明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

孤独な夜に聞くクラシック(3)ニコライ・ルガンスキー

2020-11-15 15:59:47 | 芸術・読書・外国語

1、ニコライ・ルガンスキーは、テクニックをひけらかすタイプのピアニストでは無い。
一音一音、感情を込めて「音」を弾き分ける演奏家である。鍵盤を押すときの指先の強弱や繊細なタッチ、アタックの立ち上がりとストロークの浅深、音の保持と滑らかな音の繋がり、それらの全てが渾然一体となって、彼の音楽を形作っている。私は試しにテレビのイヤホンから「SHURE の SRH1540」ヘッドフォンにつなぎ変えて聞いてみた。すると俄然ピアノの音が生き生きと躍動し、まるで物体の表面を顕微鏡で見るように、演奏者の意図が「細かく、直に伝わって来る気がした」のである。これは私がそう感じただけで、ニコライ・ルガンスキーの音楽そのものでは無いかもしれないが、少なくとも彼の弾くシューマンやショパンの世界に、僅かでも入り込めたのは事実だろうと思う。実は私は先日、ラジオで美空ひばりの歌声を聞いて、音楽の表現というものに開眼したばかりであった。別に美空ひばりが好きというわけではなく、彼女の歌に感銘したというのでもない。だが、歌唱力という言葉の意味が基本的には「声を自分の意のままに操る」ということであれば、美空ひばりはまさに「格好の歌唱例」を提供してくれたと思っている。例えば、美空ひばりの「川の流れのように」を聞くと千変万化というのは大げさにしても、少なくとも4つや5つは「異なった声」を出しているのが分かるはずだ。これが歌唱力の基本テクニックである。ちなみに美空ひばりが人並み優れて歌の才能があるのは認めるが、私はそれ程彼女の歌い方が「好き」ではない。まあ、歌い方が古いのは仕方がないとして、どうにも「あの声」が好きになれないのだ。これは好みかも知れないが、声の好きずきは大事だろう。バイオリンやピアノだって、人によって「好みの音色」を選ぶからである。

2、では、ピアノで声と同じように「音質」を変えられるのか?
ニコライ・ルガンスキーは、要するに「鍵盤の押し方」で音量と音質を微妙に変化させている。放送された映像を見ると、弾いているのはスタインウェイだが、彼が弾くと「あのキンコンカンと鳴る」スタインウェイには似合わない、柔らかい音が出てくるから不思議である。まあ、プロのピアニストであれば、誰でもそのくらいの音質の変化は朝飯前と言えばそれまでだが、彼の場合はそれが「実に自然に響く」のだ。無理に作っていない感じ、これが大事である。これは、私がそう聞こえているだけで、違う人が聞けばまた「違う風に聞こえる」のは当然と言える。ともあれ、ピアニストはピアノの曲を「まるで歌うように」弾くと私は思っている。要はピアノと言っても、バイオリンやフルートやトランペットと言っても、すべて「歌」なのだ。モーツァルトは作品の全てにおいて「歌に溢れている」と言ったのは、チェロの神様「パブロ・カザルス」である(だったと思うが)。ピアニストが歌が上手いか下手かは声帯の構造によるだろうから別としても、その「表現の仕方」は相通ずるところがあるに違いない。名歌手なら名ピアニストの演奏を聞いて、その意図する所は十分に理解するだろうと確信している。まず演奏家には、楽曲を自分の思ったように表現する「テクニック」が求められる。それが出来て「その上に」その表現したものが人々の共感を得ることで、初めて名演奏家と評判を取るのである。ニコライ・ルガンスキーはそのレベルに達している数少ないピアニストの一人だと言えよう。

3、では鑑賞者は、ピアニストの表現を聞き分けるために、どうしたら良いか。
我々鑑賞者の側が演奏者の表現をしっかり汲み取るには、どういう事をすればいいのか。それは演奏者が毎日鍵盤に向かって練習しているのと同じように、鑑賞者も日々自分の鑑賞力を訓練する必要がある、と私は考える。何であろうと、生来の才能だけでやっていける程、人生は甘くはないのだ(ちょっとオーバーかも!)。あの大天才のモーツァルトだって、もの凄くバッハなどの対位法を勉強したらしいというではないか。ましてや凡才の私等一般鑑賞者は、ひたすら「耳を澄ませて聴く」ことに集中するくらいしか出来ないと思う。歌手であれ、ピアニストやバイオリニストであれ、その発する音を「一音一音、丹念に聴き込む」ことで、格段に鑑賞力は上がる筈だ。その時、歌なり演奏なりを「自分自身で同じように再現してみる」ことである。そうする事で、より演奏者の意図が理解しやすくなる。例えば、歌の場合は同じように声を出して歌ってみる。勿論、ピアノの場合も「同じように頭の中で弾いてみる」のが効果的だ。実際に鍵盤を押すわけではないので、プロの弾く曲でも「同じように頭の中で弾くことは可能」である。そうして、演奏者の音楽を「再現」することによって、演奏者の感情表現を「追体験」してみるのである。これが「音楽鑑賞の正しい練習方法」だと私は思っている。

4、音楽は、一つの作品の中に「全て」が含まれている。
音楽には、あるものは陶酔だったり熱狂だったり、また憂愁が色濃く出ていたり愉悦が支配的だったり、また別のものは沈黙の静けさであったり甘美な愛だったりする。勿論、破壊への衝動や勝利の歓喜もあるだろう。だがそれらの描き出す「主調」と、反対のものや統合するものなど「多様な側面」が混在し、それらの全てが一体となって「一つの作品」として存在している。決して単一の情感だけで描かれるものではない。なぜなら現実の自然環境には、常に複雑で多様性な生命が存在しているからである。その多様性をピアニストは「それぞれに弾き分けること」で、現実世界を表現しているのだ。名ピアニストとは、それを他の誰よリも「上手に弾き分ける」才能を持っている人なのである。だが、弾き分けるだけでいいのか?。・・・これが芸術の難しいところだと思う。俳優がいろんな役を演じ分けるように、ピアニストは「音を弾き分け」ているのは確かである。だが、音楽が「歌」として耳に聞こえる時、それは「一人の人格の音像」として感じ取られる筈なのだ。それが作曲者の投影であると感じる人もいれば、空想の中の人物のように感じる人もいる。当然、作曲者が「その楽曲の中の人物像とリンクしている」と思う人は多いだろう。だが結論は、実際は全く関係ない、というのが正しい。まあ、そういう事は「音楽の本質」とは無関係な事なので、音楽は純粋に「耳に聞こえる音」のみから感じる世界を追求すればいいと思っている。何れにしても音楽は、「音による会話」であり「音によるコミュニケーション」なのだ。音楽は、心の内部深くに「沈潜」する。

5、音楽は「社会」そのものである
ここで一つ疑問が出て来るが、クラシック音楽とそれ以外の音楽に違いがあるのだろうか。我々はクラシック以外にも、ポップスやロックやラップや演歌やそれ以外の多様な音楽などを聞いている。いやむしろ、クラシックは今や「マイナーな音楽」になっている。我々の身の回りに溢れている音楽は、例えば韓流アイドルのBTSだとかブラックピンクだとか、いわゆるアイドルグループの可愛くて脚の長い少年少女達が「ひたすらブンチャッチャ」と踊っている映像が持て囃されている時代である。Jポップも、まあ似たような状況だ。彼等は演奏をじっくり聴き込むというよりは、「踊りの方が主体」のように見える。これはどちらかと言えば「外部へのエネルギー発散の音楽」で、私の言う「内部に沈潜する音楽」とはちょっと違うように思えるのだがどうだろう。彼等の表現は、歌は添え物で歌詞も余り意味はなく、「リズミカルにビートを刻む激しいダンス」が本質である。ダンスというのは耳で聞く音楽と違って「身体の動き」を使った視覚的なものであり、「より根源的な、感覚的なコミュニケーション」だと思っている。つまり、踊っていると「人は何故かエモーショナルに」なり、知らず識らずのうちに「心身が開放されて行く」のだ。このコミュニケーションは、耳で聞く音楽よりも「より動物本来の生命力」に根ざしているものじゃないかと私は思っている。言わば頭脳や理屈以前の「運動能力の発現」である(余り適当な表現が見つからない)。全ての音楽の根本は、これじゃないかと密かに私は考えている。例えばアフリカの古くからいる人々の集団ダンスなどは、この原型であると思っているのだ。この流れを発展させていくと、リオのカーニバルから徳島の阿波踊りに至る「延々と何日も続く」熱狂につながって来る。世の中にはそこまでいかなくても、多種多様な音楽に満ちているのである。そのどれもが、他に劣らず聞いていて楽しいものである(勿論、全部ではない)。だがダンスを例にとれば、踊り終わった後「あー楽しかった!」とは言っても、「感動した!」とは言わないのではないだろうか。そういう「深い感動」を味わえるのは、私にとって「クラシック」だけだと思っている。

6、良い音質のヘッドフォンで、クラシックを聞いてみる
音楽の正しい鑑賞法を見つけた私はそれ以来音楽と向き合う時には、「オーバーイヤー型の高音質ヘッドフォン」で「少し音量を上げ」てじっくり聴くことにしている。音量は音楽にとって大切な要素だ。同じ音楽でも、音が小さい時と音が大きい時では「雲泥の差」がある。それで音量を上げて、試しにモーツァルトのピアノソナタを聞いてみた。そうすると、メロディは確かに耳に聞こえてはいるが、それ以上に「一つ一つの音に込められた感情の変化」に心を奪われたのである。最初から最後まで、その音の変化は続いていた。モーツァルトの音楽は、深い。とてつもなく深いのだ。ところが他の音楽、例えばベートーベンのピアノソナタを聞くと、もっと観客を熱狂させる「アジテーション効果」を狙ったフレーズが随所に出て来るのである。英雄交響曲から皇帝協奏曲までの絶頂期の作品がそうである。だが、効果音は何処まで膨らましても効果音、「耳を澄まして聞いている鑑賞者には響かない」のだ。これがモーツァルトとベートーベンの「違い」である。勿論、ベートーベンの目指す音楽は、モーツァルトの愛する音楽とは違う。ただ、効果音で得られる喜びは、結局「外側の共感」に終わってしまう。行き着く先は「阿波踊り」なのだ。人々が年末になると持て囃す「第九交響曲」は所詮は、出来の良いイベント音楽でしかないのである。だから第九は、私は一度も通して聞いた事はない(こんなこと、自慢してもしょうがないが)。唯一ベートーベンで時々聞いているのは、「弦楽四重奏曲」である。彼の弦楽四重奏曲からは、全く何の歌も聞こえてこない。完全な「無機質な音の連続」だ。その壮大な作曲技法から紡ぎ出される「巨大な迷路」のような作品群を聞いていると、何故か分からないが、心が洗われる気がする。きっとこれが、ベートーベンの目指した境地であろう。どうやら私にも、「効果音と意味のある音」を聞き分ける力が付いて来たようである。・・・どちらかと言えば私はモーツァルトの方が好きだが・・・。

ともあれ、まさに「歌を歌う」ように音を奏でる、ということが音楽を聴く時のキーポイントだと思う。そしてその「歌」は、「心」で鑑賞しなければならないのだ。だから優れたクラシックを聞いた後の感動と満足感は、誰とも共有できるものではないと感じている。そういう意味では、クラシックは「自分一人だけ」のものである。これは、CD時代の聴き方だろうか。昨夜は、サルバトーレ・アッカルドのバッハ「シャコンヌ」をとことん聞いてみた。バッハの音楽が、これほど優しさに満ちているとは・・・驚きである。これで平均律も、もう一度聞き直す必要がありそうだ・・・。


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