ニッコウの旅のブログ
旅行の写真集
散歩の写真集

               
                    




「平安神宮・NO2」
桓武天皇は光仁天皇の皇子として天平9年(西暦737年)にご誕生され
天応元年(西暦781年)に第50代の天皇として即位されました。
英明な天皇は平城京の規模が小さく、日本の国都として適していない事を
察せられ、まず山背国(山城)乙訓郡長岡に都をおうつしになり、さらに
最も都に適した処として、延暦12年(西暦793年)同国葛野・愛宕両郡を
選び都の造営を始められました。翌13年10月22日新京にうつられた天皇は、
ここを平安京と称せられ、延暦15年はじめて大極殿において百官の拝賀を
受けられたのです。 桓武天皇は在位25年の間に律令を正し難民を救済し、
文教を興しよく内政を整えられるとともに広く海外とも交易して大いに我が
国の発展に努められました。以来京都は明治に至る1千余年の間、日本の
国都として栄えてきたのです。天皇は延暦25年(西暦806年)に崩御せられ、
御陵は柏原陵(京都市伏見区桃山)です。











コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする




「平安神宮」
秋日和に誘われて、京都は「平安神宮」参拝に行って来ました。
平安神宮は、平安遷都を行った第50代桓武天皇を祀る神社として創祀された。
皇紀2600年にあたる1940年(昭和15年)に、平安京で過ごした最後の天皇
である第121代孝明天皇が祭神に加えられた。
平安神宮のご社殿は、桓武天皇が開かれた当時の平安京の正庁、朝堂院が
8分の5の規模で再現されています。大極殿(だいごくでん・外拝殿)、
応天門(おうてんもん・神門)、蒼龍楼(そうりゅうろう)、白虎楼
(びゃっころう)、歩廊・龍尾壇(りゅうびだん)などは明治28年
(西暦1895年)のご創建当時に造営されたものです。

















コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする




「禅林寺(永観堂)・NO2」
禅林寺(永観堂)は、真紹僧都から永観律師住職の時代、
約220年間は真言密教寺院の時代で永観律師から静遍僧都の
約140年間は真言密教と三論宗系の浄土教寺院で、その後は
浄土宗の寺院となる。仏像等多くの国宝や重要文化財が有り、
禅林寺は「モミジの永観堂」として親しまれ、千百余年の歴史
を持った京都有数の古刹です。



















コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする




「禅林寺(永観堂)」
聖衆来迎山 無量寿院 禅林寺、第七世法主永観律師にちなみ
通称、永観堂と言われています。平安時代初期仁寿三年(853年)
に、真紹僧都の徳を慕って藤原関雄が別荘を寄進し禅林寺とする。
禅林寺(永観堂)、弘法大師の弟子真紹僧都は真言宗の僧侶で
禅林寺は、真言密教の道場として創建された。















コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする




「金剛綸寺」
金剛綸寺は、琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する天台宗の寺院です。
開基は奈良時代の僧、行基とされ「西明寺」「百歳寺」と共に湖東三山の
一つに数えられています。 行基は河内国、現在の大阪府堺市の出身で
河内を中心に多くの寺を建て、治水灌漑、架橋などの社会事業に尽くし、
民衆の絶大なる支持を得たとされています。

(写真をクリックし、しばらくして画面右の「Start」ボタンを押してご覧下さい)



平安時代に入り近江国の多くの寺院と同様、比叡山延暦寺の勢力下にはいり
天台寺院として発展したが天正元年(1573年)織田信長の兵火で湖東三山
の一つ百歳寺は全焼し、金剛綸寺も被害を受けたが、総門や本坊から数百
メートル石段を登った奥にある為「本堂」「三重の塔」は焼失を免れた。
総門から参道を進むと左に本坊の明寿院があり、そこから両側に千体地蔵
の並ぶ参道を数百メートル進んだ地点に、二天門、本堂、三重塔がある。
かつてはこの参道に沿って多くの僧坊が建ち並んでいたと伝えられています。















コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする




「京都・秋の嵐山と大覚寺」
大覚寺は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派の寺院で本尊は、
不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇で、天皇の離宮を寺に
改めた皇室ゆかりの寺院です。時代劇の撮影所、太秦の近くで寺の境内の
大沢池や明智門などは、時代劇やTVなどの撮影に多く使われています。
また華道のいけばな嵯峨御流の礎となった菊ヶ島があり、大覚寺は
生け花嵯峨御流の総司所としても知られています。

(画像をクリックし、画面右下のTVマークボタンを押し、大画面でご覧下さい。
 元に戻す場合も同じです)























コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする




「薬師寺」
薬師寺は「法相宗[ほっそうしゅう]」の大本山です。
天武天皇、皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して、薬師寺建立を発願(680)、
持統天皇によって本尊開眼(697)、更に文武天皇の御代に至り、飛鳥の地において
堂宇の完成を見ました。その後、平城遷都(710)に伴い現在地に移された(718)。
現在は平成10年よりユネスコ世界遺産に登録されています。


















2009年10月に作成した「薬師寺」のスライドです。
薬師寺のスライド
青い文字(スライド)をクリックしてご覧下さい。













コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする




「法隆寺」
法隆寺は、奈良県生駒郡斑鳩に有る聖徳宗の総本山で、別名、斑鳩(いかるが)寺
とも言われ、飛鳥時代の姿を現在に伝えています。
その昔、法隆寺は「用明天皇」が自身の病気平癒を願って後の「推古天皇」と幼少の
「聖徳太子」に命じて建立されたとされていますが現在、法隆寺は「聖徳太子」を
お祀りしている寺院で、納められている仏像、仏具の殆どが飛鳥、白鳳、天平時代
の作で、日本の国宝の数多くを、この法隆寺が所蔵しており、文化財の比類なき
宝庫のような寺院です。








寺院の「七堂伽藍」と言えば「塔」「金堂」「講堂」「経蔵」「鐘楼」「僧坊」「食堂」ですが、
古代の七堂伽藍が健在でしかも総てが国宝というのは法隆寺だけで、世界に誇れ
歴史の重さを感じさせるお寺でもあります。
古都奈良の大寺は葬儀に関与しませんので檀家が居なく寺の維持には大変な労苦
したのではないかと思います。
石碑の、日本最初の世界遺産「法隆寺」は、平山郁夫 書 です。








中央に中門、右に金堂、左に五重塔・最高の構図。







コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする




「東福寺」方丈の庭





















コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする




「東福寺」
京都市東山区の東福寺は、臨済宗東福寺派大本山の寺院で、
本尊は釈迦如来、開基は九条道家、初代住職は聖一国師円爾、
禅寺として中世、近世に栄えた寺です。
東福寺の名前は、奈良の東大寺、興福寺の二大寺から一字
ずつ頂き「東福寺」とした。建設は延応元年(1239年)から始め、
建長7年(1255年)に完成したが度重なる火災で焼失したが、
九条家、鎌倉幕府、足利家、徳川家、等の援助で再建された。













国宝の三門、東司(便所)、浴室、禅堂などは焼け残り、中世の
建物が現存しています。境内には、三門(国宝)、仏殿兼本堂、
方丈、開山堂(重文)、禅堂(重文)、庫裏(方丈唐門と共に
昭憲皇太后の恩賜建築である方丈門)、浴室、東司(重文)便所、
通天橋、偃月橋(えんげつきょう、日本百名橋)、等々が有ります。
(画面右下のボタンを押しFull Screenでご覧下さい)














コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする


« 前ページ 記事一覧画像一覧読者一覧フォトチャンネル一覧