昨日、未来に残したい日本の名曲100選という番組があった。どうせつまらない番組と思ってちょっと見るつもりが、とうとう最後まで見てしまった。あの大ヒット歌手がステージに出てくるという懐かしさに惹かれたのでは無い。古い当時の映像が出てくるのを見て若かったあの頃の思い出に浸りたかったのである。さすがに昭和40年代は古すぎるが、50年代つまり私の20代になると色々と忘れていた事柄を思い出させてくれる。「歌は世に連れ~」ではないが、時代と個人の記憶とが交じりあって一種のノスタルジックな空間が生まれているとさえ思えた。ただ惜しむらくは番組のターゲット層がやや一般的な意味での歌手のファンであって、私のような純粋な音楽ファンでは無いのがちょっとがっかりである。
結局見るべきものは少なく、曲の選定基準もよく分からずだったし、ライブ映像でスタジオに出てくるお懐かしい面々は、痛々しい老人と化して僅かに面影を残すのみの「歴史の一部」であったのは惜しい。このような姿をファンに(というのもファンは昔のイメージを大切にして生きてきたのであるから)見せるべきでは無いと思う。最後に出てきたぴんからトリオ宮史郎の映像は、パフォーマンスなのかどうなのか分からないほどの小刻みな身体の震えが止まらなくて、正視に耐えなかった。彼はほどなくして亡くなったそうだが、人生最後の晴れ舞台というのもそれなりの物が無ければ見るべき価値はないだろう。本人には可哀想だが。以前見たサミー・デイビス・ジュニアの最後を有名歌手が総出でお祝いした映像のような、暖かく心温まるステージのような感動を呼ぶものにはなっていなかった。
そんな中でも2、3の歌は当時のままの映像が流れ、若かった私の心に何か新しいものへの期待を抱かせるものだったことを思い出させてくれた。もちろん洋楽中心でブラザーズフォアとかPPMとかが流行っていて、ビートルズもベンチャーズもGSも人気があった。当時は皆と同様に私もエレキギターを買ってもらったが、ボディに細かいひび割れがびっしり入っていて、母が「これはおかしい」と言って返品するというのを「エレキだからこうなっているんだよ」などと、訳のわからない言い訳をしていた私はおバカな子供であった。結局取り替えてもらったが、母はしっかりしてたなと今でも思う。
母の思い出でもう一つ、今は裁判官という職業についている弟だが、子供の頃に防水時計を買ってもらった時の事である。「ほんとに防水かどうか、お風呂に沈めてみる」と言い出したそうだ。母は買ったばかりの新品の時計を風呂に入れるなんてとんでもないと弟を説得しようとしたのだが、どうしても沈めてみると言って言うことを聞かない。困り果てた母は「じゃあ首をつったら死ぬかどうか調べるのに、お前は試しに首つるのか?」といって、ようやく弟を納得させたという。母は笑いながら話してくれたが、何事も理路整然としていなければ気が済まない気性が今の私を作っているのだと思って、いまさらながら母に感謝である。
脇道にそれてしまったが元に戻って、昨日の番組に出てきた中で歌の上手い歌手三人をあげろと言われたら、躊躇せずに「越路吹雪・都はるみ・八代亜紀」の三人を挙げたい。ディナーショーかなんかあったら行ってみたい歌手である(もちろん当時、という但し書がつくが)。それぞれ、歌を対象として見ている歌手であるのがその理由。歌の世界に自分が入り込んでしまい観客の一人になるのではなく、冷徹な計算と技術で歌を造型する「本物の歌手」である。私はこういうスタイルの歌手が好きだ。クラシックの歌手、特にモーツァルトのアリアを歌う歌手に要求されるものは感情の表出ではなく、歌をきちんと歌える芸術家であることが求められている。その意味では八代亜紀などは演歌ではあるが、実に基礎がしっかりとしていて聞いていて気持ちが良い。
もう一つ、歌手ではなく楽曲に感心したのは、杏里の「オリビアを聞きながら」だった。当時は洋楽専門だった私だが、今聞いてみるとなかなか味のある良い曲である。特に歌詞がいい。当時のアンニュイな雰囲気を見事に描いて、時代感覚だなぁと思う。たまにはこういう企画物も聞いてみると、思いがけなく新しい発見があるものである。だがCDを買うかというと、それほどでもない。テレビやラジオでで「ふと流れてきた程度」で丁度いい。思い出とは、何かの拍子に思い出すのがいいと思う。「故郷は遠くにありて想うもの~」とは、室生犀星の名歌だ。年中聞いているとダメになる、つまり風化してしまう。だから私はiPhoneに昔の好きだった曲を200曲ほど入れているが、聞くのは年に一度あるかないかである。この次聞くのはいつのことやら。だが聞きたい時に入ってないと困るので、「大人のバラード」とかの通販のコンピレーションCDを買おうと思っている。今度はそれに演歌も加えてみようかな、と考え中だ。八代亜紀をじっくり聞いてみたい、というのが狙いである。
結局見るべきものは少なく、曲の選定基準もよく分からずだったし、ライブ映像でスタジオに出てくるお懐かしい面々は、痛々しい老人と化して僅かに面影を残すのみの「歴史の一部」であったのは惜しい。このような姿をファンに(というのもファンは昔のイメージを大切にして生きてきたのであるから)見せるべきでは無いと思う。最後に出てきたぴんからトリオ宮史郎の映像は、パフォーマンスなのかどうなのか分からないほどの小刻みな身体の震えが止まらなくて、正視に耐えなかった。彼はほどなくして亡くなったそうだが、人生最後の晴れ舞台というのもそれなりの物が無ければ見るべき価値はないだろう。本人には可哀想だが。以前見たサミー・デイビス・ジュニアの最後を有名歌手が総出でお祝いした映像のような、暖かく心温まるステージのような感動を呼ぶものにはなっていなかった。
そんな中でも2、3の歌は当時のままの映像が流れ、若かった私の心に何か新しいものへの期待を抱かせるものだったことを思い出させてくれた。もちろん洋楽中心でブラザーズフォアとかPPMとかが流行っていて、ビートルズもベンチャーズもGSも人気があった。当時は皆と同様に私もエレキギターを買ってもらったが、ボディに細かいひび割れがびっしり入っていて、母が「これはおかしい」と言って返品するというのを「エレキだからこうなっているんだよ」などと、訳のわからない言い訳をしていた私はおバカな子供であった。結局取り替えてもらったが、母はしっかりしてたなと今でも思う。
母の思い出でもう一つ、今は裁判官という職業についている弟だが、子供の頃に防水時計を買ってもらった時の事である。「ほんとに防水かどうか、お風呂に沈めてみる」と言い出したそうだ。母は買ったばかりの新品の時計を風呂に入れるなんてとんでもないと弟を説得しようとしたのだが、どうしても沈めてみると言って言うことを聞かない。困り果てた母は「じゃあ首をつったら死ぬかどうか調べるのに、お前は試しに首つるのか?」といって、ようやく弟を納得させたという。母は笑いながら話してくれたが、何事も理路整然としていなければ気が済まない気性が今の私を作っているのだと思って、いまさらながら母に感謝である。
脇道にそれてしまったが元に戻って、昨日の番組に出てきた中で歌の上手い歌手三人をあげろと言われたら、躊躇せずに「越路吹雪・都はるみ・八代亜紀」の三人を挙げたい。ディナーショーかなんかあったら行ってみたい歌手である(もちろん当時、という但し書がつくが)。それぞれ、歌を対象として見ている歌手であるのがその理由。歌の世界に自分が入り込んでしまい観客の一人になるのではなく、冷徹な計算と技術で歌を造型する「本物の歌手」である。私はこういうスタイルの歌手が好きだ。クラシックの歌手、特にモーツァルトのアリアを歌う歌手に要求されるものは感情の表出ではなく、歌をきちんと歌える芸術家であることが求められている。その意味では八代亜紀などは演歌ではあるが、実に基礎がしっかりとしていて聞いていて気持ちが良い。
もう一つ、歌手ではなく楽曲に感心したのは、杏里の「オリビアを聞きながら」だった。当時は洋楽専門だった私だが、今聞いてみるとなかなか味のある良い曲である。特に歌詞がいい。当時のアンニュイな雰囲気を見事に描いて、時代感覚だなぁと思う。たまにはこういう企画物も聞いてみると、思いがけなく新しい発見があるものである。だがCDを買うかというと、それほどでもない。テレビやラジオでで「ふと流れてきた程度」で丁度いい。思い出とは、何かの拍子に思い出すのがいいと思う。「故郷は遠くにありて想うもの~」とは、室生犀星の名歌だ。年中聞いているとダメになる、つまり風化してしまう。だから私はiPhoneに昔の好きだった曲を200曲ほど入れているが、聞くのは年に一度あるかないかである。この次聞くのはいつのことやら。だが聞きたい時に入ってないと困るので、「大人のバラード」とかの通販のコンピレーションCDを買おうと思っている。今度はそれに演歌も加えてみようかな、と考え中だ。八代亜紀をじっくり聞いてみたい、というのが狙いである。
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