世界遺産の中でも特に自然遺産と文化遺産の融合した複合遺産として指定された「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成する熊野の山々。
ここには古(いにしえ)よりその体に紀伊山地の歴史を刻んだ多くの木々が生息し、今にその遺伝子を伝えています。
この地に住む我々の祖先はこれらの木々を神として崇(あが)め日々対話しながら色々なことを教わってこの過酷な環境の中で生きてきました。
本来なら我々の体の中にも木々と対話して生きてきた遺伝子が伝えられているはずなのですが、近代の石炭、石油、ガスなどの化石エネルギーによる燃料革命・資源革命、所謂産業革命によってその大切な遺伝子を壊されてしまいました。
江戸時代が終わり鎖国を解いた日本は産業革命に追いつけ追い越せで富国強兵に走り、その結果として第二次世界大戦で手ひどい敗北を味わったことは記憶に新しいところであります。
戦後、明治新政府が旧憲法の元、突っ走った過ちに気付かなかった新体制は、新憲法の元でもこの過ちを繰り返し、高度経済成長のかけ声の中、今の大量生産大量廃棄の使い捨て時代を確立したのです。
限りある地下資源を無尽蔵のごとく掘り返し、消費は美徳とのかけ声に乗せられてしまった我々に罪があると言えばその通りかも知れません。
何れにしても、今我々は再び手痛いしっぺ返しを受けています。
大量消費の結果であるゴミは、山を汚し、川を汚し、海を汚して多くの生き物を死に追いやっています。
都会で出た大量のゴミは、今ではその行き場を失い、違法に放置されたり廃棄されたりしています。
地下資源を精製する過程で発生する物質は大気や河川、海を直接汚染します。
鉱山から出る鉱毒、精錬の過程で出る重金属で汚染された排水、排煙。
それらが我々の生活にどのような重大な影響を与えたかはご存じの通りです。
戦後日本では建築資材である木材が不足する危機に見舞われ、大量の植林が計画され色々な補助金の元、今の国土が形成されました。
ところが今、海外からの安い木材に押されて山は植林の手入れさえ放棄された状態です。
今の日本は貿易立国として成功を納め、数々の難関を切り抜けて今の繁栄を謳歌しています。
しかしこの繁栄を手にするために我々が失ったものは一体何であったのでしょう。
瀬戸内海は巨大なドブ川になり、山は切り開かれて畑や工場、宅地になっています。
工場が廃棄した汚染水は河川水だけでなく地下水までも汚染し既に取り返しの付かないところまで来て居ます。
世界中の気候が変動すると言うことで、京都での世界会議や最近では洞爺湖サミットも開かれました。
しかし世界が気持ちを一つにして何とか環境を良くしようと言う意志はそこには見られません。
そこにあるのは経済の論理だけです。
汚染物質放出の権利が商品になるなんて何という時代なのでしょうか。
人は既に地球を我がものにしたと勘違いしているのです。
今の世界の人々は産業革命から続く資本主義経済に既に飲み込まれ、その虜になってしまっています。
地球の中で住まわせて貰っているという謙虚な気持ちは既に無くなってしまったみたいです。
結果として我々は我々の生活に大きな恵をもたらした筈の地下資源の副産物に汚染され、訳の判らない新しい病気に冒され、河川水にも地下水にも空気にも大地にも我々が住む住居にさえ汚染の心配をしなければならなくなってしまいました。
それだけではありません。
自然を強引に押さえつけて開発された広大な造成地や高速道路、鉄道、河川等には今や弾性疲労という現象が忍び寄っています。
特に橋梁やトンネル、高架などは、日々のニュースでご存じのことと思いますが、落橋やコンクリート片の落下、鋼材の腐食の問題が避けて通れないところに来て居ます。
今までやりたい放題をしてきたつけが回ってきただけなのですが、これからは今まで必死になって造ってきた構造物の維持管理という仕事が新しく大量に入ってきます。
維持管理のための費用は今の日本の国土の構造物全体を見渡せば気の遠くなるような金額になります。
それなのに今の日本はまだ緊急性のない巨大構造物を新設しようとしているのです。
我々人間はここまで来ました。
来たことに対する結果はなんと批判しようと受け入れなければなりません。
後はどのように対策を立てていくかと言うことになります。
中国四川省や宮城・岩手で大きな地震があり、地滑りや土砂崩れに対する心配も多くなってきました。
今我々は昔に戻って森や木々に相談すべきではないでしょうか。
野の草、森の木々と対話することで我々の生活への心配はその多くが助けられます。
河川や地下水の汚染、大気汚染、地盤のゆるみや地震それらに対して植物は敏感です。
彼らに聞けば何でも教えてくれるのです。
その彼らの声をこれからは謙虚に聞いていかなければなりません。
その為にはどのようにすればよいかと言うことなのですが、簡単に言えば人が声帯を震わせて音を出し意志を通じ合うように、植物にも意志や感情を表現する手段が幾つかあるので、そこにアプローチしようと言うことなのです。
精気の放出や超音波の放出などですが、判りやすく言えば、ハーブの香りは、植物を刺激することによって出ます。
オジギソウやネムノキは触られることによって葉をたたみます。
枝を折られ、根を切られることに対しては超音波を発します。
こういった刺激に対する植物の反応を利用して環境に発生した異常を教えて貰おうと言うのが木の声を聞こうという趣旨なのです。
例えば、地下水が汚染され植物がそれを吸収しなければならないとすれば、木は悲鳴を上げる。
松食い虫にやられ、苦しくなると悲鳴を上げる。
大気が汚染され、気孔の働きが弱くなると悲鳴を上げる。
地滑りや土砂崩れなどで根が切れると悲鳴を上げる。
また、地盤が大きな力を受けて圧縮され電磁波が発生するとストレスを受けて悲鳴を上げる。
そういった木が受けるストレスの数々を音として捉え、一体何がそのストレスの原因なのかを探り、解析するのが現代風木との対話と言うことになります。
木の種類や大きさによって音の種類は千差万別ですが、植林を例に取ってみるとコーラスの趣が出てきます。
人にとって家の裏山や、道路の大きな法面、切り盛りした勾配のある造成地などは心配の種が尽きません。
こういうところに木の声を聞く装置を装着し、一カ所で解析すれば、木々の色んな声を聞くことが出来ます。
この声を解析することによって災害を未然に防ごうというのが、私が提案する防災・避災・減災の趣旨なのです。
装置と施設はここ数年で完成予定です。
今まで人は良かれと思って我々にとって有用な色々な研究開発を重ね、社会を発達させてきましたが、それは実は人間のためのものでしかなかったのです。
これから我々人間は地球上の生物みんなが気持ちよく暮らせる環境を造り保っていく為に努力しなければなりません。
私はその為の第一歩としてこれからもずっと木との対話を続けていきたいと思っています。
ここには古(いにしえ)よりその体に紀伊山地の歴史を刻んだ多くの木々が生息し、今にその遺伝子を伝えています。
この地に住む我々の祖先はこれらの木々を神として崇(あが)め日々対話しながら色々なことを教わってこの過酷な環境の中で生きてきました。
本来なら我々の体の中にも木々と対話して生きてきた遺伝子が伝えられているはずなのですが、近代の石炭、石油、ガスなどの化石エネルギーによる燃料革命・資源革命、所謂産業革命によってその大切な遺伝子を壊されてしまいました。
江戸時代が終わり鎖国を解いた日本は産業革命に追いつけ追い越せで富国強兵に走り、その結果として第二次世界大戦で手ひどい敗北を味わったことは記憶に新しいところであります。
戦後、明治新政府が旧憲法の元、突っ走った過ちに気付かなかった新体制は、新憲法の元でもこの過ちを繰り返し、高度経済成長のかけ声の中、今の大量生産大量廃棄の使い捨て時代を確立したのです。
限りある地下資源を無尽蔵のごとく掘り返し、消費は美徳とのかけ声に乗せられてしまった我々に罪があると言えばその通りかも知れません。
何れにしても、今我々は再び手痛いしっぺ返しを受けています。
大量消費の結果であるゴミは、山を汚し、川を汚し、海を汚して多くの生き物を死に追いやっています。
都会で出た大量のゴミは、今ではその行き場を失い、違法に放置されたり廃棄されたりしています。
地下資源を精製する過程で発生する物質は大気や河川、海を直接汚染します。
鉱山から出る鉱毒、精錬の過程で出る重金属で汚染された排水、排煙。
それらが我々の生活にどのような重大な影響を与えたかはご存じの通りです。
戦後日本では建築資材である木材が不足する危機に見舞われ、大量の植林が計画され色々な補助金の元、今の国土が形成されました。
ところが今、海外からの安い木材に押されて山は植林の手入れさえ放棄された状態です。
今の日本は貿易立国として成功を納め、数々の難関を切り抜けて今の繁栄を謳歌しています。
しかしこの繁栄を手にするために我々が失ったものは一体何であったのでしょう。
瀬戸内海は巨大なドブ川になり、山は切り開かれて畑や工場、宅地になっています。
工場が廃棄した汚染水は河川水だけでなく地下水までも汚染し既に取り返しの付かないところまで来て居ます。
世界中の気候が変動すると言うことで、京都での世界会議や最近では洞爺湖サミットも開かれました。
しかし世界が気持ちを一つにして何とか環境を良くしようと言う意志はそこには見られません。
そこにあるのは経済の論理だけです。
汚染物質放出の権利が商品になるなんて何という時代なのでしょうか。
人は既に地球を我がものにしたと勘違いしているのです。
今の世界の人々は産業革命から続く資本主義経済に既に飲み込まれ、その虜になってしまっています。
地球の中で住まわせて貰っているという謙虚な気持ちは既に無くなってしまったみたいです。
結果として我々は我々の生活に大きな恵をもたらした筈の地下資源の副産物に汚染され、訳の判らない新しい病気に冒され、河川水にも地下水にも空気にも大地にも我々が住む住居にさえ汚染の心配をしなければならなくなってしまいました。
それだけではありません。
自然を強引に押さえつけて開発された広大な造成地や高速道路、鉄道、河川等には今や弾性疲労という現象が忍び寄っています。
特に橋梁やトンネル、高架などは、日々のニュースでご存じのことと思いますが、落橋やコンクリート片の落下、鋼材の腐食の問題が避けて通れないところに来て居ます。
今までやりたい放題をしてきたつけが回ってきただけなのですが、これからは今まで必死になって造ってきた構造物の維持管理という仕事が新しく大量に入ってきます。
維持管理のための費用は今の日本の国土の構造物全体を見渡せば気の遠くなるような金額になります。
それなのに今の日本はまだ緊急性のない巨大構造物を新設しようとしているのです。
我々人間はここまで来ました。
来たことに対する結果はなんと批判しようと受け入れなければなりません。
後はどのように対策を立てていくかと言うことになります。
中国四川省や宮城・岩手で大きな地震があり、地滑りや土砂崩れに対する心配も多くなってきました。
今我々は昔に戻って森や木々に相談すべきではないでしょうか。
野の草、森の木々と対話することで我々の生活への心配はその多くが助けられます。
河川や地下水の汚染、大気汚染、地盤のゆるみや地震それらに対して植物は敏感です。
彼らに聞けば何でも教えてくれるのです。
その彼らの声をこれからは謙虚に聞いていかなければなりません。
その為にはどのようにすればよいかと言うことなのですが、簡単に言えば人が声帯を震わせて音を出し意志を通じ合うように、植物にも意志や感情を表現する手段が幾つかあるので、そこにアプローチしようと言うことなのです。
精気の放出や超音波の放出などですが、判りやすく言えば、ハーブの香りは、植物を刺激することによって出ます。
オジギソウやネムノキは触られることによって葉をたたみます。
枝を折られ、根を切られることに対しては超音波を発します。
こういった刺激に対する植物の反応を利用して環境に発生した異常を教えて貰おうと言うのが木の声を聞こうという趣旨なのです。
例えば、地下水が汚染され植物がそれを吸収しなければならないとすれば、木は悲鳴を上げる。
松食い虫にやられ、苦しくなると悲鳴を上げる。
大気が汚染され、気孔の働きが弱くなると悲鳴を上げる。
地滑りや土砂崩れなどで根が切れると悲鳴を上げる。
また、地盤が大きな力を受けて圧縮され電磁波が発生するとストレスを受けて悲鳴を上げる。
そういった木が受けるストレスの数々を音として捉え、一体何がそのストレスの原因なのかを探り、解析するのが現代風木との対話と言うことになります。
木の種類や大きさによって音の種類は千差万別ですが、植林を例に取ってみるとコーラスの趣が出てきます。
人にとって家の裏山や、道路の大きな法面、切り盛りした勾配のある造成地などは心配の種が尽きません。
こういうところに木の声を聞く装置を装着し、一カ所で解析すれば、木々の色んな声を聞くことが出来ます。
この声を解析することによって災害を未然に防ごうというのが、私が提案する防災・避災・減災の趣旨なのです。
装置と施設はここ数年で完成予定です。
今まで人は良かれと思って我々にとって有用な色々な研究開発を重ね、社会を発達させてきましたが、それは実は人間のためのものでしかなかったのです。
これから我々人間は地球上の生物みんなが気持ちよく暮らせる環境を造り保っていく為に努力しなければなりません。
私はその為の第一歩としてこれからもずっと木との対話を続けていきたいと思っています。