こんにちは。
今日 黙とうをされた方も多かったのでは。
生きているってことはラッキー。
本当にそう思います。
波にのまれて亡くなった方々の、
やりたかったこと
家族が離れ離れになったこと
その想いを察するなら
残ってこうして生きているなら、
大切に生きなくては。
とこ嫁は 青森県 三八上北と呼ばれる地域の出身です。
18歳までそこで過ごしました。
文化的には、南部圏。
南部藩、今の岩手県の方が方言とかもかぶるし
気持ちとしては近いです。
岩手県のリアス式海岸ってお聞きになったことあるでしょうか。
海岸線がギザギザなんです。
断崖絶壁の合間にある入江に集落がある、そういうイメージ。
とこ嫁の祖母、
大正6年(1917年)生まれでしたが
チリの地震の時の津波で、遠く離れた日本で被害が出たという話を
してくれました。
教科書にも載ってた。
とこ嫁が生まれ育ったのは20万人以上住んでいる市です。
平地もそれなりにあります。米は夏寒いのであまり採れないけど。
港の形に適している地形だし、津波の被害は沿岸部に限られるのですが
それでも波が住宅街まで流れてきたことがあったのだと。
津波は おっかね。
地震があったら、とにかく高いところへ避難すること。
来る波より引き潮がもっと怖いこと。
それなのに、
あんな入江の、海からほんの目と鼻の先に住んでいる人がいる。
その住居のすぐ後ろは山がちだったりすると、
地震が起こったら、あの住居のうしろの急な斜面を
息せききって登っていくのか?と
大丈夫なのか?と
とこ嫁は 思っていたわけです。
あの地震があった時、
東京もかなり強く揺れましたね。
とこ嫁と夫は、小さな私鉄の電車に乗り込んで、
発車を待っていたのです。
とこ嫁も夫も それぞれ会社を休み、
銀行へ新居のローンのことで
出かけてお昼を食べた帰りでした。
二人が一緒だったからよかった。
夫はどうしているだろう?と心配になる必要はなく、
とこは おそらく自宅に、
息子も学校に居るはず。
電車の中はざわつき、どこからか、
「震源地は仙台とかあっちのほうみたいだね」
と なかば他人ごとのように 聞こえました。
電車のアナウンスはほどなくして電車はかなりの時間
点検等で運転再開の目途がたたないことを
やんわりと伝えてきました。
ランドセルを背負った黒い制服の小学1年生らしき男の子。
そばの席にいた年配の女性が話しかけるも
落ち着かず、不安そうにしていました。
お母さんが心配するだろうと。
災害時はお迎えがあるまで学校の教室で待機することになる。
当時息子は小学6年。
幸い、歩いていけない距離じゃないし、
自宅までの道のりの途中に とこの自宅と学校があるので
夫婦二人で電車の復旧を待たず外へ。
駅近くの商店街を抜けるまでの間に2回ほど
立っていられないぐらいの強い揺れ。
もう とこ嫁の中では、東京は大丈夫だろうけれど、
東北地方には 津波が、津波が来る、
と その気持ちでいっぱい。
夫がとこを訪問し、
とこ嫁は息子を引き取って帰宅すると16時くらいだったか。
テレビを早速つけたものです。
案の定、
テレビ画面いっぱいに 夜の港で大きな船が横倒しになっている様子。
もっと被害が大きいはずの 小さな入江の町ではなく、
大きな港の様子をニュースに流している。
カメラが行きやすい場所とか、そういう理由なのかもしれませんが。
あとから、まだ明るい日中、高い津波が
家屋を飲みこむ様子が 個人が撮影した動画で
何度もテレビに映し出されましたね。
あの時、しばらく電話がつながりませんでした。
が、実家の様子を伝える警察からの電話がありました。
弟が警察学校に入っていたから。
実家の住所のあたりでは特に津波の被害は出ていない、
というごく簡単な報告でしたが
メールもままならない中では十分でした。
亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに
今後の復興が順調に進むことを願います。
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