山南ノート4【劇団夢桟敷】

山南ノート4冊目(2008.10.3~)
劇団夢桟敷の活動や個人のことなどのメモとして公開中。

稽古【19】【20】【21】

2011-04-22 23:33:44 | モノローグ【エトセトラ】
身体の在りか

「ことば」又は舞台では「台詞(せりふ)」と言うが、今、小劇場では「ことばの時代」だとも言われるようになった。基本は台詞である。つまり、一個人である劇作家の脳内に反映された「物語」を再現させる道具が俳優という位置づけになる。
演出の仕事は「伝える」ために台本ー役者ー観客の関係を整理する。つまり、稽古場では交通整理する役目があると考えられている。
一見、合理的なようだが・・・。演劇の現場は「ことば」を「整理」することでは簡単に流れていかないことの方が多い。本を読んでいるだけでは劇にならないと思っている。

劇作家、演出家、俳優、スタッフも生身の人間である。
生身であるが故に、ロボットのように一寸の狂いもなく同じことを繰り返すことを良しとしない。
様式だけを作っていても、作り手に感動がなければ送り出すことはできない。

昨日と今日のズレが「進化した。」と思えることが正しいと思うのだ。ズレを肯定しながら新しいことを発見する。・・・同じことの繰り返しに安心はするが、それは覚えたことを発表するだけの「ロボット演劇」に過ぎない。悲しいことである。人間の業ではなくなる。

肉が語る。血が語る。オドル。歌う。そして、私は役者の身体を復権させようと稽古場にいる。
美しき役者たち。お客さんが対面するのは役者たちなのである。ここにはロボットではない肉体がある。呼吸もすれば涙も血も流れる。生きているのだ。



【19】■4月20日(水)中央公民館

「身体の在りか」は「KAGUYA」に通じる。「命」とは何だろう?生きている者たちが背負う大きな課題だ。そして死んだ者たちから学ぶことが大きい。
稽古場では泣き台詞の時に笑いながら表現する。すると、悲しみが深まる。テクニックでは通用しない。ある場面で「無言」に挑戦した。テーマはあるのだが、そうは見えない。突然、他の「あらすじ」が横切る。

【20】■4月21日(木)清水市民センター

販売機でコーヒーを買ったら誰かがコーヒーを取り忘れたのか、受け口に2本あった。私は拾得物を着服した。ドロボー!・・・新人=赤井犬彦さんと分けた。これで共犯者となった。罪は私の方が重い。
犬彦さんに手で話す演技を言う。手話ではなく、唐十郎さんが喋る時の特徴をパクル。芸を盗む。ドロボーだが、これは犯罪になるのだろうか。

【21】■4月22日(金)中央公民館



役者は伏せるが、下ネタがアドリブで出る。猥褻(わいせつ)?・・・叩かれたら闘う覚悟はあるやなし?下ネタはおおらかにはなる。だが、・・・。
個人感情の幅は一定ではなく、それを聞くと不愉快と思う者もいるだろう。東京都では「不愉快条例」なる訳のわからないものが成立したと聞く。一見、アニメに対して過激な性描写禁止条例なのだが、個人の想像力までも管理され思想信条まで及ぶことになるだろう。
さて、猥褻を形としてゲージツに昇華させましょうか。・・・チホーえせ文化人、立つ。息子さん、起立!元気が出る。