休日に、直江津にある平和記念公園に行ってきました。太平洋戦争中、この場所には捕虜収容所がありました。
1942年(昭和17年)の12月10日、太平洋戦争中捕虜になったオーストラリア兵300名が収容されました。奥に見える白い建物は展示館です。
掲示板には。戦争の悲劇を再び繰り返さないように・・と書かれていますが、具体的には、戦後すでに73年も経っており、今ではここで何があったのか?何のことか分からない人も多いでしょうね。
直江津捕虜収容所、正式名称は東京捕虜収容所第4分所と石碑には書かれていますね。上記のとおり昭和17年12月よりここで、オーストラリア兵300名が捕虜生活を送った。
上坂冬子著「貝になった男 直江津捕虜収容所事件」には、オーストラリア公式戦史、および在郷軍人会誌に発表された記録を総合すると捕虜生活は、以下のような、あらましになると書かれています。
「ローバートソン中佐を捕虜隊長とする約300人のオーストラリア兵が直江津に着いたのは1942年(昭和17年)12月10日であった。シンガポールを11月29日に出発して長崎に12月8日に上陸し、長崎から汽車に52時間ゆられて直江津にたどり着いたのである。常夏の地から極寒の地に送り込まれた兵たちの苦しみは並大抵ではなかった。人工3万人余の直江津町(昭和29年より直江津市)には、主な企業として日本ステンレス(今の住友軽金属)、信越化学、日本曹達(ソーダ)の3つのほか、鉄道と港湾荷役の会社があり、捕虜は
これらの各所に別れて働くことになった。
2代目の所長は収容所に寝泊まりせず自宅から通っていたので夜間の管理が行き届かず、以後、捕虜は絶え間ない残虐を受けたのである。
打つ、蹴る、殴るは泰緬(タイメン)鉄道の例に匹敵し、食事は餓死すれすれの量で、赤十字の救援物資は盗まれたり、支給されなかったりの連続であった。1日12時間から18時間も働かされ、110日もの長い間、休日を与えられなかった者もある。
虐待と栄養失調と極寒という悪条件が重なって1年後には300人の仲間のうち、50人余り(終戦まで最終的には60人)が死亡した。隊長のローバートソン中佐が髄膜炎で死亡したのは、直江津に到着した翌年の3月である。収容所は木造2階建のバラックで、蚤と虱(しらみ)と南京虫の巣であった。
ステンレスの工場などは収容所から1マイル(約1.6キロ)離れていたが、通勤にはかけあしを命ぜられ、疲れて速度をゆるめると棒でめった打ちされた。極寒のころも衣料は充分に与えられず、食事は、量もさることながら蛋白質が皆無に等しかった。また、赤十字の救援物資の中に靴があったはずなのに、捕虜の中には裸足のものも少なくなかったのである。工場には通訳もおらず、命令が理解できずにいると殴られた。体の弱っている者には、軽作業につかせるため目印として赤札が支給されたが、赤札を付けているにもかかわらず溶鉱炉のそばで働かされて失神した者もいる。捕虜の仲間が助けなければ、彼は火の中に倒れたであろう。
種々の悪条件が重なって抵抗力のなくなった捕虜たちは風邪をひき易くなっていたが、38度の熱があっても休息は容易に許可されなかった。収容所内は、真冬には零下20度にもなったが火の気はなく、起き上がれない病人のために、ほんのわずかな暖房があるのみだった。仲間の1人が小さなミスをおかした時には、連帯責任と称して夜中まで食事抜きでグラウンドに立たされた。
ロバートソン中佐の死因は、弱った体で毎朝4マイルのマラソンを強制されたためだと思う。捕虜の中に弁護士がいて、日本側の待遇は国際違反だと指摘したところ、手ひどく殴られたあげく、自分が悪うございましたと始末書をとられた。何れにせよ、300人のオーストラリア軍捕虜のうち、60人もが直江津捕虜収容所で死亡した。理由は、申すまでもなく飢えと寒さと虐待にほかならない。
1988年(昭和63年)5月、死亡したオーストラリアの捕虜60人の合同慰霊祭が、日豪両国の有志により収容所跡地で営まれた。かつてここで捕虜生活を送った人も参列。全員が冥福を祈った後、平和と両国友好のシンボルとしてユーカリ3本が植えられた。・・上坂冬子著「貝になった男 直江津捕虜収容所事件」文庫本、あとがき、石川チエコ氏(元新潟日報学芸部長)の文章より
写真の橋は、捕虜収容所の近くにかかる古城橋。この捕虜収容所は、写真の保倉川と隣接する関川の合流地点で、日本海に注ぐ河口近くとなります。捕虜たちは、毎日この橋を渡り近くの日本ステンレスや信越化学に労働に出かけました。労働条件は、夏は午前7時から夕方5時まで。冬は午前7時半から午後4時半まで。いずれも2時間の休憩を含んでいる。
同じく上坂冬子著「貝になった男」より写真引用。当時の捕虜収容所の朝礼風景や、戦後の戦後の捕虜収容所跡地、捕虜のリー中尉が恋人に宛てた軍事郵便の写し。
戦後、直江津を訪れたリー中尉夫妻。リー中尉は、捕虜収容所内で軍事郵便を通じ恋人にプロポーズし、戦後オーストラリアに帰国し、めでたく結婚。リー中尉が、戦後再び、直江津を訪問するきっかけになったのは、彼が1978年(昭和53年)に直江津高校に本と手紙を送ったことから始まる。なぜ直江津高校か?というのは、必ず手紙の読める英語の教師がいることを狙い、それをきっかけに、直江津の近況を知りたかったようだ。
やがて、このリー中尉と直江津高校の交流は「新潟日報」の昭和55年2月6日付の上越版にトップ記事として載るようになり、世に知られるようになった。
地元に住む僕が、この直江津捕虜収容所のことは、この上坂冬子氏の著作を読んで初めて知りました。
両親とも、戦時中から直江津に住んいたけれど、このことは話してはくれませんでしたね。
上記のとおり、この捕虜収容所で60名もの捕虜が死んだことで、戦後戦勝国の連合軍はBC級戦犯の軍事裁判(横浜地方裁判所)を行い、この収容所で勤務していた軍人、軍属8名が起訴され、絞首刑となりました。
上坂冬子氏は、なぜ直江津に強い関心をもったのか?著作に以下のように書いています。
戦後、ここで働いていた日本人の中から8人もの人が戦争犯罪人として絞首刑に処された。国内の捕虜収容所としては、処刑された人の数が最も多い。いったい何があったというのだろう。さらにもうひとつ、8人の部下が絞首刑になったというのに収容所長は終身刑で、12年の獄中生活を送った後無事に家族のもとに戻っている。陸軍中尉だった所長はどんな人で、なぜ生き長らえることができたのか。
興味のある人は、この本を読んでみるのもいいでしょう。
僕の感想としては、捕虜収容所の跡地の写真でも分かるとおり、この狭い敷地に300名もの捕虜が収容され
しかも暖かい南方の地から、寒い冬の日本海の町で、ろくな暖房設備も無く、食料も乏しく、便所も汚物あふれる汲み取り式で環境は劣悪。病気にならないのがおかしい位の状況ですね。殴る蹴るといった虐待もあったけれど、劣悪な環境が死に至らしめたことが大きな要因だと思います。
所長はなぜ死刑にならなかったのか?前述のリー中尉は、上坂氏にこう証言しています。
日本人の部下から、「所長は何もしない人」と言われ、彼はいいとか悪いとか評価が下せないような、いわば音ない存在だったという説があるのだがと、上坂氏が質問すると
リー中尉は「あの時代、音のない存在であることが、どんなに強い意志を必要とするか。あなたは分かりませんか」と答えています。捕虜に対して命令も指揮もせず、もちろん制裁も加えぬという態度を押し通したばかりか、日本人部下にも褒章や激励を一切与えず、ただ定刻に出勤して定刻に帰るという生活だったようだ。
リー中尉はそれを「強い意志」と評価したようですね。国を挙げ、世挙げて打って一丸になっている時に、音も無くそこから外れている存在は、捕虜の側からすればどれほど救いであったことか。と上坂氏は書いています。したがって、リー中尉は「所長の命が助かったのは当然です」と答えています。
僕はなぜ、この捕虜収容所のことを、ブログに書こうと思ったか?現在、韓国と日本の間で、徴用工の賠償問題が紛争になっています。別に日本と韓国は第2次世界大戦中戦争をしたわけではないけれど、日本とオーストラリア、国と国との間で戦争というそれぞれの立場がぶつかり合う、極限の緊張状態の中で、日本人とオーストラリア兵が心と心が分かりあえる事例があった。反面、日韓関係においては、韓国人の主張は、どちらが上でどちらが下か、韓国を下と見た日本は許せないそれが基準で、全く分かりあえる要素が無いな、寂しい隣国だな。これが動機でしたね。
最後に、この直江津捕虜収容所のできごとは、映画にもなったのですね。知りませんでした。
以下2015年4月上越タウンジャーナル記事より抜粋
日本軍の捕虜となったアメリカ兵ルイス・ザンペリーニさん(2014年7月に97歳で死去)が、収容所での拷問と虐待に耐え、母国に生還を果たすというアンジェリーナ・ジョリー監督の映画『アンブロークン』が、2014年のクリスマスに全米で公開された。後半に日本での捕虜虐待の場面があり、新潟県上越市川原町にあった直江津捕虜収容所が重要な場面として描かれている。反日感情をあおるとして日本の一部から反発が出たためか、日本公開は未定だという。
記事本文はこちらより
https://www.joetsutj.com/articles/52121857
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