明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

今週の気付き(18)偽善者

2019-12-06 22:04:26 | 今日の話題
1、優先席で席を譲ったら、偽善者と罵られた話
ネットで見た記事に一言。こういう男はまあ、他人から見て最低の男だというのは当然だが、酷いひどいと泣き言を言っているだけではラチが開かないので、暇つぶしにその心理を紐解いてみよう。お年寄りに席を譲った人に対して「偽善者め!」と毒づいたこの男に質問して、その答えが「自分で自分の首を絞める」ようになる様を検証する(自縄自縛である)。では、質問形式で進めてみよう。

質問:今、偽善者とおっしゃいましたか?
答1:言ってねえよ!・・・この答えをした時点で、相手は負である。周囲の人に確認すれば嘘をついているのは確かだから、偽善者より嘘つきのほうが悪である(嘘は泥棒の始まりという)。というのは、何かの言動が「結果として、最後には自分の利益になること」を、偽善者とするのであり、席を譲ることは「相手に利益を与えるだけ」であるから、直接的には何の利益もなく、これには該当しない。だから席を譲った人は厳密には偽善者とは言えないのあるが、「言ったことを言ってないと嘘を付く事」は事実認定を誤魔化しているわけで、嘘が認められれば「ごめんなさい、嘘でした」と謝らなければならないわけである。謝れば負だ。次に「じゃあ、何で嘘ついたんですか?」とか責められて、終いには逃げ場が無くなってしまう。将棋で言えば「詰み」である。

答2:言ったよ、だから何?・・・これは開き直っている。それに対して、喧嘩腰に応答するのは会話が成り立たない。結局、問答無用で暴力で解決するしか無いから、ここでは別の解決策を考えよう。

質問:では、その判断は私の見た目ですか、それとも私の行動ですか、どちらでしょう?・・・つまり、問題の箇所の特定である。
答3:見た目だよ!・・・これは侮辱罪とも取れる意見で、詳しく見た目のどこが偽善者なのか問いただしていけば、答に窮するのが目に見えている。たぶん、こういう答はしないだろう。

答4:行動に決まってんだろ!・・・この答は、席を譲ること「そのもの」が問題だと言っている訳である。

質問:では私が席を譲ったことで「一般的に、席を譲ることが偽善」なのか、それとも「私という人間が、席を譲ることが偽善」なのか、どちらでしょう?・・・これも問題の箇所を「より正確に」特定する作業である。このように問題点を突き詰めていくと、大概の争いは「答が見えてくる」。

答5:一般的にだよ!・・・これで問題は、「優先席に座っている元気な人の取るべき行動」であることが分かる。これは究極は「本人の勝手」なのだから他人が何と思おうと構わないが、それを「口に出す事」は他人の尊厳を公衆の面前で侵害することになり、場合によっては裁判で負けることもある。だから、そんな大事にしてしまったら「負」である。それに一般的だと言っている以上は「電鉄側のルール化そのもの」に反対している訳だから、意見は電鉄側に直接言うべきであろう。現状ルールが周知されていて、反対運動が起きているわけではないのだから、「ルールがあるのに無視する」のはルール違反である。これは法治国家全般に言えることだが、現行ルールに反対であれば「ルール作成手順に則って、ルールを廃止すべき」と考えるのが常道だ。それが、その国に住む市民の責任である。つまり、「あなたはそれを私にぶつけるんじゃなくて、電鉄側に申し入れるべきではないんですか?」と言えば相手は答に窮するであろう。負である。

答6:おまえだよ!・・・結局は、ここに問題がある。私の「どこがいけないんだろう?」。これを追及していけば、言った本人の「心の闇、または社会への不平不満」が顕わになる。私が見た目にカッコよかったり、余りにも周囲の注目を浴びたりして「称賛の雰囲気が半端ない」時にありがちな、世間から見捨てられた「拗ね者の裏返しの心理」が見て取れる。こういう場合にその人間心理を「ズバッと指摘」して周りの喝采を得るというのも「あり」だが、本当は「あなたも席を譲ろうとしてたんでしょ?、私が先に取ってしまって悪かったですね、ごめんなさい」とでも言えば、更に素晴らしい対応と褒めそやされるのは、予想に難くない。

とまあ長々と書いたが、私はこういう暴言を吐く人が惨めに思えてならない。こういう人は捨て置くに限る。それより問題なのが「譲られた人のほう」である。黙って目の前に立てば「あれこれ言わなくても」察して譲ってくれるはずだ、という考えが気に入らないのである。譲ってほしいなら、譲ってという気持ちを「口に出す」ことがコミュニケーションでは無いだろうか。以心伝心というのは「同一民族・同一習慣の狭いコミュニティ」でしか通用しない論理である。グローバル時代を生きる現代人は「希望」を口に出し、それに対して「ルールに則って行動する」のが正しい市民の在り方と言える。民族・宗教・国・習俗が違えば、「することも考え方も」違って当たり前だ。それを、「〇〇するのが当然だ」と考えて他人を批判することが、無用なトラブルを生んでいく。こんなことをするのだから「こんな性格に間違いない」と決めつけるのはやめて、すべて思考回路をオープンにしていこうではないか。それがコミュニケーションの原点であり、お互いの理解を深める唯一の方法である。

2、アメリカはテキサス州での話題
これもネットで見た話題。テキサス州のファミリーレストランで働いていた女性が、車を買うお金を貯めるために、家から5時間もかけて通勤してるという話を小耳に挟んだ老夫婦が、そのまま中古車店に行き、一台の車を購入してその女性にプレゼントした、という話です。女性はその車のキーを受け取って嬉しさの余り涙を流し「この御恩は決して忘れません!」、と言ったかどうかは定かではないが、とにかく大変なサプライズプレゼントに感謝の気持ちで一杯だったと記事は書いているh。良い話です。で、その老夫婦は彼女に「その感謝の気持は、他の困っている人にまたあなたが出会った時、返してあげてください」といって、静かにレストランを去っていったそうです。見事なまでの、寄付の連鎖ですね。こういう考え方は、神の存在を信じている人間でなければ思いつかないでしょう。アメリカの一般的な田舎の人々の「無償の善意」というものは、日本人の「御利益目当ての信心」とはちょっと違うな、と感じた。

情けは人の為ならず、という諺があるが、巡り巡って自分に返ってくることを狙って行う行為は「無償の善意」とは言い難い。では、何処かの慈善団体や基金にお金を寄付すれば、困った人に効率的に行き渡るではないか、というのはどうかと言うと、個人の寄付行為という意味では「ちょっと違う」のではないだろうか。つまり、誰だか自分の知らない人だが困っている人にお金をあげてください、というのでは、「良いことをした実感が湧いてこない」のである。自分がしたことで、他人が感謝し喜んでくれるのを「自分も楽しむ」ことが大事なのだ。これを偽善者という人も中にはいるが偽善者とは、施しをすることで更に「もっと大きな利益を得ることを目標とする行為」を言うのである。ここでは単に「良い人」だという評判を得るだけだから、それほど得になる訳ではない。人に物をあげるのは誰しも気分が良いものである。アメリカあたりの富豪は、慈善事業に精を出すことが当たり前のように思われているらしい(これは伝聞、というか単なる噂ですが)。これは宗教の効果もあるだろうが、やはり民衆の中に根付いた「助け合いの文化」であろう。金持ちなんだから、有り余るお金を貧者に施すのは当然だ、と言われるかもしれないが、それでも「慈善事業」にお金を出している人を悪く言うことは「よっぽどのひねくれ者」である。ここは素直に「良い人」と称えるべきだろう。考えられないという人は、余程社会に恨みを持っている人に違いない。良いことは良い、悪いことは悪いとしていいではないか。その人の真実が「善悪どちらか一方」のはずだ、と決めつける必要はないだろう。良い人だけど「ここは悪い点だよね」というのが、正しい人物評価の方法である。まあ、中には悪い奴だが「これだけは良い点」だと言う場合も、あるだろうけど。結局は、「人生いろいろ」ということか。

私事で恐縮だが、今年は運勢が上向いているので「年末ジャンボ」など買ってみようか、とか思っていたが、よくよく考えれば「こんな煩悩まみれの生活を送っている」んじゃ、当たる資格はないよねぇ・・・。私謎はテキサス州の老夫婦を見習って、先ずは施しから始めるべきだと思う。せめて10万円ぐらいのサプライズプレゼントを用意して、「いまがその時だ!」と考えられるドンピシャの瞬間を待つのである。さて、10万円に値する事って、何だろう?

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