話はしなかったように記憶している。社長も諦めていたようだ。で、話は長崎の話になった。「どこか見に行きましたか?」「ええ、今度の水曜日にオランダ坂を歩いてみようと思ってます」「それはいい、ついでに大浦天主堂へ行ったら良いですよ」。僕の観光気分はとうにバレバレだったみたいで、お勧めのスポットを紹介してくれた。会社の売上不振が原因で5年くらいしか持たなかったのは僕だけのせいではなく、ありていに言えば会社全体の力量不足である。言い訳にしか聞こえないが、これは真実であった。つまり時には真実は、どうでも良い場合があると言いたかったのである。5年後に会社が倒産するとは夢にも知らず、とにかく僕は水曜日に行くオランダ坂を地図で確かめてあれこれ想像してみた。何でオランダ坂って言うのかな?
● オランダ坂
長崎は坂の多い町である。初めて貰った休みを使って、オランダ坂に行ってみた。出島とかのある歴史地区のあたりで案内板を頼りに探してようやくたどり着いたが、余りに人口に膾炙しているせいか特にこれと言って面白くもない普通の坂である。団子坂や神楽坂とさして変わらない「ここがオランダ坂かぁ」という程度で拍子抜けした。長崎は坂の町、ちょっと歩くだけで10や20の坂に出くわすそうだ。海に向かって急斜面が迫っている地形だから、自然と坂だらけになるのは当たり前。瀬戸内の尾道も坂の町で有名であるが長崎の方が町が大きいだけに、全体を一望するといった風情ある坂はどうもないようだ。しかし左右に並んでいる屋敷は昔ながらの造りのしっかりした家々で、情緒のある樹木と石畳の古びた景色が相まってさすがに名前に恥じないだけの感慨を与えてくれる。「龍馬もここを通ったのか」などとミーハーらしく幕末の動乱に思いを馳せていたら、やっと旅人気分が湧いてきた。オランダ坂は結構な急坂である。何かの雑誌で見たが、オランダ坂を登る旅人とすれ違う2人連れ女子高校生のツーショットが目前に蘇った。歴史とは女子高校生のようにキャッキャッ言って笑い転げる日常の脇に、ひっそりと生き続ける目立たぬ存在なのかも知れないな。オランダ坂はそんな普通の生活道路の坂である、特に何かがあるわけではなかった。ただ、名前に「オランダ」が入っていて何か異国の香りがするというだけのことである。もちろん由緒は色々あるのだろうが、わざわざ調べるほどではないし、調べたからといってオランダ坂の魅力が増すわけでもない。数ある長崎の坂のひとつ、僕はそう思って頂上のへんで振り返り、快晴の長崎港を眺めて一息ついた。長崎はやはり美しい町である。坂の傾斜角度と距離が絶妙なんだろな、きっと。坂は頂上で眺めるのが一番である。鎖国政策の中で外国との貿易を拡大し、繁栄と没落の狭間で無数の物語が生まれては消えた長崎という町をじっと眺め続けたオランダ坂は、僕には何も語らなかったが何となくその想いは伝わっている、と勝手に解釈した。旅は人それぞれ、十人十色である所に味がある。
● 大浦天主堂
オランダ坂で時間を食った僕は、目当ての大浦天主堂目指してぶらぶら歩いていった。グラバー邸も近いこの辺りは観光地のメッカで人も多く、大浦天主堂も予想どうりの混雑であった。と言うが僕は人混みの観光スポットは大嫌いなので、大浦天主堂は遠くから先端の十字架を眺めるだけで通り過ぎてしまった。転びバテレンや隠れキリシタンの踏み絵の話は、伝道の道のりの哀しく切ない物語である。遠くから眺めてその場所と建立の由来を思えば、異郷の地に布教を続けた宣教師個人個人の熱情とそれに答えた26聖人の純粋な宗教心はひとつの偉大なエピソードである。人々は何故キリスト教に救いを求めたのか。弾圧や拷問の果てに彼らが見たであろう永遠の都に実在する心の平安とは、言葉もままならぬ外国人の布教の熱心さだけではないだろう。食い詰めた農民やうらぶれた丁稚や行き着く先もない娼婦だけでなく、つましく平和に暮らしていた村民や下級武士をも含めた多くの平均的日本人の心に眩しい光を与えたキリストの教えとは何だったんだろう。日本には、先人の殉教で守り通したこのキリスト教は、とうとう西洋の如くには広まらなかった。近くは韓国・フィリピンでわずかに面目を保っているに過ぎないこのヘンテコリンな宗教が、ここ長崎で大浦天主堂を建て、細々と法灯を紡いできた歴史の不思議さには、また一つ人間の煩悩の深さを思い知らされて味わい深い。神道でも仏教でも何でもあっただろうに、選りに選ってキリスト教という馴染みのない一神教の虜となった凡百の民の願いは、果たして見事に叶えられたかどうかは僕には伺い知ることは出来ない。
● 外人墓地
大浦天主堂からほど近い崖の途中に、訪れる人もほとんどない外人墓地がある。僕は坂をくねくね登って見も知らぬ外国人の墓を見に行った。さすがにここまで来る観光客はいないのか、行き交う人もない急な崖の階段を登り降りしながら、幾つもの名前を刻んだ墓標の一つ一つを記憶の片隅に押し込んだ。斜面に海を見下ろすように置かれた質素な造りの墓の表面には、ロドリゲスとかピエルサとかカスティーヨといったスペイン・ポルトガル系と思しき名前が、故郷を離れ何千キロの東洋の彼方で肩寄せ合うようにして並んでいる。人は世界のどこに居ようと最後には、キリストの統治する天国に迎えられその人生の来し方を祝福されて、愛に包まれた後生を全うするそんな喜びに一点の迷いもない覚悟した明るさとともに、世界中の人類を包み込むキリストの力の大きさを今更ながら実感した。墓地の斜面の墓から眺める長崎の港は輪郭と陰影のはっきりした、地中海の気候が創り出した景色そのものに見えたであろう。この外人墓地に眠る人々は死ねば天国に行けると信じたとしても、束の間のこの世の最後の休息を、故郷に似た長崎の港の風景に心安らいで葬られることに多少なりとも安堵したに違いない。家族との天国での再会を夢見て逝ったであろう異人達の墓の列に短い黙祷と別れを告げて、僕は再び大浦天主堂へ続く坂道をゆるゆると下っていった。木々の間から見え隠れする長崎の街並みは静かで、色とりどりの瓦屋根がキラキラ光を反射している。遠くトロリーバスの姿が見えたかと思ったら、だんだん小ちゃくなって右手の方に消えて行った。さてと今日はどうしようか、明日はデパートの宝石売り場でまた頑張らなきゃと思うと、何とは無しにちょっとばかり深酒したい気分の夜になりそう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます