明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

全国迷所紀行(最後の残りもの)

2023-12-13 21:00:00 | 歴史・旅行
(a)湯沢のスキー場
長岡から信濃川を横切ってだいぶ走った頃、湯沢の辺りに入ってきて陽も高くなり、オープンカーのむき出しのシートが熱くなって来た。冬はスキー客で賑わう湯沢だが、夏はひとけの無い閑散とした町である。畑の中の一本道を道なりに走って行くが、しばらく走っても人っこ一人出会わない。のどかな田舎道をのんびり走ってると遠くでカラスがアホーと鳴いて行った。ふざけたカラスだ。田舎だけに舗装してない道路は砂埃が舞って、なんだか口の中が埃っぽくなって来た。道の脇にポツンと自動販売機が立っているのを見つけて、喉も乾いたし丁度良いタイミングなので、一服するかと車を止めた。エスプレッソコーヒーを買い、道端の石に腰掛け一口啜ってから、おもむろにKENTの1ミリロングを取り出して火をつけた。「なんかヒマだなぁ」。

目の前の畑は丈の高い草がみっしり生えていて、作物を栽培しているようには見えなかった。スキー客と温泉で食べているから、ちまちま農業なんかやってられないのかも知れない。夏のスキー場なんか、ただの野っぱらの斜面にリフトだけが無闇に立つだけの、全く非生産的な施設だとの頭があるからかも知れないが、スキーはやらないので調べる気もない。だがスキー場なんてどこにあるのだろう。見渡す限りの鄙びた農村である。大体この辺が野沢のどの辺なのか、スキーと関係があるのかすら全然分からない。どちらにしろ、こんな田舎道にも自動販売機がある、というのが日本らしくて田園風景を台無しにしていた。

自販機があればコーヒー1杯100円で用事が済んでしまうが、無ければどこかの洒落たコーヒーハウスで、外の景色を眺めながらウェイトレスの女の子とちょっとした会話でも楽しめたかもしれないのにと思うと、日本は便利さの追求のために人と人とのふれあいを失って行くのだろうな、と考えて気持ちが萎えてきた。とにかく日本人はやたらに自販機を置きたがる民族に違いない。幸い京都の名勝地などでは自販機を見かけることは少ないが、こんな野沢の人けの無い畑の真ん中にも置いてあるくらいであるから、おそらく「これでもか」という位に日本全国津々浦々に自販機が溢れているのであろう。イタリアやフランスやその他ヨーロッパの街の様子をテレビで見る限りでは、自販機が置いてあったという記憶はあまり無い。「やはり自販機は無くさなければダメだな」と言いつつ、コーヒーの最後の一口を飲み干した。

その空き缶を捨てながら、「待てよ?この自販機は滅多に売れないから、俺の飲んだコーヒーはもしかすると去年のシーズンの売れ残りじゃないか?」と、不安が頭をよぎった。コーヒーだって腐るだろう、あるいは腐りはしないまでも劣化は絶対しているはずだ。思わず賞味期限を見るために捨てた空き缶を探そうと空き缶入れの蓋を取ろうとしたが、なんかつまらない事を気にしすぎだと反省した。第一、もう飲んじゃってるのだ。そう思ってイヤイヤ諦めてみると、天気が良く純朴な田舎びた風景をのんびり眺めながら気持ちがすーっと晴れやかになって、見るものすべてが美しく輝いているような気がしてきた。せっかくの旅を、こんな自販機ごときで邪魔されてたまるか!って気分で、勇気凛々としてきた。

気を取り直して車に戻り、愛車のエンジンを掛けた。エンジンは「野獣の咆哮を上げ」と言いたいところだが、私のカルタスは1300ccなので、プルルンプルルンと可愛らしい音をしている。もう一本タバコを咥えて車を道に戻し、一本道を走り出した。「家に着くのはだいぶ遅くなるな」と思ったが誰に気兼ねするわけでもなし、独身貴族の自由を思う存分満喫して旅を楽しむことにした。

(b)碓氷峠のレストラン

東北一周の旅も終わりに差し掛かり、ようやく夜のとばりが下りて辺りが暗くなってきた。ここは名だたる碓氷峠、さすがに夜の峠道は車の往来も少ない。夜のドライブは、真っ暗な道が1本あるだけの見ず知らずの土地に投げ出されて、僕はいったいどこへむかっているのだろうか?と自問自答する「未知な世界への探求心」が結構堪らない。最近はナビが進化して全て教えてくれるようになったがそれでも、未知の世界であることには変わりはない。くねくねとした葛折の峠道を目一杯スピードを出して右に左にハンドルを切っていると、なんだか自分がレーシングドライバーにでも成ったような気分がして、すっかり舞い上がって歌いだした。ハイファイセットのユーミンの曲を集めたヒットメドレーである。ボーカルが実にいい味を出して、大好きなアルバムだ。僕は運転しながら曲をかけている時間がとても好きである。曲を聴いていると手持ち無沙汰になるのだが、そこはドライブでしっかり手足を使う、実にリーズナブルな組み合わせではないか。お気に入りの曲を聴くためだけに、よく遠回りして帰ったりしたっけ。

峠を抜けるちょっと前のところにレストランが一軒開いている。そこの前に車を止めてタバコに火を着けた。腹は減ってないからレストランに入るわけではない。タバコを吸っている間にトラックやバンが目の前を通り過ぎて深い闇の中へ消えて行く。走り去るテールランプがカーブを曲がって見えなくなるまでじっと眺めていた僕は、この世の外にいる傍観者である。と、また佐川急便のトラックが勢いよく走ってきて同じく闇の中へ消えていった。みんな生きているんだ、僕以外は。そんな疎外感が僕を包んで、見上げると星空が永遠の光をかすかに照らしていた。「夜空にあまた星はあれど、我に向かいて瞬く星あり」。ギリシャの詩人サッフォーだったかの作品である。彼女はこの詩を書いたあと、断崖から身を投げたという。大学のころ新宿の図書館に通って世界の詩作品を読み漁ったころの名残であるから、いい加減な記憶である。ギリシャというのは紀元前10世紀の頃から文芸や科学に秀でた民族で、日本人がドングリなど拾って生活していた紀元前5世紀には既に、多くの名作悲劇を上演するほどの成熟した文明を花開かせていた。まあ、だから何だと言われればそれまでだが、余り日本人も誉められたもんじゃないな、という感想である。そんなことを夜空を見上げて思ったが、タバコも吸い終わったのでまた車に乗り込んだ。

カーステレオは「海を見ていた午後」を終わって、次は「中央フリーウェイ」がかかっている。「中央フリーウェイ〜、調布基地を追い越し〜」、口ずさむメロディが軽やかだ。稲垣潤一や松田聖子は私が思うに、ドライブに最高の「聞き流し曲」である。今夜はノンストップで聞きまくるぞ!

(c)夜の田んぼ道
ある時いわき市から夜の1時頃にどこをどう通ってきたのかわからないが辺鄙な農道を走って帰る事になった。その日は朝から常磐道を終点までいって、勿来の海岸辺りを見ながらドライブを楽しむ予定だった。茨城県から福島県へと走るにつれて景色はローカル色を強めていき、茨城でもやはり関東だけあって少しは垢抜けているもんだなと妙に感心した。観光といってもなにもない所であるからただひたすら走るだけである。海岸の近くを走っている筈なのだが切りたった山と民家の間を縫うように走るだけで、肝心の海はよく見えなかったのが期待はずれであった。当時は福島原発も事故を起こす前で、車で近くを通ったと思うのだが記憶に残っていない。

緩やかなカーブした道の両側に立ち並ぶ幟と宣伝の看板が日本の風景の特徴で、心の中では「景色をぶち壊す」ものと罵っていた。テレビで見る外国の風景には余り見かけないものだけに、景色を台無しにするこれらの商業的な造作物は宣伝には逆効果だと思うのだが、一向に止めないばかりかむしろ増えているところを見ると日本人には便利なツールと映っているのだろう。僕は観光地や絶景ポイントなどには余り興味がなくて、走っている道すがらふと見つけた他愛もない景色や家や色々なものに見とれて、おどろいた記憶を重ねるのが好きなので、この幟と立て看板の列には閉口している。

あちこちを走ったあと帰る頃になって下道を通って帰ったのだが、どうやら道を間違えたらしく、地図には適当に載っているだけの広域農道に入り込んでしまった。夜空は満天の星空である。どっちみち明日は暇な日曜日、今夜はとことん楽しもう!というわけで幌を空け、スピーカーから音楽を辺りいっぱいに響かせながら真一文字に暗い夜道を突っ走った。道は片側一車線の広めの道で、トラックだの回送バスだのの大きな車とすれ違うが割とスペースは取れていたので、こういうドライブも楽しいものである。たまに乗用車とすれ違ってお互いの目と目が合う何てこともあるが、こちらは能天気でハイテンションなわけで、向こうは「イカれた若者がオープンカーで何が楽しいのだろうかヘラヘラ笑っていやがる」といった感じの顔をしながら通り過ぎていくのだった。たぶん仕事帰りで早く家に帰りたいのだろう、私はそんなことも含めてドライブを満喫していた。

農道は右に左にと蛇行しながら田んぼの畦道のような砂利敷の道に飛び込んだ。車は60kmくらいのスピードで、まるで夜空を飛んでいるかのように「方向感覚が一瞬消えたまま」走り続けている。魔法がかった私の車は「夜空の闇の中を進む銀河鉄道」のように高く高く舞い上がっていった。そんな気分を楽しんでいると何とあっさり水戸街道へ出てしまったのだ。近くを見渡すと団地の灯りがいくつも見える。どうやら知らないうちに赤塚あたりの裏道を抜けて国道に出てきたようだ。水戸街道はよく知っているので何となく安心したが、それにしてもちょっとした冒険気分を味わった後なので、少々拍子抜けがしてガッカリした。

(d)金沢の東の廓と犀川
金沢は、車で能登半島を西海岸沿いから回って、能登まで行った帰りに寄ったかあるいは、仕事で富山に行ったついでに寄ったかどうも判然としない。それほど興味の無い町であった。加賀百万石の城下町で友禅や焼き物など魅力的なものもある筈なのだが、私はどういうわけだか心引かれるものがなかったのである。それで香林坊や武家屋敷をちょっと見たあとに東の廓を見に行った。東の廓は予想通り道の両側にべんがら格子の江戸期の芸者置屋風の建物が並んでいるばかりの味気ない区画で、なんとも感想は浮かばなかったので仕方なく山に登って上から眺めることにした。ちょっとした丘からの眺めは家並みの瓦が暗灰色に鈍い光を反射して、低く谷あいを這うように連なる様を眺めていると、昔日の北陸の冬の面影が伝わってきて「何故かもの悲しい気分」に襲われるのだった。加賀前田家の豪華な生活を想像してやってきた私にはいささか予想外の景色だったが、見る人によってはどの様にも映るのだろう風景の頼りなさに、ふと「旅は自分自身が本当に求めているものを見る」という格言からすると、案外私は「根暗の人生観」の持ち主なのかも知れないと思った。廓なんぞ、女郎に売られた女達の裏悲しい物語を風流と呼んで人生の暇潰しにしていた男の遊び場であるから、所詮は根暗な場所である。金沢はそんなわけで余り楽しい思い出も見つけられず、ササっと表面を斜に見て帰ってしまった。唯一の文化的収穫は、犀川に懸かる橋の欄干から水面を覗き込んで、その水量に感心した位である。

犀川はもちろん「故郷は遠くに在りて想うもの」で有名な室生犀星の生まれ故郷に滔々と流れる大河である。特に好きな作家ではなく、作品もほとんど読んだことがない私だったが、この詩のフレーズだけは頭に残っていて、ちょうど金沢旅行の際、犀川を見たときに懐かしく思い出したのだ。人間の記憶というものは曖昧なものでも、ある時突然鮮明に蘇るもので、きっと脳のどこかのセルにはしっかりと保存されている「確かなもの」ではないだろうか。ただ何かのアクションがなければ、殆ど思い出さないだけなんだろうと思う。その証拠にすっかり忘れていても聞かされれば「ああそうだった」と思い出して、それが「初めて聞いたことではない」と知るのである。

室生犀星は子供のころ読んだ日本の文学者50人だか100人だかの全集本の一冊に載っていたのだが、今にして思うと私の母親は教育熱心だったに違いなかった。小学校に上がるかそこらの子供に「世界の偉人伝」とか「シートン動物記」とかの全集を買い与えて読ませてくれた。芥川龍之介や夏目漱石や森鴎外などは勿論子供向きの作品ではあるが、私は本好きなのか、一通り読んだらしい。そんな記憶は全く無いが脳は覚えていて、金沢の犀川の河畔に立てば自然とよみがえってくるのだった。ただそれだけのことだが、不思議なものである。年を取ると人の名前が中々出てこなくなるが私も例外ではなく、米倉涼子の名前がどうしても出てこないことが数回あった。その度にきちんと覚えようとするのだが、また次の機会には忘れてしまっている。ところが今度は米倉涼子は出てくるんだが、「京都地検の女」の女優が思い出せないのだ。どうしようもない。結局「名取裕子」を思い出すのに2日かかった。どうも時が経つと思い出すのは絵画のような「1シーンだけ」のようである。

金沢で旅行した思い出は東の廓で見た「瓦屋根の風景」と、この犀川の「水の流れ」の2つである。実際思い出としては少ないようであるが、人間の記憶に留めるにはこんなもので十分なのではあるまいか。人が死ぬときには人生が走馬灯のように思い起こされるというが、それが「3時間も4時間も」かかってしまっては、全部見終わるまで「命が持たない」のであろう、走馬灯のように「2、3分」がちょうど良い。多分、何を覚えていて何を忘れてしまうかは「本当の理由はわからないが、きっと理由はある」はずなのだ。私たちにはわからない何かが。


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