明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古都の面影 (2)奈良

2023-12-13 13:22:00 | 歴史・旅行
今週は古都巡り第2弾、奈良編をお届けしようと思います。奈良は自然が魅力です。四季折々移り行く花々・樹々の盛りを楽しみながら、季節の訪れに驚き・紅葉の美しさを愛でて、生命の素晴らしさに感謝する。それが奈良の魅力です。
そんなの京都の方が本場だよと仰しゃる方がいらっしゃるかと思いますが、田舎道の路傍に咲く花にも古代の人々の生活を想像する楽しみは、京都にない格別なものを感じます。京都では、江戸時代もしくは戦国・室町時代の後期までの風俗は色濃く残っていますが、それ以前となると殆ど感じることは出来ません。例えば金閣寺は足利義満の屋敷の一部ですが、義満を偲ばせるものは皆無です。室町幕府の名前の由来となった花の御所は、殆ど応仁の乱で失われてしまいました。どれだけ豪壮華麗なものだったかは絵画・書物で窺い知るしかないのです。それは京都が、その後も天皇の都として半世紀もの間、発展・再生を繰り返した証しに他ならないのでしょう。京都は歴史が何重にも埋もれて、とても平安時代まではたどり着けないのです。
ところが奈良は違います。奈良は今でも当時のままの風景がそっくり残っていて、まるで古代と同じ景色を眺めている様な錯覚に陥ります。錯覚ですが、故郷にとうとう帰ってきたような妙な懐かしさがあるのです。遠い遠い子供時代に見た景色をいつまでも忘れられないように・・・。

では古都の面影(2)奈良編をどうぞ

1. 法起寺・法輪寺・法隆寺

去年の9月、会社の大阪出張にかこつけて帰りに奈良旅行を計画した。往復の新幹線代を浮かすためである。難波から近鉄に乗り継いで、平城京大極殿近くのビジネスホテルに宿を取った。夜はコンビニで缶ビールと唐揚げを買い、翌日からの楽しい旅を思って独り前祝いをした。旅は始まっている、呑んだくれてる時間はないのだ。

翌朝ホテルを出てレンタサイクルを借り、秋篠川沿いを南に下って真っ先に奈良三塔を目指した。平城京で一番の三重塔、奈良のシンボル、法起寺である。私の奈良観を決定付けた美しい塔は長年のイメージが膨らんで、まさに宝石箱のように私の頭の中を占領していた。しめやかな薄墨色の霞棚引くヴェールの彼方から、歴史の夜明けを予感させる小さな塔の先端部を覗かせ・・・と思いきや、だだっ広い畑と寂れた駐車場の真ん中にその三重塔はポツンと立っていた。周りを取り囲んでいた筈の楓の巨木は無く、今は高圧線の鉄塔が無情にも電線を張って視界を遮っている・・・。
ガッカリと言うより、ただ茫然と無言で立っていた。僕のあの宝石箱は何処に行ってしまったんだろうか。
隣の法輪寺までは自転車でならものの10分位で着いてしまうが、こちらも案の定、昔の姿は見る影もなくなって、観光客向けにきれいに整備されて普通の寺になっていた。私の期待した、いにしえの建造物に特有のあの、語りかけてくるような「古代の哀しい横顔」が、もうどこにも感じられないのだ。
もしかしたら昔若い頃に来た時も、塔は今のまま変わらぬ姿で立っていたのかも知れない。変わってしまったのは塔ではなく、自分の姿だったんじゃないのか。私は記憶を探りつつ歎息をついた。しかし何も覚えてないのだったただ、稲穂たなびく田舎の田んぼの彼方に、微かに佇む法起寺と法輪寺と法隆寺の三つの塔の、物言わぬ姿が愛おしかった。帰らぬ思い出である。
旅は最初っから不安なスタートだったが、まあ良いじゃないの、あるがままを受け入れよう。次は法隆寺だ、確か参道の入り口の脇に牛乳とパンを売ってる店があって、この前の時はコーヒー牛乳を買ったっけ。まだやってるかな・・・
ご想像の通り、参道は綺麗に整備されてすっかり様子が変わってしまった。奈良三塔も大したことなかったな。

2. 飛鳥板蓋宮跡

大化元年、645年乙巳の年に起きた古代史最大の事件現場である。三韓の表文を読み上げる儀式の最中、中大兄皇子と中臣鎌子らが蘇我入鹿を斬殺して、不遜な蘇我政権を転覆し政治の実権をを天皇家に取り戻す契機となった。行く前から本を読んでいて事件のあらましを知っていたので、どんだけ大きいのかと思って期待に胸を膨らまして向かったのだが、向学心旺盛な心をあっさりと裏切ってそれはなんとも貧弱な建物の跡であった。田圃の中にただ石が敷き詰められただけのみすぼらしい区劃で、東大寺や法隆寺といった大建築を見慣れた観光客の目には、飛鳥板蓋宮大極殿と言われてもピンと来なかったのである。
ここから古人大兄皇子は、「韓人が鞍作を殺しつ」と叫びながら走り出て行ったと伝えられている。石舞台・橘寺・岡寺・飛鳥寺など辺りに広がる田園風景の中、歩いていける所に往時の遺構が点在して、歴史の1シーンをまざまざと思い起こさせる。蘇我蝦夷は自害の道を選んだというが、何故戦わなかったのだろうか、その真意はどうだったのか?
しかし国家の中心たる建物の大極殿が、瓦葺の屋根でなく板葺きだったのは何ともお粗末である。檜皮葺きだろうか。瓦は貴重で大寺院しか使えなかったと言うが、藤原京までの宮と言うのは、住居に毛が生えた程度のものかもしれない。紀元前の秦の始皇帝の都と比べたら、そりゃあもうえらい違いだ。日本なんて、小さい小さい。

3. 酒船石から鎌足生誕地へ

岡寺近くの小高い丘の茂みの中に、変てこりんな石の構築物がある。今はどうなっているか知らないが、きっと公園にでもなっているだろうな。私は、古代の遺跡を何でもかんでも観光客誘致の目玉にしようとするのは反対だ。金儲けは他の方法でお願いしたいものである。

話を戻す。岩に何かの文様を彫りつけた奇妙な「酒船石」である。何なのかは未だに謎だ。私が思ったのは、何より丘の上にあるのが変だな、ということだ、何か目的があって作られたものであるなら、設置場所がもっと開けた場所かまたは神聖な場所のはずだ。しかし実際のところは裏庭の藪の中、簡単にはわからない。だから謎。猿石・二面石・亀石、飛鳥巨石群は不可思議な謎に満ちているが、思うに「だから何」というほどの歴史的重要性があるとも思えない。ほのぼのとした古代遺跡なのだ。こういう「なんだろうな、これ」って遺跡があちこちに点在する飛鳥は、まさに愛すべき遠き古代である。
鎌足生誕の地は、酒船石からダラダラ歩いていくと田舎道の傍にひっそりと白杭が立っていて、ようやくそれとわかる場所です。鎌足は、中大兄皇子のちの天智天皇の時代に内大臣にまで登りつめた大政治家ですが、生誕の地はさほど重要性を感じなかったのか、うっかりすると見過ごしてしまう。飛鳥巡りの楽しみは、こういう隠れた歴史の足跡を、偶然発見したりする所にあるんじゃないかと思う。古代を身近に感じる心楽しい瞬間だ。勿論、とっくに知られている事なので発見なんておこがましいのだが(だから白杭が立っている)、知らなかった事を自分で見つけるって楽しいものである。奈良を歩く時は、やたらと観光案内本で知識を詰め込むより、天気の良い日にぶらりと散歩するくらいの気持ちで良いと思う。歩けば即ち歴史にぶつかる。
私はこの地が好きである。ここに佇んで歴史のあれこれを考えるのが好きだ。鎌足生誕の地の白杭が、何かを私に語りかけてくるような午後、竹藪を渡って吹く風が初夏の陽射しを和らげて涼しい。

4. 山辺の道と万葉歌碑巡り

会社に入りたての今から40年程前になる夏、同期の藤江君と初めて奈良に行った時の事である。京都から入って1日目は山辺の道を歩こうと思い、旅なれない社会人一年生の私はなにで調べたか覚えてないが、予約してある旅館を目指して初めての駅、天理に降りた。天理は有名な天理教の町である。降りた時から嫌な予感がしたが、町の八百屋から米屋に到るまで、老いも若きも男も女も全員天理教の法被を着て、よそ者を探る暗く冷たい眼で睨んでいるのだ、流石に新興宗教の町である。東大寺あたりだと坊さんも角が取れて柔らかいが、天理教はまだ歴史が浅く信者もギラギラして恐ろしい。
旅館に泊まったら窓の無い六畳ほどの狭い部屋に通され、藤江君は額を寄せてきて「なんだか拷問部屋だね」と囁いた。夕食を取り、早く寝る事にしてトイレに立つと、大部屋の前の廊下にスリッパが二十程も並んでいて、なんだか密談が始まっているのだ。あろう事か此処は天理教の集会所ではないか!私は転びそうになりながら部屋に飛んで帰り、藤江君に「大変な事になった、僕らは生け贄にされるかも知れない」と打ち明けた。
その夜は二人共、まんじりともせずに過ごした事は言うまでもない。翌朝逃げるように出発して石上神宮の入口でへたり込むまで、一度も後ろを振り向かなかったのは余程怖かったのであろう、まだ22才の青春の1ページである。
出だしから奇っ怪な雰囲気で始まった奈良旅であったがその後は順調に進んで、初日は景行天皇陵から桜井迄行った。初夏の爽やかな草いきれの中、田舎道を青い空と白い雲を眺めながらのんびり歩くのも良いものである。私と藤江君とで歌謡曲など歌いつつ、鄙びた古都の雰囲気を満喫した。ちなみに山辺の道は万葉歌碑でも有名で、私達もひとつずつ見つけては歓声を上げたものである。

5. 甘樫の丘

また例の如く橿原神宮駅前で自転車を借りた。今日は藤原宮跡地と大和三山をめぐって見る予定だ。奈良の良さは歩く事で実感する。歴史の記憶が近代的建物に邪魔される事なく、昔のままの自然な景色が辺り一面に広がる中、思う存分古代世界に浸れる所である。京都のように貴族社会の雅をひたすら追い求め続けるのではなく、よりもっと古い素朴な時代の息吹きを、身体に直に感じることが出来るエリアである。国が、歴史的保存地区という仕組みで近代化を止めてくれたお蔭であろうか、感謝感謝。
天武天皇持統天皇合葬陵を過ぎ、左手に折れて甘樫の丘に登る。頂上は小さな広場の展望台になっていて、二上山から葛城連峰・巻向や三輪山から宇陀・阿騎野の方までぐるっと360°パノラマが見渡せて、地名の一つ一つが懐かしい。
奈良の殆どの地名が、古事記・日本書紀の時代からずっと変わらずに残っていることは素晴らしいことであり、中央1丁目だとか二丁目とかのありきたりの住所表記に書き換えられなかったのは、奈良にとってどれだけの収入につながっているか、賢明な処置である。例えば、今は幸町と言っているが昔は「九条」と言っており、平城京の区画がここまで及んでいた名残りです、などとバスガイドがマイクで説明するより、「九条」のまま地名を残しておき観光客自身に「もしかして九条ということは、ここまで平城京があったんじゃないかな」と考えさせる方が、何百倍も歴史を知る上で有益なことだと思う。東大寺の大仏が何メートルか知らなくていいしそういう知識は何の役にも立たないが、九条の交差点に立って平城京の大きさを実感することは必要だ。古代史とは点ではなく、ましてや◯◯寺などの建築物を鑑賞する美術館でもない。古代史とは眼や鼻や足で感じ、心で想像する世界である。

私は甘樫の丘の登り口にある喫茶所で、コーヒーを飲みながらそんな事を考えていた。それにしても粗末な施設である。奈良には小洒落た喫茶店が少ないが、多分京都ほど観光客が来ないからだろう、良い事ではある。最近は修学旅行の生徒も他所に行くらしいから、まだ暫くは奈良の良さは失われなくて済みそうである。

6. 佐保路を歩き不退寺に業平を思う

佐保路は奈良駅から東大寺の方へ行き、転害門を北に歩いて般若寺方面の途中からスタートした。その昔、奈良坂と言っていた京都往還の街道である。
まず朝食をと思い歩きながら店を探していたら自家製パンを出すファミリーレストランがあったので早速入った。綺麗な店で席数も200位ある大きなレストランである。入口の道のところに、マリリン・モンローのあの有名なシーンのオブジェが飾ってあるが、なんともそぐわないことおびただしい。奈良県民は、ちょっとおかしいのが多いかもしれないな。しかし料理は素晴らしく、たっぷりの野菜と玉子が添えられたマフィンにコーヒーでお腹を満たした。トイレも綺麗だし、いざ出発!空はあくまで晴朗なり、だ。
佐保路は、佐保川沿いに点々とする観光名所を一括りにして1日行程マップに載せる典型的団体客向けツアーの名称である。だからそういう名所は避け、ひたすら川沿いに自転車を走らせた。川筋をたどるのも粋なアイディア。奈良は鄙びたとは言え天皇の政治の中心があった所である、其処此処に美しい都の風情が残っていて、いっときの優美な花・風物にも心を癒される。奈良はいいなあ、
佐保は、平城京の貴公子の遊び場だったらしい。大伴家持なども若い頃は女官達をブイブイ言わせていたってえ話だ。太宰府に左遷される前の事だけど。

うっかり忘れる所だが、不退寺は草むした小さな寺だった。在原業平がどうしたとかしないとか、当代きっての艶福家にしては色気のない寂しい寺である。というか、門の所まで行ったけど中には入らずに、次の海龍王寺にむかった。いずれじっくりと見る機会もあることだろう。歴史は出会いである。両方の気持ちがぴったりと合わさって初めて感動が生まれる。私はその時、まだ在原業平に出会う準備ができていなかったのだろう。

名にしおはばいざ言問わむ都鳥 わが思う人はありやなしやと

伊勢物語の名歌であるが、現在の言問橋は平成4年に建て替えられている。勿論その前だって何度か建て替えているに決まっているのだ、どだい木造の橋が千年も持つわけが無い。ああ、まさしくロマンである。

7. 平城京大極殿

奈良の中心から随分西に偏って平城京跡は発掘されている。朱雀門と、こないだ遷都1300年記念で新調した大極殿との二本立て興行である。しかし周りに何もないだだっ広い野っ原にポツンと立っている大極殿には、正直言って何も感じない。これが歴史の重みなのかと思い、京都の平安神宮を思い出して笑ってしまった。私が行った時は丁度夏休みの真っ最中で、折から盛大に盆踊り大会が開かれていたが、原宿じゃないんだから止めたらと思う。なんだかうら悲しい遷都記念である。町内会かなんかの企画なんだらうけど、奈良県民のレベルも押して知るべし。
そこで私の提案だが、大極殿を「奈良県庁」として活用したらどうだろうか。外見は大極殿だが中身は現代のテクノロジーを駆使した最先端の県庁とし、職員は役職に応じて冠位十二階の色の衣服を着るのだ。女性も和服とする。多少動きは制限されるが、観光のためである。
私は冗談で言っているのではない、本気だ。勿論、朝は「出社所」に出向いて、着替えてから職場に行く。こんな県庁だったら、観光客が押し寄せる事請け合いである。週二回程度でも凄いインパクトがある。私は、観光客を呼ぶのにこれ以上の名案は無いと思っているけどどうだろうか。朝夕の出勤退出時には、バッキンガム宮殿の衛兵宜しく、黒山の人だかりと写真のフラッシュの閃きで、往時の華やかな政庁の面影を彷彿とさせるにちがいない。これこそ平城の都・栄華の花である。
私は、歴史とは単に保存するとか同じものを作ったりするとかで感動を与えられるものでは無いと思う。歴史は生きてなくてはいけない。県庁も今の必要な施設だ。つまり奈良時代の中央政庁を建物だけ再現するのではなく、現代の奈良県庁を奈良時代から変わらず生き続けているかのごとく行うのだ、まるでそこだけが時間が止まっているかのごとく。
なんて夢のある話では無いか。奈良県庁ぐらいなら、遊びでやってみても大勢に影響ないだろうと思う。10年もしたら誰も変には思わないし、寧ろ奈良県民の誇りになると思う。だから全県あげて本気でやらねばならない。京都の葵祭も古式豊かにやり方を変えず何百年も続けるからこそ立派な祭りだ、単なる客寄せのイベントではない。奈良もそうであってほしいものだと思う。

8.総括

奈良は私の憧れの地である。最初は皆さんと同じで、京都のついでに帰りに寄って見るかと言う程度のもんだった記憶しかない。少し前までは奈良も修学旅行で行くところというイメージで、東大寺の大仏と春日大社の鹿・法隆寺の五重の塔・石舞台と、見る所は決まっていた。今なら興福寺の阿修羅像とか多少はバリエーションが増え、京都を素通りして奈良に行く人も多くなってきた様である。いい事である。
奈良の人は京都人と違って観光業に慣れてない。794年に平城京から平安京へと天皇が移って以来、外から京都にやってくる人からどうやって金を巻き上げるかに神経をすり減らしてきた「都人」に比べ、主人がいなくなった奈良には寺しか残らなかったのだから仕方ないと言えばそうなのだが、それにしても1200年の落差は如何ともし難い。
京都が賓客を華やかにおもてなしする贅を凝らした最高級のホテルとすれば、奈良は女中下男が寝泊まりする使用人部屋である。ちょっと言い過ぎたかも知れないが、それほど彼我の隔たりは大きい。今から追いつくのは無理と言うもの。何しろ1000年もの間、天皇がいなかったのだ、田舎臭くもなる。
しかしそれが結果的に奈良にとっては都合が良かった。歴史の皮肉と言えばいいだろうか、棄てられた都だからこそ、旧き明日香の畔道・うす暗い王寺の裏藪、手付かずのまま歴史の彼方から今日まで伝えられた謎めくメッセージが、人知れぬ好奇心を掻き立ててくれる。だから奈良は今のままで良い、少なくとも私の足が弱って歩けなくなるまでは・・・なんて、奈良に住んでる人には相当虫の良い事を書き並べたが、それ程偉そうなことを言える身分では勿論ないので、私のささやかな夢、と思ってもらえれば幸いである。

京都・奈良はまだ全然書き尽くしてないので、続々編でまた書きます。よろしくお願い申し上げます。

PS 先週知人とお茶する機会があったが、思いがけず書いてるブログについてコメントを頂いた。毎週読んで頂いている由、有難い限りで感謝感謝です。いつも読んでもらってると思えば、スマホの画面にも力が入ります、というか、力は要らないのでした。何とも味気ない話です。
そのコメントとは、前回の「古都の面影 (1)京都」が今までで一番良かったとの事。もしかしたら私は旅ライターの方が向いているのかも知れないな、と思って内心、隠れた才能が開花したかと独りほくそ笑んでしまいました。
と言うわけで、テーマを全国に拡げて古都という枠を取っ払う事にしました。次回より「全国勝手な旅の面影」 としてスタートします。乞うご期待!


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