1、久米宏のラジオなんですけど
前々から告知されてたことだが、とうとう6月末に終わってしまった。日本中でコロナ自粛が始まって、世の中ステイホームが流行し始めた4月、私がラジオを聞き始めた頃から一気にファンになった番組が、「久米宏のラジオなんですけど」である。彼の「しゃべり」は、年齢から来る滑舌の悪さと、他の若いパーソナリティとは一線を画す独特の間を持っていて、特に政治問題に関する真摯な毒舌と相まって、一週間が待ち遠しいくらい楽しみであった。RADIKO でお気に入りに入れ、電気を消して寝床に入り、寝ながら耳を傾けるのが私の聞き方である。それが6月で終わってしまい、何だか気の抜けたように、ポッカリと白く空いたカレンダーが恨めしい。もっと続けてもいいのに・・・というのが、偽らないリスナーの総意だと思った。アナウンサーの堀さんとの軽妙な掛け合いは絶妙で、若い芸人などでは「足元にも及ばない」しゃれた会話を聞く2時間は、私にとって至福の時間だったのである。それが突然終わってしまった・・・。どこか割り切れない気持ちが残る別れ方である。
私が思うに、この番組を局側で終わらせる理由は見当たらないから、終わるとすれば「久米宏の側」の意向である。久米宏は年齢のせいにしていたが、確かに彼の「不明瞭な発音」は、年齢で片付けるにはちょっと「酷い」。少なくとも彼は元は「アナウンサー」である。メールを読む時などにちょっと噛んだり、長い文章では発音が乱れて聞き取りにくかったりすることが多くなり、彼のメイン・パーソナリティとしての経歴からすれば、このようなレベルの放送は「大変心苦しい」ものがあったろうと推察した。彼が番組で言っていたように、「もう潮時」なのかもしれない。話の内容の面白さとか、教養に裏付けられた笑いのツボとか、ラジオにとって欠かすことの出来ない「久米宏の魅力」はいまだ健在である。他の番組で感じる「しゃべりの拙さ」を思えば、彼のしゃべりの衰えなど「どうでもいい」些末な事ではないのか?
こないだ他局であるが小林克也の番組を聞いていたら、彼も激しく「噛み噛み」やらかしていたので、久米宏の発音も「それ程悪くもないよな」と思えたくらいである。その後に別の時間に松山千春の番組をたまたま聞いたら、冒頭で熊本豪雨災害の話を「しどろもどろ」に話していて、内容も全然なく、何をしゃべっているか殆ど分からないまま時間が過ぎていく「酷い番組」だったので、久米宏の方が「数段良いよなぁ」と思ってしまった。少なくとも2時間の長丁場を、「もたついたり、ダレたりせず」に、リスナーを惹き付けて飽きさせない話術は見事の一言である。この、中身の詰まった番組に匹敵する高密度な笑いを提供してくれるのは、今のラジオでは「問わず語りの神田伯山」位しか無い(勿論、私の個人的評価である)。当然だが、番組の内容も事前に入念に作り込んであり、放送前に脚本家が組み立てた筋立てを、彼も確認しながら番組を進行しているんだろうと思うが、それを一つも感じさせないライブ感覚と、堀さんとの「当意即妙の受け答え」など、アドリブとしか思えない会話もテンポが快調で、2時間という長さがあっという間に過ぎてしまう印象がある。多くのラジオ番組が、ともすれば時間つぶしの「ながら聞き」になっている中、終わった後に「来週もまた聞こう」と思わずにいられないのは、「久米宏」ぐらいしか思い浮かばないのである。
先日ガンを克服して奇跡の生還を果たした笠井信輔アナウンサーは、入院する前は「妙に発音が変」だった。笠井氏はアナウンサーである。身体の他の部位がおかしくなったとしても、「滑舌」だけは人一倍良い筈ではないか。何かおかしいな、と思っていたら「そのすぐ後にガンで入院」のニュースが流れた。久米宏もまさか、ガンとかの兆候があるんじゃ無いだろうかと、ちょっと心配になった。だが彼の場合は笠井氏とは違って、「久米宏というブランドイメージ」を守るために、番組を辞めたんだと思いたい。それに既に「久米ネット」という新しいプログラムを立ち上げているので、テレビやラジオの「放送」という形態に見切りを付け、これからはネットの YouTube などで発信してゆこう、という考えなのかも知れない。彼ももう75才、そろそろ「自前のメディア」を持ちたくなったということなのかも。まあ、何れにしても健康上の理由でないことを祈るとしよう。それにしても、あれほど早口で素晴らしい滑舌を持っていた久米宏が、その「自慢の滑舌の衰え」を自覚して、遂には番組をやめなくてはならなくなったとしたら残念に思う。黒柳徹子が自身の「しゃべりの衰え」を受け入れた結果、「他の魅力でカバー」して番組を続けているのを見れば、滑舌の悪い久米宏もまた「新しい久米宏」として、魅力溢れるパーソナリティ像を築けると思うのだが・・・。
と、ここまで書いてきたが、ふと新たな疑問が湧いてきた。私も含めて久米宏の番組を愛聴しているファンは、皆んな昭和生まれの後期高齢者ばかりなんではないか?、という疑問である。ラジオの深夜番組をあれこれ探して聞いて見ると、揃いも揃って「ただやかましいだけの馬鹿騒ぎ番組」ばかりが並んでいてガッカリする。しっとりとした声のトーンで、話の内容をじっくり聞かせるパーソナリティはいないのかと思う。ガヤガヤした中身のない冗談をしゃべって騒ぐだけの「時間つぶし」の番組を聞くと、どこが面白いんだろうと思ってしまうのは、もしかしたら「私が昭和生まれ」だからだろうか。これだけ各局が同じようなパーソナリティを揃えているということは、視聴者が「そういう番組」を聞きたがっているということに他ならない。そしたら、世間の動向に敏感な久米宏が、視聴者層の変化に気付いて「そろそろ花道を」と考えても、当たらずと言えども遠からずってことになる。であれば番組終了の本当の理由は、よる年波で滑舌が悪くなったからではなく、むしろ将来ラジオ局の編成替えで番組が打ち切られることを予測し、そうなる前に「自分の方から潔く辞める」という高等戦略なのか、と「うがった見方」をしてみた。だらだらと視聴率が下がって人気が落ちてきた頃に「久米さん、番組どうします?」なんて局のお偉方から打診されるよりは、まだ惜しまれながら去っていく方が「よっぽど久米ブランドの価値」が上がるってもんである。人一倍プライドの高い彼のことである、「やめ際もカッコよく」という演出には、私も一瞬騙されそうになった。
番組を終了した後に「ペロッと舌を出して」いる久米宏を想像したら、まだまだ「久米宏は終わらないな」と一安心である。
2、人間の記憶力
昨日の夜、いつものように電気を消して寝床に入り、ラジオを聞きながら寝るつもりが聞き覚えのある歌声が流れてきて、「これは確か、えーと誰だっけか、えーと」と思い出そうとして、何か急に頭が冴えて眠れなくなってしまった。昼間、ちょっと寝てしまったのも悪かったのだが、それにしても歌手の名前が思い出せない。女性歌手でメジャーではないか「そこそこ知られている、個性的なシンガーソングライター」だというプロフィールは、簡単に思い出せた。というか、それを思い出しているからこそ、名前がどうしても出てこなくてイライラしているのだ。時間はとうとう3時を回ってしまっている。一人名前が出てこないと、その後他にも聞く曲すべてが、続々と名前を思い出したくなってくる。皆んな知っている筈の歌手ばっかりだが、どうしても名前が思い出せないのである。私はちょっと前までは、「事ある度に」米倉涼子の名前がどうしても思い出せず、何回覚えようとしても又しても忘れてしまう変な癖があった。特定の名前が覚えられないというのは、人間の機能に良くある「不思議な現象」なのかも知れない。私の友人のSN氏は同じように「誰だか」が思い出せないと言っていた(誰だか聞いたのだが、それも忘れてしまった)。人それぞれに「特定の人物名」は違っているみたいである。昨日の夜、その他に思い出せなかった名前は、女性の有名JAZZ歌手と男性の有名R&B歌手、それと日本のロック・グループである。さすがに思い出せない名前の数が増えてきて、いつしかそのうちに眠り込んでしまった。最初の女性歌手は名字に確か「東」という字が入っている筈なのだが、東上だか東山だか・・・。
翌朝10時に目が覚めて、すっかり歌手の名前のことなぞ忘れていたのだが、突然なんの前触れもなく、その女性歌手の名前が「急に頭に浮かんだ」のである!。そうだ、「古内東子だ!!!。
その後は芋づる式に「サラ・ヴォーン」と「プライマル・スクリーム」を思い出した。男性R&B歌手は・・・、もうどうでもいい。とにかく思い出せたことが嬉しいのだ(私はまだ、認知症にはなってないと分かった)。それで早速、スマホの DROPBOX を開いて「人物名・歌手欄」に古内東子を追加したわけである。人間の記憶について、私は人間の脳とパソコンは「違う検索システム」を使用していると考えている。例えば脳の中には、特別に「名前」をフルネームで記憶するエリアというのは存在してなくて、多分「文字」だけが「バラバラ」に記憶していて、言うなればランダムに不規則な形で記憶されているのだと思う。つまり人の名前という明確なものではなく、記号として記憶している。もし古内東子という名前をフルネームで彼女のプロフィールと結びつけて記憶しているのであれば、「東」という文字だけ「うっすら」と記憶が蘇るのは、理屈に合わないではないか。脳にある記憶細胞は、4文字あったデータが3文字だけ無くなって、1文字だけ辛うじて残っているなどという「いい加減な」ものではない。昔何かに書いてあったが、人間の記憶方法というのは文房具とか交通機関とかカテゴリーで覚えているのではなく、もっと原始的な「分類」で行われているというのである。例えば「大きいもの・小さいもの」とか、「丸いもの・角張っているもの」とか、「動くもの・動かないもの」と言ったような単純で大雑把な分類だ。こういう分類方法は、人類が言葉を使いだす「遥か以前」から身につけていた原始的方法であろう。そして大きいものと小さいものの記憶場所は、脳の中で「違っている」ということが分かっている(脳は、大小の比較さえもしていないのだ!)。これは交通事故などで脳に傷害を負った人の事例から分かったことである。例えば洗濯機やタンスは、腕時計やスプーンとは「違った領域」に記憶されている。それも「形」だけである。「色」や「材質」はまた別の場所に保存されている。実に効率が良い記憶方式だ。多分、完全な形で丸ごと記憶されているものは「無い」というのが、現在の医学の常識である(これは私の理解だから、ちょっと怪しい)。つまり、頭で「トマト」を思い浮かべるときにはトマト自体をポンと記憶領域から呼び出してくるのじゃなく、形の記憶領域から「丸い」を持ってきて、色の記憶領域から「赤い」を持ってきて、材質の領域から「皮があって中身が柔らかい肉状のもの」を持ってきて、と多くの情報を「個別」に呼び出して、それらを脳が「仮想空間で合成して」一つのイメージを作り上げているらしいのだ。これなら丸いものは何でも「丸い」という一つの情報で済む。記憶細胞を使わなくて済む、究極のエコシステムだ。これなら原始人の小さな脳でも、十分記憶容量は足りる。というか現代人のバカでかい脳味噌は、実は殆どが使われていない、という説もある(笑)。
で、そのバラバラの属性を繋ぎ合わせているのが「シナプス」である。一度目で見たものは、その外観から得られた「大小・硬軟・形・軽重・色・材質」などの関連した情報のネットワークの「結果として」、シナプスが生成され記憶される。記憶とは「シナプスのセット」である。そのシナプスのセットの内、一つが欠けていれば、その情報が(例えば色が)失われる。先程の歌手の例で言えば、音楽を聴けば日本人の女性だという情報や、若い・歌い方が個性的・特徴的なメロディ・声の質など、多くの情報を記憶している筈である。これらは自分の耳や目で得た「一次情報」である。ところが名前だけが、聞こえてくる音楽の「どこにも出てこない」情報なのだ。つまり作曲者=所有者というシナプスを辿ることで行き着く、「別次元の情報」なのである。言うならば名前とは、対象の音楽とは「属性としては、何の関係もない無意味な記号=整理番号」みたいなものである。例えていうならば、良く知っている人なんだけど、電話番号は何番だったっけかな?、というようなもんである。電話番号は本人の属性と「何の脈絡も無いランダムな番号」だから、1から9までの数字のセットと、それが誰々というセットとを「無理やりつないだ」記憶であり、情報の補強が無いために「恐ろしく脆弱」なのだ。記憶は定期的に繰り返してシナプスを強くしなければ、次第に強度が薄れてきて、記憶の奥深く底のほうにしまい込まれて、思い出すのが難しくなる。その化石のようなシナプスを、広大な記憶領域の中を「総当たり的に検索」しているのが、「思い出す」という地道な作業なのだ(と、私は理解している)。先程の歌手の例で言うならば、思い付く限りのランダムな名前の例を、一つ一つ歌手の情報と照らし合わせて「シナプスが点火する」かどうか試している、と考えられる。文字の組み合わせは「たった一つ、東という字が入っている」という情報である。しかしこれも、思い出してみれば「全然入っていなかった」という事もあるのだから、ややこしい。シナプスが点火するというのは、「これだ!」という感覚である。歌手の名前が古内東子だったという、何か「ハッキリした証拠」が見つかったわけではないが、私には「思い出した」という実感があった。これって、考えてみれば不思議である。多分、思い出した断片的情報の「全て」に、同じような親和性=点火があれば、「これだ!」となるのであろう。これも脳の不思議な能力である。
私が眠っている7時間半の間中、きっと私の脳は「検索・合成・照合」を繰り返していたに違いない。朝目が覚めた時に、奇跡的に名前が浮かんできたのが、その証拠である。多分、東子という「珍しい名前だった」ことが記憶に残っていたのだろう。最初、「東」は名字の一部だと思っていた。人間の記憶というのは「あやふや」なものだが、しかし一旦長期保存されたものは、よほどのことがない限り「忘れる」ことはない(というのが私の記憶に関する理論)。情報は脳に残っている。ただ、忘れるのではなくて「思い出せないだけ」なのだ。シナプスが辿り着くための方向を決める機能が「脳に無い」ので、行き当たりばったりに検索しなければ思い出せないのだと思われる。それが顕著に現れるのが、歳をとると思い出せなくなる「名前」である。名前以外でも最近忘れる事が多くなってきたが私は去年だか、「押入れ」という日本語を思い出せずに「クローゼット」って日本語で何というか、わざわざネットで調べて「やっと思い出した」という経験があった(その時は、流石に痴呆症を疑って怖くなった)。
私は米倉涼子の名前を何回も忘れるので、実はスマホの DropBox に「人物名」というファイルを作って、一度でも思い出せなかった名前は「片っ端から」書き込むようにしている。どうしても思い出せない時にこのファイルを開きさえすれば、必ず目当ての名前が書いてあるという「ど忘れ専用」の記録ツールである。これを書き溜めてからは、もう「痴呆症」の心配はしなくなった。普段から「あれあれ、あれだよ」と言い慣れている物忘れ病の老人は、こんなスマホの活用法をお勧めしたい。
それにしても若い人は記憶力が良いねぇ。「あれ」などという指示代名詞は「一切」使わないらしいから、羨ましい限りです。
前々から告知されてたことだが、とうとう6月末に終わってしまった。日本中でコロナ自粛が始まって、世の中ステイホームが流行し始めた4月、私がラジオを聞き始めた頃から一気にファンになった番組が、「久米宏のラジオなんですけど」である。彼の「しゃべり」は、年齢から来る滑舌の悪さと、他の若いパーソナリティとは一線を画す独特の間を持っていて、特に政治問題に関する真摯な毒舌と相まって、一週間が待ち遠しいくらい楽しみであった。RADIKO でお気に入りに入れ、電気を消して寝床に入り、寝ながら耳を傾けるのが私の聞き方である。それが6月で終わってしまい、何だか気の抜けたように、ポッカリと白く空いたカレンダーが恨めしい。もっと続けてもいいのに・・・というのが、偽らないリスナーの総意だと思った。アナウンサーの堀さんとの軽妙な掛け合いは絶妙で、若い芸人などでは「足元にも及ばない」しゃれた会話を聞く2時間は、私にとって至福の時間だったのである。それが突然終わってしまった・・・。どこか割り切れない気持ちが残る別れ方である。
私が思うに、この番組を局側で終わらせる理由は見当たらないから、終わるとすれば「久米宏の側」の意向である。久米宏は年齢のせいにしていたが、確かに彼の「不明瞭な発音」は、年齢で片付けるにはちょっと「酷い」。少なくとも彼は元は「アナウンサー」である。メールを読む時などにちょっと噛んだり、長い文章では発音が乱れて聞き取りにくかったりすることが多くなり、彼のメイン・パーソナリティとしての経歴からすれば、このようなレベルの放送は「大変心苦しい」ものがあったろうと推察した。彼が番組で言っていたように、「もう潮時」なのかもしれない。話の内容の面白さとか、教養に裏付けられた笑いのツボとか、ラジオにとって欠かすことの出来ない「久米宏の魅力」はいまだ健在である。他の番組で感じる「しゃべりの拙さ」を思えば、彼のしゃべりの衰えなど「どうでもいい」些末な事ではないのか?
こないだ他局であるが小林克也の番組を聞いていたら、彼も激しく「噛み噛み」やらかしていたので、久米宏の発音も「それ程悪くもないよな」と思えたくらいである。その後に別の時間に松山千春の番組をたまたま聞いたら、冒頭で熊本豪雨災害の話を「しどろもどろ」に話していて、内容も全然なく、何をしゃべっているか殆ど分からないまま時間が過ぎていく「酷い番組」だったので、久米宏の方が「数段良いよなぁ」と思ってしまった。少なくとも2時間の長丁場を、「もたついたり、ダレたりせず」に、リスナーを惹き付けて飽きさせない話術は見事の一言である。この、中身の詰まった番組に匹敵する高密度な笑いを提供してくれるのは、今のラジオでは「問わず語りの神田伯山」位しか無い(勿論、私の個人的評価である)。当然だが、番組の内容も事前に入念に作り込んであり、放送前に脚本家が組み立てた筋立てを、彼も確認しながら番組を進行しているんだろうと思うが、それを一つも感じさせないライブ感覚と、堀さんとの「当意即妙の受け答え」など、アドリブとしか思えない会話もテンポが快調で、2時間という長さがあっという間に過ぎてしまう印象がある。多くのラジオ番組が、ともすれば時間つぶしの「ながら聞き」になっている中、終わった後に「来週もまた聞こう」と思わずにいられないのは、「久米宏」ぐらいしか思い浮かばないのである。
先日ガンを克服して奇跡の生還を果たした笠井信輔アナウンサーは、入院する前は「妙に発音が変」だった。笠井氏はアナウンサーである。身体の他の部位がおかしくなったとしても、「滑舌」だけは人一倍良い筈ではないか。何かおかしいな、と思っていたら「そのすぐ後にガンで入院」のニュースが流れた。久米宏もまさか、ガンとかの兆候があるんじゃ無いだろうかと、ちょっと心配になった。だが彼の場合は笠井氏とは違って、「久米宏というブランドイメージ」を守るために、番組を辞めたんだと思いたい。それに既に「久米ネット」という新しいプログラムを立ち上げているので、テレビやラジオの「放送」という形態に見切りを付け、これからはネットの YouTube などで発信してゆこう、という考えなのかも知れない。彼ももう75才、そろそろ「自前のメディア」を持ちたくなったということなのかも。まあ、何れにしても健康上の理由でないことを祈るとしよう。それにしても、あれほど早口で素晴らしい滑舌を持っていた久米宏が、その「自慢の滑舌の衰え」を自覚して、遂には番組をやめなくてはならなくなったとしたら残念に思う。黒柳徹子が自身の「しゃべりの衰え」を受け入れた結果、「他の魅力でカバー」して番組を続けているのを見れば、滑舌の悪い久米宏もまた「新しい久米宏」として、魅力溢れるパーソナリティ像を築けると思うのだが・・・。
と、ここまで書いてきたが、ふと新たな疑問が湧いてきた。私も含めて久米宏の番組を愛聴しているファンは、皆んな昭和生まれの後期高齢者ばかりなんではないか?、という疑問である。ラジオの深夜番組をあれこれ探して聞いて見ると、揃いも揃って「ただやかましいだけの馬鹿騒ぎ番組」ばかりが並んでいてガッカリする。しっとりとした声のトーンで、話の内容をじっくり聞かせるパーソナリティはいないのかと思う。ガヤガヤした中身のない冗談をしゃべって騒ぐだけの「時間つぶし」の番組を聞くと、どこが面白いんだろうと思ってしまうのは、もしかしたら「私が昭和生まれ」だからだろうか。これだけ各局が同じようなパーソナリティを揃えているということは、視聴者が「そういう番組」を聞きたがっているということに他ならない。そしたら、世間の動向に敏感な久米宏が、視聴者層の変化に気付いて「そろそろ花道を」と考えても、当たらずと言えども遠からずってことになる。であれば番組終了の本当の理由は、よる年波で滑舌が悪くなったからではなく、むしろ将来ラジオ局の編成替えで番組が打ち切られることを予測し、そうなる前に「自分の方から潔く辞める」という高等戦略なのか、と「うがった見方」をしてみた。だらだらと視聴率が下がって人気が落ちてきた頃に「久米さん、番組どうします?」なんて局のお偉方から打診されるよりは、まだ惜しまれながら去っていく方が「よっぽど久米ブランドの価値」が上がるってもんである。人一倍プライドの高い彼のことである、「やめ際もカッコよく」という演出には、私も一瞬騙されそうになった。
番組を終了した後に「ペロッと舌を出して」いる久米宏を想像したら、まだまだ「久米宏は終わらないな」と一安心である。
2、人間の記憶力
昨日の夜、いつものように電気を消して寝床に入り、ラジオを聞きながら寝るつもりが聞き覚えのある歌声が流れてきて、「これは確か、えーと誰だっけか、えーと」と思い出そうとして、何か急に頭が冴えて眠れなくなってしまった。昼間、ちょっと寝てしまったのも悪かったのだが、それにしても歌手の名前が思い出せない。女性歌手でメジャーではないか「そこそこ知られている、個性的なシンガーソングライター」だというプロフィールは、簡単に思い出せた。というか、それを思い出しているからこそ、名前がどうしても出てこなくてイライラしているのだ。時間はとうとう3時を回ってしまっている。一人名前が出てこないと、その後他にも聞く曲すべてが、続々と名前を思い出したくなってくる。皆んな知っている筈の歌手ばっかりだが、どうしても名前が思い出せないのである。私はちょっと前までは、「事ある度に」米倉涼子の名前がどうしても思い出せず、何回覚えようとしても又しても忘れてしまう変な癖があった。特定の名前が覚えられないというのは、人間の機能に良くある「不思議な現象」なのかも知れない。私の友人のSN氏は同じように「誰だか」が思い出せないと言っていた(誰だか聞いたのだが、それも忘れてしまった)。人それぞれに「特定の人物名」は違っているみたいである。昨日の夜、その他に思い出せなかった名前は、女性の有名JAZZ歌手と男性の有名R&B歌手、それと日本のロック・グループである。さすがに思い出せない名前の数が増えてきて、いつしかそのうちに眠り込んでしまった。最初の女性歌手は名字に確か「東」という字が入っている筈なのだが、東上だか東山だか・・・。
翌朝10時に目が覚めて、すっかり歌手の名前のことなぞ忘れていたのだが、突然なんの前触れもなく、その女性歌手の名前が「急に頭に浮かんだ」のである!。そうだ、「古内東子だ!!!。
その後は芋づる式に「サラ・ヴォーン」と「プライマル・スクリーム」を思い出した。男性R&B歌手は・・・、もうどうでもいい。とにかく思い出せたことが嬉しいのだ(私はまだ、認知症にはなってないと分かった)。それで早速、スマホの DROPBOX を開いて「人物名・歌手欄」に古内東子を追加したわけである。人間の記憶について、私は人間の脳とパソコンは「違う検索システム」を使用していると考えている。例えば脳の中には、特別に「名前」をフルネームで記憶するエリアというのは存在してなくて、多分「文字」だけが「バラバラ」に記憶していて、言うなればランダムに不規則な形で記憶されているのだと思う。つまり人の名前という明確なものではなく、記号として記憶している。もし古内東子という名前をフルネームで彼女のプロフィールと結びつけて記憶しているのであれば、「東」という文字だけ「うっすら」と記憶が蘇るのは、理屈に合わないではないか。脳にある記憶細胞は、4文字あったデータが3文字だけ無くなって、1文字だけ辛うじて残っているなどという「いい加減な」ものではない。昔何かに書いてあったが、人間の記憶方法というのは文房具とか交通機関とかカテゴリーで覚えているのではなく、もっと原始的な「分類」で行われているというのである。例えば「大きいもの・小さいもの」とか、「丸いもの・角張っているもの」とか、「動くもの・動かないもの」と言ったような単純で大雑把な分類だ。こういう分類方法は、人類が言葉を使いだす「遥か以前」から身につけていた原始的方法であろう。そして大きいものと小さいものの記憶場所は、脳の中で「違っている」ということが分かっている(脳は、大小の比較さえもしていないのだ!)。これは交通事故などで脳に傷害を負った人の事例から分かったことである。例えば洗濯機やタンスは、腕時計やスプーンとは「違った領域」に記憶されている。それも「形」だけである。「色」や「材質」はまた別の場所に保存されている。実に効率が良い記憶方式だ。多分、完全な形で丸ごと記憶されているものは「無い」というのが、現在の医学の常識である(これは私の理解だから、ちょっと怪しい)。つまり、頭で「トマト」を思い浮かべるときにはトマト自体をポンと記憶領域から呼び出してくるのじゃなく、形の記憶領域から「丸い」を持ってきて、色の記憶領域から「赤い」を持ってきて、材質の領域から「皮があって中身が柔らかい肉状のもの」を持ってきて、と多くの情報を「個別」に呼び出して、それらを脳が「仮想空間で合成して」一つのイメージを作り上げているらしいのだ。これなら丸いものは何でも「丸い」という一つの情報で済む。記憶細胞を使わなくて済む、究極のエコシステムだ。これなら原始人の小さな脳でも、十分記憶容量は足りる。というか現代人のバカでかい脳味噌は、実は殆どが使われていない、という説もある(笑)。
で、そのバラバラの属性を繋ぎ合わせているのが「シナプス」である。一度目で見たものは、その外観から得られた「大小・硬軟・形・軽重・色・材質」などの関連した情報のネットワークの「結果として」、シナプスが生成され記憶される。記憶とは「シナプスのセット」である。そのシナプスのセットの内、一つが欠けていれば、その情報が(例えば色が)失われる。先程の歌手の例で言えば、音楽を聴けば日本人の女性だという情報や、若い・歌い方が個性的・特徴的なメロディ・声の質など、多くの情報を記憶している筈である。これらは自分の耳や目で得た「一次情報」である。ところが名前だけが、聞こえてくる音楽の「どこにも出てこない」情報なのだ。つまり作曲者=所有者というシナプスを辿ることで行き着く、「別次元の情報」なのである。言うならば名前とは、対象の音楽とは「属性としては、何の関係もない無意味な記号=整理番号」みたいなものである。例えていうならば、良く知っている人なんだけど、電話番号は何番だったっけかな?、というようなもんである。電話番号は本人の属性と「何の脈絡も無いランダムな番号」だから、1から9までの数字のセットと、それが誰々というセットとを「無理やりつないだ」記憶であり、情報の補強が無いために「恐ろしく脆弱」なのだ。記憶は定期的に繰り返してシナプスを強くしなければ、次第に強度が薄れてきて、記憶の奥深く底のほうにしまい込まれて、思い出すのが難しくなる。その化石のようなシナプスを、広大な記憶領域の中を「総当たり的に検索」しているのが、「思い出す」という地道な作業なのだ(と、私は理解している)。先程の歌手の例で言うならば、思い付く限りのランダムな名前の例を、一つ一つ歌手の情報と照らし合わせて「シナプスが点火する」かどうか試している、と考えられる。文字の組み合わせは「たった一つ、東という字が入っている」という情報である。しかしこれも、思い出してみれば「全然入っていなかった」という事もあるのだから、ややこしい。シナプスが点火するというのは、「これだ!」という感覚である。歌手の名前が古内東子だったという、何か「ハッキリした証拠」が見つかったわけではないが、私には「思い出した」という実感があった。これって、考えてみれば不思議である。多分、思い出した断片的情報の「全て」に、同じような親和性=点火があれば、「これだ!」となるのであろう。これも脳の不思議な能力である。
私が眠っている7時間半の間中、きっと私の脳は「検索・合成・照合」を繰り返していたに違いない。朝目が覚めた時に、奇跡的に名前が浮かんできたのが、その証拠である。多分、東子という「珍しい名前だった」ことが記憶に残っていたのだろう。最初、「東」は名字の一部だと思っていた。人間の記憶というのは「あやふや」なものだが、しかし一旦長期保存されたものは、よほどのことがない限り「忘れる」ことはない(というのが私の記憶に関する理論)。情報は脳に残っている。ただ、忘れるのではなくて「思い出せないだけ」なのだ。シナプスが辿り着くための方向を決める機能が「脳に無い」ので、行き当たりばったりに検索しなければ思い出せないのだと思われる。それが顕著に現れるのが、歳をとると思い出せなくなる「名前」である。名前以外でも最近忘れる事が多くなってきたが私は去年だか、「押入れ」という日本語を思い出せずに「クローゼット」って日本語で何というか、わざわざネットで調べて「やっと思い出した」という経験があった(その時は、流石に痴呆症を疑って怖くなった)。
私は米倉涼子の名前を何回も忘れるので、実はスマホの DropBox に「人物名」というファイルを作って、一度でも思い出せなかった名前は「片っ端から」書き込むようにしている。どうしても思い出せない時にこのファイルを開きさえすれば、必ず目当ての名前が書いてあるという「ど忘れ専用」の記録ツールである。これを書き溜めてからは、もう「痴呆症」の心配はしなくなった。普段から「あれあれ、あれだよ」と言い慣れている物忘れ病の老人は、こんなスマホの活用法をお勧めしたい。
それにしても若い人は記憶力が良いねぇ。「あれ」などという指示代名詞は「一切」使わないらしいから、羨ましい限りです。
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