明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史喫茶店(13)斉藤忠「日本古代史の謎」を読む(その8)

2019-12-08 21:43:04 | 歴史・旅行
1、大宝改元と易姓革命
新唐書の長安元年に「その王文武立ち、大宝と改元す」とある。日本書紀によれば文武は697年の即位だ。また正規の歴史書「続日本紀」によれば、大宝改元は701年である。普通、元号を新しく制定する場合は「初めて元号を立てる」というはずだが改元と言っている以上は、「その前にも元号群があった」と考えなければ辻褄が合わない。九州年号に「大化」という年号が有り、695年から701年まで6年間続いているから、大宝は大化の次の年号である。つまり文武は、あくまで「九州王統を継いでいる」と考えるのが順当だ。

大宝の前にも日本書紀には「いわゆる大化・白雉・朱鳥」などの、切れ切れの年号らしきものが散見されている。しかし、これは「よその年号を又聞きして書いている」ので、間が飛んでいるのである。飛んでいる部分は〇〇天皇何年などと、日本国の呼び方で書かれているのだ。年号を立てる権限が日本国になかったことの証拠である(自前の年号なら間は開かない)。年号は九州皇統の天子にしか許されない行為だったのではないだろうか。その意味では、持統は「まだ九州王朝の天皇では無かった」と言える。高市皇子がなくなって「本来なら」息子の長屋王が後を継ぐのだがそうならなかったのは、草壁皇太子・文武こと珂瑠皇子ら「九州王朝の血を受け継ぐ皇子達」がいたからである。

高市天皇は各種改革を断行し九州王統を守って頑張っているさなか、696年になくなった。「王統を保つという意味」の持統は、高市天皇の事だとする歴史家もいるそうである(名前はど忘れした、小林恵子氏だったような)。686年の博多湾岸大地震の後に九州から大和へと大勢の人が移住した事実がある(斎藤忠説による)。新益京(藤原京)が建設されて出来上がった頃を見計らって新天皇即位が行われたとするならば、この697年に文武が「大和」で即位したとも考えられる。草壁皇太子が九州日下部氏に養育されたのと異なり、元々が大和人の環境下で育てられた文武にしてみれば、気心の知れた大和の地で即位し、その後大宝を建元したことになる。

2、天武天皇の戦闘開始は既定路線
私は日本の古代史において、どうしても解きたい3つの謎を抱えていた。その一つは「天武天皇は壬申の乱の時に、赤い旗を使用していた」という言い伝えである。漢の高祖に自らを擬えていたとされるが、中年になるまでグータラしていた劉邦と、大海人皇子のイメージはどうも一致しない。第一そんな天武天皇に、天智天皇が4人もの娘を嫁がせているというのが不可解である。私は漢の高祖ではなく「漢の武帝」の真似だろうと考えて納得したことがあるが(前々回の記事参照)、未だに全面的解決には至ってない。恐らくは、九州王朝の偉大な歴史をつなぐ者としての意識が、「九州王家の色として赤を選んだ」のだろうと思っている。相手はその九州王朝を「簒奪した」天智天皇と、息子大友皇子(後に弘文天皇と贈り名される)だ。

斉藤忠の本に、天武天皇の挙兵時期についての考察がある。670年頃に、天智天皇は倭国を改めて「日本国」とした。ちなみに隋書と旧唐書は多利思北孤の属する九州倭国の王統の姓を「阿毎」と号し、宋史は天智天皇の後継である平安皇統の姓を「王」としているらしい。とすると現令和天皇家の姓は「王」ということになる!(本当は何というのか死ぬまでに一度聞いて見たい)。元々天智天皇系の祖先は韓半島からの渡来人だという説も根強く残っているから、強ちデタラメと一笑に付すのは難しい。

それはともかくとして、662年の白村江の大勝利の後、666年正月に泰山で封禅を行った唐は、倭国を完全に属国化した。それを受けて、667年まで称制を取っていた天智天皇が晴れて新たに「唐の冊封」を受け、日本国王に即位したのである(天智天皇が称制を取っていた謎は、これで解明)。以来、日本を仕切っている天智天皇大和王朝は、663年5月から6次に渡る唐の占領軍駐留を受け入れる。669年には郭務棕が要員2000人と共に来日。翌670年には李守真が正月から7月まで逗留している。同11月にも郭務棕が再度要員600人と百済人1400人を連れて来日し、翌5月までいた。この時期に天智天皇の「日本国」は、唐の郭務棕等の戦勝国の「侵略を恐れ」て各地に山城を築き、近江に都を移すなどの対抗策を取っていたのでは「全く無く」て、むしろ宴会で歓待したり、豪勢な褒美を与えたりして「大親密」になっていたのだ。公地公民や班田収授など中央集権化が改革の名の下に一気に進められたのは「この時期」である。

この670年11月郭務棕の来日の時に「唐に抑留されていた九州の天子、サチヤマ」が帰ってきた。天武天皇はサチヤマの帰還後「急に動き出した」ように見え、一方で日本は「翌年、郭務棕が帰って」から、唐との交渉は30年ほどなくなってしまう。サチヤマは帰還したという記事があるだけで、その後の消息は一切分かっていない。翌671年天智天皇が死去して大海人皇子が吉野に入り、歴史始まって以来の大戦争「壬申の乱」が起きた、とされる。斉藤忠が言うように、唐の倭国占領・日本属国化政策が天智天皇の政権の後押しをしたと見るならば、671年5月の郭務棕の帰国を機に「後ろ盾を失った天智政権を倒し」て、再び倭国九州王統を復活したのは「所定」の行動であったろう。

復権九州王朝の首都は再び「太宰府」に置かれ、草壁皇太子が第二代を継ぐはずであった。当然サチヤマは「上皇」として太宰府の近く、例えば「吉野」あたりに居たと思われる。つまり、九州の吉野(=吉野ケ里)である。

3、持統天皇の31回もの吉野行き
私の2つ目の謎は、持統天皇の吉野行きだ。日本書紀の記事で、持統天皇の行動に不可解な点が見られる、という話である。持統天皇は31回も「吉野行幸」をしている。それも定期的に「1月から12月まで、各月満遍なく」行っているのだ。日本書紀には目的は書いて無く、ただ吉野に行き、何日か後に帰ってきたと「素っ気なく」書いているだけである。まるで自分の家があるかのように。ご承知のように、大和の吉野は「桜」以外に見るものもない山里である。そこに天皇が31回も毎月のように言っていたというのは、流石に不可思議ではないか。このことを最初に言い出したのは、日本歴史学における巨星「古田武彦教授」である。古田教授はその時期「吉野にいた唐の占領軍の将と折衝していた」と書いているが、斉藤忠によれば唐の要員は671年の壬申の乱勃発時には、5月に日本から引き上げている。唐は668年に高句麗を滅ぼして朝鮮半島経営を本格的にしていこうという頃であり、徐々に新羅との提携が上手く行かなくなってきている時期である。

私は斉藤忠の説に賛成で、高市皇子が亡くなってから文武天皇を補佐する有力なブレーンがいなくなって、それで吉野にいる「上皇サチヤマ」の権威に縋ったのではないかと想像する。毎月のように吉野に行幸していたのは、「天武天皇との懐かしい思い出に浸る」などというロマンチックな話ではなく、復活九州王朝を必死に支えていこうとする女王が「サチヤマの助言を求めて」上皇詣でをしていた、というのが真相であろう。これで2つ目も一応解決である。

4、則天武后の意に沿うため大和に引っ越した?
文武が、九州倭国王統の天武天皇直系の孫ではなく、むしろ「白村江で倭国を裏切った日本国」の天智天皇直系(天智ー持統ー元明ラインの女系)であると説明して、その証拠に「大和に首都を移転」した、という考えもある。天智天皇は670年頃に倭国を改めて、「日本国」を宣言した。ところが旧唐書では、「倭国」と「日本国」を併記しており、倭国は「古倭奴国也」と断じている。倭国は648年に上表したのを最後に唐との交渉が途絶えているのだ。

一方、日本国は703年に初めて国使を派遣してきた国で、「倭国之別種也」と説明し、2つは違う国だと峻別している。この話を聞いた日本国は、驚くと同時に「日本の歴史をきちんと説明する必要がある」と考えたのではないだろうか。それで急いで日本書紀を作り上げ、奝然を説明役に派遣して、天照大神から始まって神武・綏靖以下の一連の大和皇統譜と王年代記を上表したのである。これを見た「宋の太宗」はその連綿と続く天壌無窮の皇統に感激し、その意をくんだ新唐書が正式に撰進された。

私の3つ目の謎は、何故「完璧なまでに歴史を改竄し得た」のか?、である。唐(および中国王朝)に敵対した九州王朝ではなく、我々は大和王朝であるということを主張し続けるために国を挙げて誤魔化し続けた結果が「九州王朝の抹殺・歴史の改竄」となっていた。だから当の九州人も含めて、皆九州の歴史を分かった上で、ウソの日本史を提出していることに目をつぶったのである。一部の九州人は政権のやり方に反対して山野に逃れた者もあったようであるが、結局は禁書や焚書という方法で歴史を「うやむや」にしたのであろう。やむにやまれぬ対中国の政策ではあるが、サチヤマが存命中であれば、許しはしなかった筈だ。天武・草壁・高市の九州皇統の流れは、文武天皇の代で大きく日本国に舵を切ったのである。

聖武天皇から称徳女王までの天武朝は、そのウソをつきとおした。そして桓武天皇新政権はその天武朝断絶を受けて、光仁天皇以来の「天智天皇男子直系」であることを前面に押し出して、晴れて大和日本国の皇統を名乗ったのである。九州皇統の血は完全に断絶した。桓武天皇が「郊祀」という世紀の行事を執り行うことで、そのことを内外に知らしめたとも言える。泉涌寺が天智天皇の後、光仁天皇・桓武天皇と続いていて、「天武天皇以下8人の天皇が欠けている」のは歴史的に見ても、大きな意味があるのである。

5、橘三千代は九州人
以前、藤原不比等の奥さん「橘三千代」が大和人だと書いた記憶があるが、こないだネットで「バリバリの九州じんだ」という情報を得た。元明天皇はもと「阿閉皇女」と言ったが、本当は「九州の阿部御主人」の娘だとする意見もある。そもそもが文武天皇の存在自体が「実は非常に怪しい」という記事もある。日本書紀改竄は藤原不比等が一番怪しい黒幕だが、そもそも父の鎌足は「九州の役人」だったと斎藤忠は言っていて、それが大和人の天智天皇と組んで「蘇我本宗家を倒した」乙巳の変の張本人である。これにはどうやら、「押坂彦人大兄皇子の系統」が重要な役割を果たしているのではないか、というネットのブログも見つけた。歴史はまだまだ奥が深い。この辺りに、何故天智天皇の皇統が光仁・桓武と息を吹き返して来たのか、あるいは、乙巳の変以降「しばらく沈黙していた」中臣鎌足の系統が、藤原不比等と橘三千代の娘「光明子」が聖武天皇の皇后になってから「俄然」歴史の表舞台に登場したのか、見えてこよう。

藤原氏の秘密、それが次回のテーマである。

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