明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史喫茶店(41)よせばいいのにまたしても邪馬台国

2024-06-08 18:00:44 | 歴史・旅行

こないだ Amazon の読み放題で亀山忠夫著「倭国・日本 古代史入門:邪馬台国・・・」という本を見つけ、また興味が湧いて早速ダウンロードした。もう宿痾です(笑)。ところがこの亀山忠夫という人、意外と鋭い感性の持ち主で「ズバッ」と正論を述べるから堪りません。最初の数ページを読んだだけで初心者の私なぞはもう「心酔」してしまった程です。

例えば例の邪馬台国への道程の説明では魏使の目的地は「伊都国」であり、邪馬台国へは行かなかった説を展開しています。だから伊都国までは「経由地」を順々と辿って道順に従って書いていますが、伊都国以降の奴国や不弥国や投馬国そして邪馬台国などは「伊都国を起点」として放射状に方角と距離を書いている、と言うわけです。これは外国人が羽田に着いて新幹線に乗り、名古屋・京都と経由して大阪に到着・宿泊したようなもんです。そして神戸へは〇〇、和歌山へは〇〇、高知へ行くには船に乗って〇〇と行き方を説明した、という書き方ですね。実に明解な、マジ説得力のある話ではないですか?

実はまだ30頁ほど読んだだけだですが、この著者の余りにも平易な語り口に「心底まいった!」と言わずにはいられなかったのでついつい書いてしまいました。この先この著者が「どれ程スリリングな展開」を用意しているかと思うと、頁をめくるのが待ち切れないです!

というわけで、今日はここまで。次回は読了後にアップします。

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このままではちょっと短いので、おまけで私の今考えている古代史の問題点を書き出して見ました。最初にここ数か月で考えた事を書いてみたので、暇つぶしのついでにお読みください。

1、邪馬台国は九州で決まり
紀元3世紀頃の列島は博多湾岸と出雲がそれぞれ地域でまとまってリーダーがおり、両方別々に朝鮮半島と通交していたんじゃないだろうか。邪馬台国は有明海沿岸でやや中心から外れていたと思う。今回の亀山忠夫著の本の説明では邪馬台国というのは一つの国として30余国を統率していたのではなく、邪馬台国連合という国の集まり=グループの「象徴的リーダー」として卑弥呼を皆が戴いていて、実態は「いち女王国」であり、国として周囲の国を屈服させる程の強大な軍団・戦闘力があったわけではない、という説だ。納得である。

2、倭の五王の「武」は九州人
記紀は年代的に倭の五王を履中から雄略に比定しているが、五王が中国から再三にわたって叙爵を求めている文書を見ると朝鮮半島に相当入れ込んでいるというのがモロに伺えるのである。それに対して記紀の書き方はのんびりした国内のエピソードばっかりで、朝鮮半島に幾度となく侵入し対峙している緊迫感が全く見られないのだ。これはどう見ても別人・別の国と見るのが妥当だろう。ちなみに後の継体天皇が磐井の乱の時に物部麁鹿火に「西はお前が取れ、東は俺が取る」と言ったというのを見ると、この時点で九州はまだ「近畿政権の範囲外」だったのは明らかである。大体が阿毎多利思北孤の俀国は古の委奴国と言っているので、そもそも近畿天皇家は無関係だ。それに法隆寺は九州の観世音寺を移築したもので、聖徳太子は九州人というのも定説である。こう見て来ると一部の似非歴史学者とマスコミが近畿天皇家が神武以来の万世一系を信奉しているのがちゃんちゃら可笑しくって、いつまでやるのか「見物」だねぇと笑ってしまう。そろそろ学校でも本当の歴史を教える時だと思うけど、出来ないのかねぇ。

3、天智天皇は百済人
欽明天皇が近畿で政権を取って以来天皇位は崇峻・推古と受け継がれて、推古で欽明政権は終わった(古事記が推古で終わっているのはその理由である)。その後、舒明天皇は蘇我氏の傀儡として誕生した。実態は蘇我天皇とでも言っても良いかも(これはあくまで近畿天皇家の話で、倭国は九州で健在だったと私は思っている)。で、舒明天皇の死の後に妻の皇極天皇が即位した事になっているが、この段階で既に蘇我入鹿が近畿天皇家のリーダーであり、皇極天皇が天皇として実権を振るっていたというのは怪しいと私は思う。そんな状況を打開しようとして孝徳天皇が「乙巳の変」を仕掛けた。首謀者は孝徳天皇であり、中大兄と中臣鎌足などは実行役に過ぎないんじゃないかと想像している。まあこの辺は天智天皇の実像が暴かれるまでは歴史の闇の中で微かに窺い知ることが出来るだけだが、ただ「韓人が鞍作を殺した」という文言が書記に残されている事を考えると、中大兄は韓人つまり百済人というのは「もう確定」じゃないだろうか。勿論孝徳天皇も百済人の可能性は大だが、彼は現場にいなかったので候補からは外されると思う。書記が天智天皇を謎めいた人物に仕立て上げている点や、それにも関わらず桓武天皇が天智天皇を「始祖」と崇めている点などを考慮すると、蘇我氏から天武政権になって文武から聖武・孝謙(称徳)へと続いた皇統は光仁・桓武で「帰化人系(百済)の政権」になって今に続いている、という超オドロキの結論にならざるを得ないのだ(勿論、その間に天皇家も途切れて実は別の系統になってるって話があり、本当の話は分からない)。

この他には「未解決の問題点」として特に解明が待たれるのが「持統天皇」の存在である。持統天皇は本当は天皇じゃなかった、というのがポイントだと思う。例えば・・・
① 34回もの吉野行は奈良の吉野じゃなかった説
② 葛野王の懐風藻のエピソードを素直に読めば、持統は天皇の実権がなかった説
③ 聖武天皇登位への元明・元正の必死の工作はどうやって実行されたのか。普通なら反乱が起きるレベルだが、藤原氏の権力基盤は盤石だったのかも
④ 日本書紀のコンセプト作りにどれだけ持統が関わっていたのか、そんなに政治を牛耳る能力を彼女が持っていたというのも俄かには信じがたい
⑤ 結局持統は天武系か天智系か?、それとも全く別の第三の勢力なのか?
などなどです。

以上、私の古代史はまだまだ続く・・・筈です!



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