先日不注意なことでバイクを倒してしまった。
怪我は大したことないが、バイク右側を壊してしまった。
反省しつつも、部品交換、修理をしつつ、ゲン直しでペイントも変えて気分一新することにした。
イメージとして、『レトロなレーサーレプリカ』をイメージしてリストラ(再構築)する予定。
『じじいの割に結構速い』を目指す自分のイメージで70年代草レーサー風に近くしていきたい。
タンクとサイドカバーをW400の綺麗な青色でペイントし、白帯を入れてレーシングチェッカー
の帯を入れることにした。
初期型のニーグリップとW1風のエンブレムバッジで、レトロ感を強調する予定だ。
650とかの数値は入れないことにしたから、色として400と思う人が多いと思う。
また、たくさんの人にSAで『これなんCC?』と訊かれるのだろう。
バイク用の小物をみるためアメ横に行ってみた。昔はかなりの店がバイク用の革製品を扱っていたが
、上野のバイク街の衰退とともに様変わりしていた。
それでも、小ぶりのチェッカー柄のワレットを見つけ使うことにした。
ちょっとお釜っぽいかなあ?(合皮多用の2800円)
上野駅近くに『じゅらく』があった。
自分が子供のころは旨い店というのが決まってて、別格だった。
じゅらくは、旨さの約束されてる店だった。
冷やし中華大盛りを頼んだら、鉢で出てきた。
お約束どおりのチャーシュー、クラゲ、エビ、イカ等が入っていて麺は固ゆでの太メン。
とてもおいしかった。
鴬谷界隈は『根岸の里の侘び住まい』の雰囲気があって、明治を代表する歌人、正岡子規が住んで
居たことを思い出した。正岡子規は普通の言葉を使って俳句を作る新しい取り組みをして、多くの歌人や文学界に大きな足跡を残し、確か司馬遼太郎さんは『現代日本語は子規によって作られた』と評していたように記憶している。
『坂の上の雲』を20代の時読んで、日本海海戦の秋山真之参謀が子規の親友だったと知り、なぜか凄く嬉しかったのを思い出す。
『笹の雪』は、食いしん坊だった子規も良く出かけた豆腐料理屋で、絹ごし豆腐を初めて
拵えた店だとのこと。
絹ごし豆腐は京都生まれだとばかり思っていた。
個人的には豆腐は木綿越しでないとおいしく感じない。
笹の雪には、子規直筆の句が二首残されていた。
水無月や根岸涼しき笹の雪
朝顔に朝商ひす笹の雪
笹と本小松製の石碑が、根岸の里の情緒が醸し出されている。
正岡子規は勤め先の『新聞日本』の主筆である陸かつ南(くがかつなん)の世話で松山の母と妹律を
この地に呼び寄せ、肺病で亡くなるまで10年間ここで暮らす。
病苦で泣き声を挙げる子規を『よしよし苦しいか。僕が居る。僕がいるぞ・・』と最後まで励まし
続けた。
この辺りは前田侯爵の広大な別邸の敷地で、小さな庵を立てさせてもらっていたのである。
『加賀様を大家に持って・・・』の句は、新時代を感じるし、時代の流れの不思議な縁を楽しん
でる子規の姿が見えるようだ。
子規はこの界隈で2000首の句を残しており、『根岸子規会』の方々が町のあちこちに子規の句を張り出している。
ところで、この辺りは日本有数のラブホテル街でもある・・・・
女性と言えば妹の律ぐらいしか縁がなかった子規が知ればたまげたことだろう。
今日もフェロモンを自動調整出来そうなおねーさんが、何人か配達されて来るのを見かけた。
それにしても、このラブホテル、とっくに経営は破たんしてる感じで価格も何十年前かのままだ。
廃屋のように見えたがなぜ近所のホテルは買いとらないのか不思議。
もしかして怖いの夜になると出るのかもね。
『子規庵』はそんな界隈に有った。
向かい側は『書道博物館』となっており子規に絵を教えた中村不折が住んでいたそうだ。
ホテル街とのアンバランスは不思議なほどなく、今も昔もとても静かだ。
残念だが、休みで中には入れなかった。
だが昭和25年に源設計道理に立て直されたこの庵は、既に60年の歴史があり、この奥に子規が
照れたような顔をして座っているような気配を充分感じることができた。
多くの文化人が訪れたこの地に、今自分が立っていることが嬉しかった。
子規庵は『根岸子規会』が管理しておられるようだ。
たまたま偶然先日読んだ本によると会長の奥村さんは、昭和22年生まれの団塊の世代の方。
近くに住んでいれば是非この会に入門したいと思いました。
建物の裏側に回り、塀の中を思い切り腕を伸ばして撮りました。
藤棚のようなところにある植物は『痰一斗糸瓜の水も・・』の句に連なる糸瓜だろうと思います。
今日は終始まじめだったでしょう?
写真を見てくださってありがとうございます。
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