ニッコウの旅のブログ
旅行の写真集
散歩の写真集

               
                    




「百済寺」
百済寺は、滋賀県東近江市にある天台宗の寺院。山号を釈迦山と称し、本尊は十一面観音、
開基(創立者)は聖徳太子とされる。金剛輪寺、西明寺とともに「湖東三山」の1つとし
て知られる。境内は国の史跡に指定されています。
琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置し、寺伝によれば、推古天皇14年(606年)、聖徳
太子の建立という。聖徳太子は当時来朝していた高麗(高句麗)の僧・恵慈と共にこの地
に至った。百済の龍雲寺にならって寺を建てたので百済寺と号したという。
百済寺という寺号から見て、この寺は渡来系氏族の氏寺として開創された可能性が高い。
平安時代には近江国の多くの寺院と同様、比叡山延暦寺の勢力下に入り、鎌倉時代からは
「天台別院」と称され、1,300人が居住する巨大寺院となりましたが、惜しくも天正元年4
月11日に信長の焼討で一千坊が消滅しました。
徳川家光将軍による百済寺再建許可後、ようやく慶安3年(1650年)に本堂、山門、仁王
門等が復興されました。寺伝によると落慶記念奉納品として、将軍から極彩色の『聖徳太
子孝養像』が寄贈され、この太子像は家光の乳母春日局(斎藤 福、1643年没)が生前に
大奥で大切に拝んでいた像であると言われております。
又、『天下遠望の名園』は、松30本の芽摘みとサツキ300本の毬藻刈を終えて「美の次元」
を高めた、庭園として有名です。
































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サンクトペテルブルグを旅した時の写真です。関空を出発しウズベキスタン経由でサンク
トペテルブルグのホテルに到着。ネバ川に係留されている「オーロラ号」は、日露戦争で
ロシア海軍が破れ、奇跡的に対馬海峡を脱出しペテルブルクに戻った戦艦です。
また、「エルミタージュ美術館」は、世界最大の美術館の一つで、1764年、時の女帝エカテ
リーナ二世は、ベルリンから225点の絵を購入し、ペテルブルクの王居である冬の宮殿に、
付属の別館を造り、エルミタージュと名付けた。(エルミタージュとは、『隠れ家』を意味
するフランス語の名称)です。水中翼船で世界遺産ペテルゴーフ「ピョートル大帝の夏の
宮殿」を観光、此処は水がたくみに生かされた白とクリーム色の宮殿で、広い庭にある無
数の噴水がすばらしく、これらの噴水は、ポンプ等を使わず、自然の高低差を利用して水
を噴き上げていました。ペテルブルグに戻り英雄広場や、マンスキー劇場でバレージゼル
を鑑賞し、帰宅の途に着きました。>

























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「エストニア共和国」
バルト三国の一つ、エストニア共和国へ「歌と踊りの祭典」に行って来ました。
エストニアは、ヨーロッパ北東部の共和制国家で、EUそしてNATOの加盟国、通貨はユーロ、
人口は134万人、首都はタリンです。フィンランド、ロシアと共に、フィンランド湾に
面するバルト三国の一つです。「歌う革命」は、1987年から1991年にかけて発生した、
バルト三国の独立を目的とする一連の出来事の総称です。「歌と踊りの祭典」はエストニア
にとって、またエストニア人にとって昔から続く大切な伝統です。 第1回「歌の祭典」は
1869年に、「踊りの祭典」は1934年に開催されました。現在「歌と踊りの祭典」は5年に
一度開催されています。1988年に開催された祭典では、ソ連統治下の中、禁じられていた
エストニアの民族音楽をエストニア語で合唱しました。それが国民の機運を高め、エストニアを
独立へと導き、1991年8月20日独立を達成。流血なしに独立を達成したこのイベントは、
「歌う革命」とも呼ばれています。2003年には、この伝統ある「歌と踊りの祭典」が
ユネスコの無形文化遺産に登録されました。
パレードの日は、はあいにくの雨降りでしたが、皆さん元気に行進していました。



























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「春祭歩射神事(通称:大蛇祭)」
高槻市の北部、大字原中村には、古くから八阪神社の大蛇祭が行われています。
八阪神社は原の中村にあり、スサノオノミコトを祭神とします。社記によると、
清和天皇の頃(9世紀後半)、疫病が流行したため、牛頭天王(ごずてんのう)を迎
えたのがはじまりとされています。
当社では、毎年4月初めに「春祭歩射神事(通称:大蛇祭)」が行われ、ワラで直
径25cm、長さ30mもの大綱を編んでこれを大蛇に見立てて村中を練り歩いたの
ち、弓で射ます。近くの池に住んでいた大蛇を退治した故事によると伝えられま
すが、豊作を祈願する春祭りが起源と考えられています。
境内には、花崗岩製の石槽があり、昔の石風呂との説もあり、芥川の教宗寺の石
槽とともに、府の有形文化財に指定されています。
川を下り摂津峡を下り終えた所が桜の名所花見公園です。































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「永源禅寺」
永源寺は滋賀県、瑞石山(飯高山)と愛知川(音無川)の山中に静かに佇んでいます。
開山寂室禅師の詩にも「屋後の青山、檻前(かんぜん)の流水」と詠われ、深い自然に
いだかれた幽境です。当山は、南北朝時代の興安元年(1361)に、時の近江守護職、
佐々木六角氏頼公が、入唐求法の高僧、寂室元光禅師(正燈国師)に帰依し、領内の
土地を寄進して伽藍を創建したことが始まりです。禅師が入寺、開山されると、その
高徳を慕って二千人あまりの修行僧が集い、山中には五十六坊の末庵を有したと記さ
れています。明治になり、政府の指導によって、はじめ臨済宗東福寺派に属しましたが、
後に永源寺派として独立し、坐禅研鑽、天下泰平、万民和楽を祈る道場として、全国
百有余の末寺を統轄する一派大本山となり、今に至っています。





















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「神峯山大門寺」
大阪府茨木市大字大門寺97にある、大門寺は、真言宗御室派仁和寺の末寺で、本尊は平安
時代の聖如意輪観世音菩薩座像で国の重要文化財の指定を受けています。
宝亀年間に、桓武天皇の兄・開成皇子がこの地で四天王・北方守護神の多聞天(別名:毘沙
門天)の化身と出会い、草屋において香木に彫刻したと伝えられています。現在の建物は寛
永19年(1642年)に再建されたものです。
また、境内の南西の高塚の頂上には、木村常陸介重茲の墓があります。重茲は豊臣秀次の重臣で
武生の城主にもなったが、主君、関白豊臣秀次が高野山にて自害した後を追い、ここ大門寺で
自害したといわれています。
その時の血染めの経帷子や刀、槍が残されている。境内は、紅葉の名所として知られています。
最近、茨木市と高槻市の境界を流れる安威川上流、大門寺の横でダム工事中です。























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