(1)女人高野
奈良の古刹、女人高野室生寺はひっそりと佇んでいた。さすがに此処までは修学旅行の生徒たちもやってこない。仁王門から入る参道は巨木の間を段々に上がって行って古びた御堂へと続いている。僕とF君は「此処だよ、女人高野」と言って暫く感動していた。山中に点在する室生寺へは貸し自転車で行ったが、長い登り坂で力尽きた僕は変速ギアの付いているF君の自転車と取り替えてもらい、やっとの思いで辿り着いた。F君は僕より4つ若いから「いいよ」とアッサリ取り替えてくれたが、そのままじゃとても寺までは行けなかったに違いない。女人高野、涼しげなそこはかとなく色気を感じさせる美しい呼び名である。
室生寺はシャクヤクの名所、初夏の草いきれの中にスラリと咲く白い花の可憐で優雅な姿は、まさに「立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花」そのままである。杉木立の中にぽつんぽつんと咲いていて想像するほど咲き乱れている感じはなく、人の手が入ってない野辺の趣が、一層心の煩悩を浄めてくれるようで嬉しかった。国宝の五重の塔は、そんな僕らの見物の途中にひょっこり姿を現した。「あっ、これだこれだよ、写真で見たやつ」、意外に小っちゃいなと思った。昭和50年頃のことだから、国宝と言ったって囲いも防護壁もなくそのまんまである。木立の中に鎮座する姿は特に大したものにも見えなかったが、本当の国宝と言うのは案外その辺にヒョイと打ち捨ててある感じなのかも知れないなと、審美眼の無さを変な理屈で誤魔化して通り過ぎた。五重の塔が台風で損傷を受け再建修復されたのはずーっと後の事である。いいものを見ているはずなのに実際見たのは10分位、ものの価値がわからない人にはただの塔でしかない。
ずんずん上がって奥の院まで登った。此処に来るまで人っ子ひとり会わずに来たのは偶然とは言え不思議な気がした。室生寺と言えば屈指の観光地である。「変だなぁ」と言いつつ奥の院の縁側に寝そべって、欄干から鬱蒼とした木々を透かした下界に思いを馳せしばし瞑想した、というか昼寝した。小さなお堂だが誰もいないし、きっと国宝じゃないと思うが定かではない。弘法大師空海の真言密教を受け継ぐ法灯を肌で感じながら山を降りた、と言うのは嘘である。そんな事を感じる年齢も根性もないのは明らかで、暮れかかった室生の里の鄙びた景色が山奥深く静かに横たわって、帰り道を急ぐ僕達を見送ってくれた。しかし僕とF君は「ひゃっほぉ」と叫びながら凄いスピードの自転車の上に中腰で立って、今考えるとゾッとするアクロバティックな姿勢を2人で競争して遊んでいた。転べば確実に病院送りでだが、無事に帰ってこれたのはただひたすら僕らがアホだからであった。室生寺から少し下ると長谷寺の筈だが、この牡丹の名所は全く覚えていない。多分行かなかったのだろう、今思えば残念な事をしたものである。
室生寺は秘めたる寺、今度行く時はもう少し落ち着いて尋ねてみたい寺である。
(2)古市から上ノ太子
今日は念願の竹ノ内峠越えだ、と朝から元気一杯に古市駅で降りた。古市は有名な古市古墳群のあるところだが今日は竹ノ内峠越えと心に決めていたので、後ろ髪を引かれながらも踏切を渡って石川の方を目指した。テクテクと古い家並みを眺めながら所々奇妙に曲がった道なりに歩いていくと、程なくして川に出た。石川である。
乙巳の変で大活躍した中大兄皇子ではなく、その後に政権を譲られた孝徳天皇に補佐役として登場するのがこの石川の地に勢力を張っていた蘇我倉山田石川麻呂である。石川麻呂の娘は遠智の娘といって中大兄皇子の妃になった。その子には大田皇女・鸕野讃良皇女があり、大田皇女からは悲劇の主人公、大来皇女・大津皇子が生まれた。石川麻呂の兄弟には日向・赤兄・連子・果安と、歴史に残る冤罪・謀反の首謀者の系譜であるから恐ろしい。この中で石川麻呂だけが逆に讒言の犠牲者になったと言うのも、この時代の政治が冤罪讒言に満ちていたかと思い知らされる。まぁこれも日本書紀によればという但し書きがつくけどね。
小さな橋で川をわたるとダラダラ下り坂の曲がりくねった細い路地を通ってやや開けたところに出る。ずんずん歩いて行くと、途中で近鉄南大阪線の上ノ太子駅に出た。聖徳太子と何か関係があるのかな、ちょっと考えて駅前の食堂で早めの昼食を取った。いや~ボリュームがスゴい。ハンバーグステーキとライスを頼んだが超大満足でコーヒー込みの650円は安過ぎる。奈良は京都と比べると、なんと言っても田舎なだけに物価が超安く、食事は気取ってない代わりに野菜など食材がフレッシュで豊富、住むなら奈良だなと得心がいった次第。ルンルンで店を出た。こういうサプライズは旅を楽しくさせる。
近くに用明天皇陵墓・推古天皇陵墓や孝徳天皇陵墓のどがあり、この辺り一帯が磯長と呼ばれている地域だと初めて知った。何という歴史の深さだろう、1400年も経っているのに当時からの地名が全く変わっていないなんて、これこそ正に奈良の真の魅力である。日本書紀はアッサリと葬られた墓地を記しているが、それがこんな辺鄙な片田舎の道端にひっそりと、営々として今も大切に守られている事に、何かしら尊いものを感じて感動を禁じえなかった。奈良は凄いな。
(3)竹ノ内街道
竹ノ内街道は二上山の脇を越える大和への入り口である。北の生駒山脈を越える暗闇峠とともに重要な峠だ。峠は割と広い道でてっぺんに喫茶店があった。歩いて来るとちょっと休もうかという気になり、こんな全く何もない店なのに人が結構入っている。古くからあるのかどうか知らないが、昔はもっと交通が多かったろうから繁盛したんじゃないかな、今じゃ面影もなくなってるけど。私も入ってコーヒーとケーキを食べた。普通だ。タバコを一本点けてから店を出た。この当時は禁煙など思いもよらなかったので何の迷いもなくパカパカ吸っていたが、思えば恐ろしい事をしてたもんだ、クワバラクワバラ。
店を出ると急勾配の下り坂で、山道めいた樹木の枝が伸びて峠越えらしくなって来る。しばらくするとパッと開けて右手下の畑や溜池の連なりが「ああ、奈良に入ったんだ」とわかった。竹ノ内峠は大阪羽曳野から奈良の葛城へ抜ける街道だから途中で二上山を左手に臨む事になる。大津皇子が無念の思いを胸に刑死したあと葬られた二上山、大来皇女が弟を悼んで涙した歴史の舞台である。だが竹ノ内峠からは二上山の頂は見えない。
菅原神社の辺りで古い町並みが始まるが、ここは竹ノ内街道ではなく脇道のようである。車が通ってない日本家屋の延々と連なるやや曲がった道は、横溝正史のミステリーに出てくるような田舎の固陋な風習に今もがんじがらめの、暗い閉塞した村社会が垣間見えた気がする。住むのは絶対嫌だ、私は都会育ちなのでゴメン被る。しかし歴史的建造物の町並み保存という意味では、きれいに整備されて美しい江戸・明治期の建物がズラッと並んでいる景観は、見事なタイムスリップ感を演出して観光にはうってつけである。
ところで街中なのでトイレが見当たらないが、困ったなと思っていたら案の定催してきた。早いとこ喫茶店でも見つけないとヤバイなと思い探すのだが、全然見つからない。これだから奈良は観光に優しくない名所ナンバーワンなんだよ!と毒づくが時すでに遅し、切羽詰まってきた。ようやく日も落ちて暗くなって古い家並みの続く道を抜け、竹藪の刈り込みが少し広くなっている空き地を見つけて立ちションをした。夕涼み よくぞ男に 生まれけり、である。こんな時、女性はどうしているのだろうか。そもそも膀胱炎など男には縁がないのもこの辺から考えないといけないな、などと「スッキリした」あとはいい気なもんである。
「何か問題でも?」
ついさっきまで目を三角にして脂汗たらしながら、必死にウロウロとトイレを探していた同じ人間とは思えない。人間万事喉元過ぎれば後はヘラヘラである。快調になったもんだから、広い通りを近くの駅までスキップしながら歩いて行く。近鉄南大阪線の磐城駅とある。鄙びた、地域密着の生活の駅である。そこから京都に戻り、新幹線で東京に戻った。もちろん新幹線ではお約束のビールと柿の種を食べる。 車内販売じゃバカ高いのでお土産屋の冷蔵庫から買ったのは、言うまでもない。
(3)九条の寂れた喫茶店
奈良の朱雀門前から自転車で二条大路を東に取り24号線を南に走ってみた。奈良を縦断するつもりである。九条辺りに差し掛かり都会の町並みも切れて建物もまばらになったので、ちょっと一休みしようとスピードを落とした頃に小さな喫茶店が目に入った。この辺りは東に帯解駅、西に大和郡山駅があり、丁度中間の何もないところで、無粋な配送センターがあるきりのあとは畑と住居のおよそ歴史とは無関係の殺風景な場所である。周りは空き地になっていて、余りはやってない感じの店だ。私はオシャレなカフェも嫌いではないが、タバコを吸っていた頃は「ひと気のない喫茶店」とか「閉店寸前の喫茶店」が大好きだった。勿論景色が良いのはお約束だけど、店の雰囲気がお客を寄せ付けないような暗いやる気のない感じが、世間の時流に乗れず拗ねている経営者の後ろ向きの人生を滲ませているところに魅力を見出していた。
「ホット」
一言オーダーしただけで、後はまたBGMだけが流れていく。このだるい感じが堪らなくいい。無為に過ぎてゆく時間、それも私には合っている。タバコを1本点けて置いてある雑誌を取ってくる。週刊実話かアサヒ芸能か、どつちにしようか迷ったが下の方にパーゴルフを見つけて抜き出した。雑誌は何でもいい、テーブルにポンと置いてコーヒーをすすりタバコをふかすその一連の流れが、心に落ち着きと余裕をもたらしてくれるのだ。
今日はどこに行こうか、斑鳩の寺巡りでもして見るかと、あれこれ考えながらタバコを2~3本吸って、ゆっくりトイレに入り勘定を済ませて外に出た。今日は快晴だ、寺巡りにはお土産も欠かせないかな。なんだかウキウキして来たぞ、これから奈良を精一杯味わうとするか。私はレンタサイクルのママチャリの前かごに手帳とパンフレットを投げ込むと、車の走ってない道路を矢田丘陵の方にハンドルを向けた。奈良はどこの道も空いていて走りやすいのも気持ちがいい。
九条の喫茶店は名前を思い出せないが、私がいる間はお客は誰も入ってこなかったので今はもう無いかも知れない。マスターの顔も定かではないが、コーヒーにこだわりがある風には見えなかったから、今頃は店を畳んでる可能性も充分にあり得る。こういう店はなかなか続かないから、出来たら細々とでも営業して貰いたいものだがこればっかりは客の入り次第、あんまりワンサカ人が入っても困っちゃう。潰れそうなのが良いなどと言っておいて虫が良すぎるが、世の中から見放されたかのような風情がたまらないのだ。秘境駅とか言って今、鉄道ファンの間で密かなブームになっているようだから、景色が良くてひと気のない喫茶店などは「見棄てられた喫茶店」というタイトルで特集を組んだらどうだろう。文明の悲哀がドアの向こうに見え隠れする場所、そんな所があったら私もちょっとだけ寄ってみたい。
(4)岡寺から飛鳥寺へ
明日香の石舞台から道なりに15号を上がっていくとすぐに岡寺の入り口がある。左手の方角には伝飛鳥板蓋宮跡や明日香浄御原宮伝承地、香爐寺・橘寺・川原寺など飛鳥時代からの目も眩む名前が続出する蘇我氏の本拠地。歴史の宝庫とは正にこの事である。京都はせいぜい400年、ちょっと古くても小倉山とか鴨川といった地形に基づく名前が残っているだけだが、奈良は今なお郵便が「日本書紀の地名」で届くのだ!この辺りは岡と呼ばれたらしく、大きくは島庄つまり蘇我馬子が勢力を欲しいままにした600年頃の名前そのままなのである。何というロマン、何という夢。私は天平の奈良も好きであるがこの飛鳥の地に花開いた、素朴で若い活力に満ちた蘇我氏の全盛時代が大好きである。敏達・用明・崇峻・推古の大王の時代に補佐した馬子は、グイグイと頭角を現して蘇我氏の黄金期を現出させ、大陸文化の摂取に力を注いで仏教の普及にも力を注いだ。
蘇我氏とか物部氏とか中臣氏とか、懐かしい名前が頭をよぎる。岡寺は古代のエピソードでの記憶はないが、草壁皇子の住居岡宮の後に義淵が寺を建てたとされる。そう思って自転車でえっちらと坂を登っていくと、途中の曲がり角に「坂の茶屋」とある。ベタな名前だ。低い平屋の和風な建物で、ちょっと入って見ようという気にはなかなかならない古びた食堂である。奈良らしいと言えば奈良らしい。寄らずにえっちら登って途中で自転車は置いて、後は徒歩で入口まで行った。参拝客もほとんど無く、仁王門らしき大きな建築物が細い道の先にじっと建っている。折角登ってきたが、何だか気分が乗らなかったので入らずに帰ることにした。考えてみれば、私が岡寺に来る理由はこれと言って何もない。ただブラブラと彼方此方を回ってみたかっただけである。自転車の置いてあるところまで戻り坂を下って茶屋の傍を通ったが、一台車とすれ違ったきりで蝉の声とともにまた静寂が戻ってきた。奈良はそこかしこで自然と歴史が交錯する。次はどこに行こうか?
15号を登って万葉文化館前を過ぎ次の信号を左に折れると、飛鳥坐神社・宝満寺・飛鳥寺・蘇我入鹿首塚と続く明日香の懐である。景色は何の変哲もない田舎の風景だが、この辺りは正しく、645年大化の改新と呼ばれている(今は乙巳の変となっている、つまり大化の改新は事実ではない)日本史上で特異なクーデターの起きた場所なのだ。しかし入鹿は誰一人従者がいなかったのだろうか、古人大兄王子は何故「漢人が蔵作りを殺した」などと叫びながら逃げたのか、その事を考えながら首塚の周りをグルグル歩いていた。垣根の向こうに広い畑と甘樫丘が見える、その先は豊浦の地だ。蘇我蝦夷・入鹿の宮居があった場所、多数の軍勢が守りを固めてた筈なのに、簡単に自殺しているなんて変だ。
多分、日本書紀は史実と異なるストーリーを語っているのだろうと思う、何しろ天智天皇も天武天皇も既にこの世にない730年に上梓されたもの、何もかもが闇の中に葬られたままである。ただ地名と建物と当時のままの地形が残った。甘樫丘に登ると明日香の全体が見えてくる。本当にここが歴史の中心なのかと思うほど小さいエリアである。陽はすっかり傾き、蘇我氏栄光の名残りを留める飛鳥寺でタバコを一本吸って自転車の前カゴへ手帳を放り込んだ。5時までに橿原駅前のレンタサイクル屋まで返さないと追加料金を請求されてしまう、まぁ5分や10分ぐらいは堅いこと言わないと思うけど、急ごう。奈良市民の性格はまだ未知数だから。
(5)藤原京の大極殿跡
午後の柔らかい陽の光はようやく高く燦々と広場いっぱいに広がって、私は自転車を降り、立ち並ぶ列柱の真ん中に位置した。ここが藤原京の大極殿跡なのか、大きな空間に広がった紅い列柱の1つ1つに殆ど何の感情もないまま、しばらくの間眺めてまた自転車にもどった。
綺麗に整備された芝生の大極殿跡は、たぶんイメージ力の無い私みたいな旅行者には、何の感興も湧かないのだろうなと思う。これが元の大極殿の何か破片であるとか瓦の一部であるとかであったなら、もう少し違った感情も心によぎった事であろうに、現代の工場生産された、規格品の柱状の筒を並べただけの目印に過ぎない一種テーマパークと化した歴史の記録は、むしろ何も無い方がいいとも言える。苔むした礎石の幾つかとともに掘り返して研究の対象となってしまった都の跡は、その栄華と繁栄をすっかり失って忘れ去られ、住居や畑の真ん中で、押し寄せる日々の生活の中に埋没して行く。
何も藤原京だけではなく、出雲も太宰府も鎌倉も全て打ち捨てられ忘れ去られ、歴史の闇の彼方へと追いやられた。江戸時代の国学の隆盛前には、歴史とは「自分の夢を実現するための過去例」という意味でしか無かったのであったのだろう、正しい認識である。
大極殿跡の無味乾燥の列柱に別れを告げ、広さだけを頭にインプットして自転車に乗った私は、向原寺に向かった。向原寺は仏教伝来の故地である。蘇我稲目が百済聖明王から献上された仏像を欽明天皇から預けられて祀ったとされる日本最初の寺院と書いてある。こんな凄い歴史的建造物が、何て事無い藤原京跡からちょっと行った所にひっそりと、今も地元の信仰を集めて細々と残っているなんて、やはり奈良はタイムスリップの都、京都の華やかな経済的発展と比べた時、その比較にならない歴史の重みに頭が下がる。
奈良を京都のような低俗なテーマパークにしてはならない、金儲けの道具になんか絶対に絶対にしてはならない、少なくとも私の生きている間はそうあって欲しいと切に願い、もう一度周りを見渡した。まだ奈良は古い奈良のままである。
青丹よし 奈良の都は 咲く花の 匂うが如く 今盛りなり。そうだ、奈良へ行こう!
奈良の古刹、女人高野室生寺はひっそりと佇んでいた。さすがに此処までは修学旅行の生徒たちもやってこない。仁王門から入る参道は巨木の間を段々に上がって行って古びた御堂へと続いている。僕とF君は「此処だよ、女人高野」と言って暫く感動していた。山中に点在する室生寺へは貸し自転車で行ったが、長い登り坂で力尽きた僕は変速ギアの付いているF君の自転車と取り替えてもらい、やっとの思いで辿り着いた。F君は僕より4つ若いから「いいよ」とアッサリ取り替えてくれたが、そのままじゃとても寺までは行けなかったに違いない。女人高野、涼しげなそこはかとなく色気を感じさせる美しい呼び名である。
室生寺はシャクヤクの名所、初夏の草いきれの中にスラリと咲く白い花の可憐で優雅な姿は、まさに「立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花」そのままである。杉木立の中にぽつんぽつんと咲いていて想像するほど咲き乱れている感じはなく、人の手が入ってない野辺の趣が、一層心の煩悩を浄めてくれるようで嬉しかった。国宝の五重の塔は、そんな僕らの見物の途中にひょっこり姿を現した。「あっ、これだこれだよ、写真で見たやつ」、意外に小っちゃいなと思った。昭和50年頃のことだから、国宝と言ったって囲いも防護壁もなくそのまんまである。木立の中に鎮座する姿は特に大したものにも見えなかったが、本当の国宝と言うのは案外その辺にヒョイと打ち捨ててある感じなのかも知れないなと、審美眼の無さを変な理屈で誤魔化して通り過ぎた。五重の塔が台風で損傷を受け再建修復されたのはずーっと後の事である。いいものを見ているはずなのに実際見たのは10分位、ものの価値がわからない人にはただの塔でしかない。
ずんずん上がって奥の院まで登った。此処に来るまで人っ子ひとり会わずに来たのは偶然とは言え不思議な気がした。室生寺と言えば屈指の観光地である。「変だなぁ」と言いつつ奥の院の縁側に寝そべって、欄干から鬱蒼とした木々を透かした下界に思いを馳せしばし瞑想した、というか昼寝した。小さなお堂だが誰もいないし、きっと国宝じゃないと思うが定かではない。弘法大師空海の真言密教を受け継ぐ法灯を肌で感じながら山を降りた、と言うのは嘘である。そんな事を感じる年齢も根性もないのは明らかで、暮れかかった室生の里の鄙びた景色が山奥深く静かに横たわって、帰り道を急ぐ僕達を見送ってくれた。しかし僕とF君は「ひゃっほぉ」と叫びながら凄いスピードの自転車の上に中腰で立って、今考えるとゾッとするアクロバティックな姿勢を2人で競争して遊んでいた。転べば確実に病院送りでだが、無事に帰ってこれたのはただひたすら僕らがアホだからであった。室生寺から少し下ると長谷寺の筈だが、この牡丹の名所は全く覚えていない。多分行かなかったのだろう、今思えば残念な事をしたものである。
室生寺は秘めたる寺、今度行く時はもう少し落ち着いて尋ねてみたい寺である。
(2)古市から上ノ太子
今日は念願の竹ノ内峠越えだ、と朝から元気一杯に古市駅で降りた。古市は有名な古市古墳群のあるところだが今日は竹ノ内峠越えと心に決めていたので、後ろ髪を引かれながらも踏切を渡って石川の方を目指した。テクテクと古い家並みを眺めながら所々奇妙に曲がった道なりに歩いていくと、程なくして川に出た。石川である。
乙巳の変で大活躍した中大兄皇子ではなく、その後に政権を譲られた孝徳天皇に補佐役として登場するのがこの石川の地に勢力を張っていた蘇我倉山田石川麻呂である。石川麻呂の娘は遠智の娘といって中大兄皇子の妃になった。その子には大田皇女・鸕野讃良皇女があり、大田皇女からは悲劇の主人公、大来皇女・大津皇子が生まれた。石川麻呂の兄弟には日向・赤兄・連子・果安と、歴史に残る冤罪・謀反の首謀者の系譜であるから恐ろしい。この中で石川麻呂だけが逆に讒言の犠牲者になったと言うのも、この時代の政治が冤罪讒言に満ちていたかと思い知らされる。まぁこれも日本書紀によればという但し書きがつくけどね。
小さな橋で川をわたるとダラダラ下り坂の曲がりくねった細い路地を通ってやや開けたところに出る。ずんずん歩いて行くと、途中で近鉄南大阪線の上ノ太子駅に出た。聖徳太子と何か関係があるのかな、ちょっと考えて駅前の食堂で早めの昼食を取った。いや~ボリュームがスゴい。ハンバーグステーキとライスを頼んだが超大満足でコーヒー込みの650円は安過ぎる。奈良は京都と比べると、なんと言っても田舎なだけに物価が超安く、食事は気取ってない代わりに野菜など食材がフレッシュで豊富、住むなら奈良だなと得心がいった次第。ルンルンで店を出た。こういうサプライズは旅を楽しくさせる。
近くに用明天皇陵墓・推古天皇陵墓や孝徳天皇陵墓のどがあり、この辺り一帯が磯長と呼ばれている地域だと初めて知った。何という歴史の深さだろう、1400年も経っているのに当時からの地名が全く変わっていないなんて、これこそ正に奈良の真の魅力である。日本書紀はアッサリと葬られた墓地を記しているが、それがこんな辺鄙な片田舎の道端にひっそりと、営々として今も大切に守られている事に、何かしら尊いものを感じて感動を禁じえなかった。奈良は凄いな。
(3)竹ノ内街道
竹ノ内街道は二上山の脇を越える大和への入り口である。北の生駒山脈を越える暗闇峠とともに重要な峠だ。峠は割と広い道でてっぺんに喫茶店があった。歩いて来るとちょっと休もうかという気になり、こんな全く何もない店なのに人が結構入っている。古くからあるのかどうか知らないが、昔はもっと交通が多かったろうから繁盛したんじゃないかな、今じゃ面影もなくなってるけど。私も入ってコーヒーとケーキを食べた。普通だ。タバコを一本点けてから店を出た。この当時は禁煙など思いもよらなかったので何の迷いもなくパカパカ吸っていたが、思えば恐ろしい事をしてたもんだ、クワバラクワバラ。
店を出ると急勾配の下り坂で、山道めいた樹木の枝が伸びて峠越えらしくなって来る。しばらくするとパッと開けて右手下の畑や溜池の連なりが「ああ、奈良に入ったんだ」とわかった。竹ノ内峠は大阪羽曳野から奈良の葛城へ抜ける街道だから途中で二上山を左手に臨む事になる。大津皇子が無念の思いを胸に刑死したあと葬られた二上山、大来皇女が弟を悼んで涙した歴史の舞台である。だが竹ノ内峠からは二上山の頂は見えない。
菅原神社の辺りで古い町並みが始まるが、ここは竹ノ内街道ではなく脇道のようである。車が通ってない日本家屋の延々と連なるやや曲がった道は、横溝正史のミステリーに出てくるような田舎の固陋な風習に今もがんじがらめの、暗い閉塞した村社会が垣間見えた気がする。住むのは絶対嫌だ、私は都会育ちなのでゴメン被る。しかし歴史的建造物の町並み保存という意味では、きれいに整備されて美しい江戸・明治期の建物がズラッと並んでいる景観は、見事なタイムスリップ感を演出して観光にはうってつけである。
ところで街中なのでトイレが見当たらないが、困ったなと思っていたら案の定催してきた。早いとこ喫茶店でも見つけないとヤバイなと思い探すのだが、全然見つからない。これだから奈良は観光に優しくない名所ナンバーワンなんだよ!と毒づくが時すでに遅し、切羽詰まってきた。ようやく日も落ちて暗くなって古い家並みの続く道を抜け、竹藪の刈り込みが少し広くなっている空き地を見つけて立ちションをした。夕涼み よくぞ男に 生まれけり、である。こんな時、女性はどうしているのだろうか。そもそも膀胱炎など男には縁がないのもこの辺から考えないといけないな、などと「スッキリした」あとはいい気なもんである。
「何か問題でも?」
ついさっきまで目を三角にして脂汗たらしながら、必死にウロウロとトイレを探していた同じ人間とは思えない。人間万事喉元過ぎれば後はヘラヘラである。快調になったもんだから、広い通りを近くの駅までスキップしながら歩いて行く。近鉄南大阪線の磐城駅とある。鄙びた、地域密着の生活の駅である。そこから京都に戻り、新幹線で東京に戻った。もちろん新幹線ではお約束のビールと柿の種を食べる。 車内販売じゃバカ高いのでお土産屋の冷蔵庫から買ったのは、言うまでもない。
(3)九条の寂れた喫茶店
奈良の朱雀門前から自転車で二条大路を東に取り24号線を南に走ってみた。奈良を縦断するつもりである。九条辺りに差し掛かり都会の町並みも切れて建物もまばらになったので、ちょっと一休みしようとスピードを落とした頃に小さな喫茶店が目に入った。この辺りは東に帯解駅、西に大和郡山駅があり、丁度中間の何もないところで、無粋な配送センターがあるきりのあとは畑と住居のおよそ歴史とは無関係の殺風景な場所である。周りは空き地になっていて、余りはやってない感じの店だ。私はオシャレなカフェも嫌いではないが、タバコを吸っていた頃は「ひと気のない喫茶店」とか「閉店寸前の喫茶店」が大好きだった。勿論景色が良いのはお約束だけど、店の雰囲気がお客を寄せ付けないような暗いやる気のない感じが、世間の時流に乗れず拗ねている経営者の後ろ向きの人生を滲ませているところに魅力を見出していた。
「ホット」
一言オーダーしただけで、後はまたBGMだけが流れていく。このだるい感じが堪らなくいい。無為に過ぎてゆく時間、それも私には合っている。タバコを1本点けて置いてある雑誌を取ってくる。週刊実話かアサヒ芸能か、どつちにしようか迷ったが下の方にパーゴルフを見つけて抜き出した。雑誌は何でもいい、テーブルにポンと置いてコーヒーをすすりタバコをふかすその一連の流れが、心に落ち着きと余裕をもたらしてくれるのだ。
今日はどこに行こうか、斑鳩の寺巡りでもして見るかと、あれこれ考えながらタバコを2~3本吸って、ゆっくりトイレに入り勘定を済ませて外に出た。今日は快晴だ、寺巡りにはお土産も欠かせないかな。なんだかウキウキして来たぞ、これから奈良を精一杯味わうとするか。私はレンタサイクルのママチャリの前かごに手帳とパンフレットを投げ込むと、車の走ってない道路を矢田丘陵の方にハンドルを向けた。奈良はどこの道も空いていて走りやすいのも気持ちがいい。
九条の喫茶店は名前を思い出せないが、私がいる間はお客は誰も入ってこなかったので今はもう無いかも知れない。マスターの顔も定かではないが、コーヒーにこだわりがある風には見えなかったから、今頃は店を畳んでる可能性も充分にあり得る。こういう店はなかなか続かないから、出来たら細々とでも営業して貰いたいものだがこればっかりは客の入り次第、あんまりワンサカ人が入っても困っちゃう。潰れそうなのが良いなどと言っておいて虫が良すぎるが、世の中から見放されたかのような風情がたまらないのだ。秘境駅とか言って今、鉄道ファンの間で密かなブームになっているようだから、景色が良くてひと気のない喫茶店などは「見棄てられた喫茶店」というタイトルで特集を組んだらどうだろう。文明の悲哀がドアの向こうに見え隠れする場所、そんな所があったら私もちょっとだけ寄ってみたい。
(4)岡寺から飛鳥寺へ
明日香の石舞台から道なりに15号を上がっていくとすぐに岡寺の入り口がある。左手の方角には伝飛鳥板蓋宮跡や明日香浄御原宮伝承地、香爐寺・橘寺・川原寺など飛鳥時代からの目も眩む名前が続出する蘇我氏の本拠地。歴史の宝庫とは正にこの事である。京都はせいぜい400年、ちょっと古くても小倉山とか鴨川といった地形に基づく名前が残っているだけだが、奈良は今なお郵便が「日本書紀の地名」で届くのだ!この辺りは岡と呼ばれたらしく、大きくは島庄つまり蘇我馬子が勢力を欲しいままにした600年頃の名前そのままなのである。何というロマン、何という夢。私は天平の奈良も好きであるがこの飛鳥の地に花開いた、素朴で若い活力に満ちた蘇我氏の全盛時代が大好きである。敏達・用明・崇峻・推古の大王の時代に補佐した馬子は、グイグイと頭角を現して蘇我氏の黄金期を現出させ、大陸文化の摂取に力を注いで仏教の普及にも力を注いだ。
蘇我氏とか物部氏とか中臣氏とか、懐かしい名前が頭をよぎる。岡寺は古代のエピソードでの記憶はないが、草壁皇子の住居岡宮の後に義淵が寺を建てたとされる。そう思って自転車でえっちらと坂を登っていくと、途中の曲がり角に「坂の茶屋」とある。ベタな名前だ。低い平屋の和風な建物で、ちょっと入って見ようという気にはなかなかならない古びた食堂である。奈良らしいと言えば奈良らしい。寄らずにえっちら登って途中で自転車は置いて、後は徒歩で入口まで行った。参拝客もほとんど無く、仁王門らしき大きな建築物が細い道の先にじっと建っている。折角登ってきたが、何だか気分が乗らなかったので入らずに帰ることにした。考えてみれば、私が岡寺に来る理由はこれと言って何もない。ただブラブラと彼方此方を回ってみたかっただけである。自転車の置いてあるところまで戻り坂を下って茶屋の傍を通ったが、一台車とすれ違ったきりで蝉の声とともにまた静寂が戻ってきた。奈良はそこかしこで自然と歴史が交錯する。次はどこに行こうか?
15号を登って万葉文化館前を過ぎ次の信号を左に折れると、飛鳥坐神社・宝満寺・飛鳥寺・蘇我入鹿首塚と続く明日香の懐である。景色は何の変哲もない田舎の風景だが、この辺りは正しく、645年大化の改新と呼ばれている(今は乙巳の変となっている、つまり大化の改新は事実ではない)日本史上で特異なクーデターの起きた場所なのだ。しかし入鹿は誰一人従者がいなかったのだろうか、古人大兄王子は何故「漢人が蔵作りを殺した」などと叫びながら逃げたのか、その事を考えながら首塚の周りをグルグル歩いていた。垣根の向こうに広い畑と甘樫丘が見える、その先は豊浦の地だ。蘇我蝦夷・入鹿の宮居があった場所、多数の軍勢が守りを固めてた筈なのに、簡単に自殺しているなんて変だ。
多分、日本書紀は史実と異なるストーリーを語っているのだろうと思う、何しろ天智天皇も天武天皇も既にこの世にない730年に上梓されたもの、何もかもが闇の中に葬られたままである。ただ地名と建物と当時のままの地形が残った。甘樫丘に登ると明日香の全体が見えてくる。本当にここが歴史の中心なのかと思うほど小さいエリアである。陽はすっかり傾き、蘇我氏栄光の名残りを留める飛鳥寺でタバコを一本吸って自転車の前カゴへ手帳を放り込んだ。5時までに橿原駅前のレンタサイクル屋まで返さないと追加料金を請求されてしまう、まぁ5分や10分ぐらいは堅いこと言わないと思うけど、急ごう。奈良市民の性格はまだ未知数だから。
(5)藤原京の大極殿跡
午後の柔らかい陽の光はようやく高く燦々と広場いっぱいに広がって、私は自転車を降り、立ち並ぶ列柱の真ん中に位置した。ここが藤原京の大極殿跡なのか、大きな空間に広がった紅い列柱の1つ1つに殆ど何の感情もないまま、しばらくの間眺めてまた自転車にもどった。
綺麗に整備された芝生の大極殿跡は、たぶんイメージ力の無い私みたいな旅行者には、何の感興も湧かないのだろうなと思う。これが元の大極殿の何か破片であるとか瓦の一部であるとかであったなら、もう少し違った感情も心によぎった事であろうに、現代の工場生産された、規格品の柱状の筒を並べただけの目印に過ぎない一種テーマパークと化した歴史の記録は、むしろ何も無い方がいいとも言える。苔むした礎石の幾つかとともに掘り返して研究の対象となってしまった都の跡は、その栄華と繁栄をすっかり失って忘れ去られ、住居や畑の真ん中で、押し寄せる日々の生活の中に埋没して行く。
何も藤原京だけではなく、出雲も太宰府も鎌倉も全て打ち捨てられ忘れ去られ、歴史の闇の彼方へと追いやられた。江戸時代の国学の隆盛前には、歴史とは「自分の夢を実現するための過去例」という意味でしか無かったのであったのだろう、正しい認識である。
大極殿跡の無味乾燥の列柱に別れを告げ、広さだけを頭にインプットして自転車に乗った私は、向原寺に向かった。向原寺は仏教伝来の故地である。蘇我稲目が百済聖明王から献上された仏像を欽明天皇から預けられて祀ったとされる日本最初の寺院と書いてある。こんな凄い歴史的建造物が、何て事無い藤原京跡からちょっと行った所にひっそりと、今も地元の信仰を集めて細々と残っているなんて、やはり奈良はタイムスリップの都、京都の華やかな経済的発展と比べた時、その比較にならない歴史の重みに頭が下がる。
奈良を京都のような低俗なテーマパークにしてはならない、金儲けの道具になんか絶対に絶対にしてはならない、少なくとも私の生きている間はそうあって欲しいと切に願い、もう一度周りを見渡した。まだ奈良は古い奈良のままである。
青丹よし 奈良の都は 咲く花の 匂うが如く 今盛りなり。そうだ、奈良へ行こう!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます