ニッコウの旅のブログ
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「スタイルシート」
スタイルシートで、四角ぼかし。









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「スタイルシート」
スタイルシートによる、円形ぼかしです。











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「中欧ヨーロッパ」
画像4枚です。画像にカーソルを当、1クリック、Wクリック。


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「高槻市の社寺」
 其の他に、清蓮寺(クロマツは保護樹木)、廣智禅寺、神服神社、霊松寺、
 三島 鴨神社、阿久刀神社、理安寺、真如寺、等等、その他数十の社寺が有ります。
                                 以上








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「高槻市の社寺」
12)慶瑞寺(けいずい じ) (高槻市昭和台町二丁目)
 (菩薩坐像=国の重要文化財)
 慶瑞寺は、祥雲山と号して黄檗宗に属し、観世音菩薩を本尊とします。
 持統天皇8年(694)、宇治橋架橋などで知られる僧道昭が創建し、
 法相宗に属して景瑞寺と呼ばれていたと伝えられています。江戸時代
 初期には、景瑞庵と呼ばれ荒廃していましたが、寛文元年(1661)頃、
 普門寺の龍溪が再興しました。
 境内には、後水尾法皇の歯や仏舎利を納めた聖歯塔、龍溪の木像や
 遺品を納めた 開山堂があります。寺宝として、後水尾法皇の勅書を
 はじめ、後光明天皇の綸旨 (りんじ)や隠元・龍溪などの真筆が
 伝えられています。 昭和61年に本堂から 見つかった木造菩薩坐像は、
 8~9世紀頃の作とみられ、重要文化財に指定され ています。


    



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「高槻市の社寺」
11)普門寺(ふもん じ) (高槻市富田町四丁目)
 (方丈=国の重要文化財、庭園及び境内ほぼ全域が国の名勝に指定)
 普門寺は、慈雲山と号して臨済宗妙心寺派に属し、釈迦如来と十一面
 千手観音を本尊とします。 明徳年間(14世紀末)に僧・説厳が創建した
 と伝えられ、永禄年間(16世紀後半)には、室町幕府の管領細川晴元や
 14代将軍足利義栄が滞在、普門寺城とも呼ばれていました。
 また江戸時代初期には、中国・明の高僧、隠元が宇治に万福寺を開く
 までの間、ここに留まりました。
 柿葺き(こけらぶき)の屋根が美しい重要文化財の方丈(本堂)は、
 永禄期の建築で、襖絵は狩野安信の水墨画、欠損していた襖には南画の
 大家、直原玉青画伯の「淀川右岸天王山鵜殿前島菖景」が描かれています。
 また、名勝の庭園は江戸時代初期の枯山水庭かれさんすいてい)で、
 玉淵(ぎょくえん)の作庭と伝えられ、境内の一角には、細川晴元の墓と
 伝えられる宝篋印塔があります。


  



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「高槻市の社寺」
10)三輪神社(みわ じんじゃ) (高槻市富田町四丁目)
 (三輪神社絵馬所・末社春日社=市の有形文化財)
 大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る三輪神社。大和国三輪山に鎮座
 する大神(おおみわ)神社から勧請したとされ、もとは普門寺の鎮守社とも、
 富田村の産土神(うぶすながみ)ともいわれています。寛永16年(1639)
 に普門寺の龍渓禅師により再興され、寛延2年(1749)に社殿が修復された
 ことが、神社に残る奉加帳序や棟札からうかがえます。 
 富田は、江戸時代の初めに酒造りが隆盛をきわめ、24軒もの造り酒屋があり、
 三輪神社は酒の神様を祀る神社として人々の信仰を集めています。
 本殿、合の間、拝殿で構成される社殿や、灯籠、狛犬など江戸時代の建物や
 石造物がよく残っています。


  

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「高槻市の社寺」
9)本照寺(ほんしょう じ) (高槻市富田町四丁目)
 (本照寺本堂・山門・東門・鐘楼=市の有形文化財)
 本照寺は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属します。応永34年
 (1427)本願寺7世存如が創建し、もとは光照寺と称していました。
 富田の岡に創建されたとも、天文元年(1532)の富田焼打ち後、
 高槻から移ったとも伝えられます。
 一時衰えていたのが、正保3年(1646)に本願寺13世良如の弟、
 良教が寺に入り、本願寺の一字を得て本照寺と改めました。
 また、良如自ら「富田御坊(とんだごぼう)」の印を与えました。
 これ以後当寺は、高槻・茨木の同派寺院の本山となり、
 「富田の御坊」と称して隆盛を極めました。


  


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「高槻市の社寺」
8)野見神社(のみ じんじゃ) (高槻市野見町)
 (永井神社社殿・永井神社唐門=市の有形文化財)
 野見神社は、野見宿弥(のみのすくね)とスサノオノミコトを祭神とし、
 もとは上宮天満宮付近にあった式内社・濃身(のみ)神社が移ってきた
 ものとみられます。9世紀の末、祭神のお告げにより疫病がおさまり、
 人々の信仰を集めたと伝えられています。また戦国時代、高山右近が
 高槻城主のころ、神社が一時この地を追われたとされ、右近の父飛騨守
 が「もと神の堂ありし処」(フロイス『日本史』)に建てた高槻天主
 教会堂の推定地となっています。江戸時代には城内随一の神社として
 「高槻城絵図」に記されています。境内には、高槻藩永井家初代・
 永井直清(ながいなおきよ)をまつる永井神社があり、かつての高槻城
 の姿をしのばせる、絵馬(えま)が奉納されています。


  

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「高槻市の社寺」
7)上宮天満宮(じょうぐう てんまんぐう) (高槻市天神町一丁目)
 (本殿脇の石燈籠=国の重要美術品)
 菅原道真(すがわらのみちざね、904年没)をまつる上宮天満宮は、
大宰府に次いで2番目につくられたという古い由緒を伝えています。
 縁起によれば、道真の霊を鎮めるため、正暦4年(993)に九州・
大宰府に赴いた天皇の使い(勅使)が、帰途この地で急に牛車が
動かなくなる異変にあい、調べたところ菅原氏の祖先とされる
野見宿弥(のみのすくね)ゆかりの地であることを知って、ここに
道真をまつったのだといいます。



  

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