山南ノート4【劇団夢桟敷】

山南ノート4冊目(2008.10.3~)
劇団夢桟敷の活動や個人のことなどのメモとして公開中。

TOKIO報告(2)

2014-12-14 14:32:03 | 透明人間三部作-2014-2015
「火の君、鳥の物語」初日12月6日(土)2ステージと流山児祥さんのアングラトーク。

ゲネプロを予定よりも早くスタートした。昼までには終わる。第一ステージが午後3時だから余裕がある。
受付の美知さん(福岡から)やナオさん、森川さんも受け入れスタッフとしてスタンバイしてくれる。ビデオの記録は坂上君が担当してくれた。
舞台に石を並べなかった分、出演者たちは気楽に汗を流せた。安全は確保できた。
ゲネプロの途中より村山さんが酒を持って来てくれ、気分は一気に本番体制に向かった。
客席も埋まり、「お客さんは来ないかも知れない」不安は解消された。
実は弱気になっていた。無名の劇団は数の論理に欠けている。そう思われるのではないかという不安だった。
熊本ではメディアを介さなくても固定客は確保できているが、東京ではそうはいかない。今回は東京新聞とシアターガイドでご案内記事が載っただけである。ほとんど協力者によるクチコミで集まってくれた。
客席には横浜の息子夫婦と孫二人(三才と一才)も見に来てくれた。テンノウのご先祖様を想定した鬼のような怪物が登場したところで三才の孫が泣き出した。熊本のお爺ちゃんたちは怖いよー!と我がファミリーに亀裂が生じたのではないだろうか。たかが演劇である。R指定なし!が公演のモットーだ。自主規制もしない。悪いことをしている自覚がないからです。
客席には30年ぶりの懐かしい顔も並んでいる。公演でなかったらプチ同窓会の会場のようにも見えた。

主演=夢現のテンポが良くなってきた。これまで制作や雑用に追われて自分の役作りが後回しになっていたのも事実である。これからは分業も徹底したいものだと考えているのだが、・・・。
今回は熊本で留守番となったクドシン(舞台監督)とサキ(衣裳・制作助手)、海幸大介(舞台美術)も基本は役者である。この場にいないことに寂しさを感じていた。
その分、客演の賀久秀之助・大谷豪(いずれも仮面工房)、玉垣哲朗(みちくさ)、コモン真樹、岩永南都美(熊大演劇部)が加わり即戦力となっていた。この客演さんたちは頭数ではない。これまでも夢桟敷とは深く関わってくれていたので信頼関係も築れていた。

夜の部、第2ステージが終わって速攻、流山児祥さんによる「アングラトーク」が始まった。
実は、その日まで三重県津市で「演劇大学」に講師として参加していたのだ。
開演ギリギリで到着してくれた。お忙しい中、駆け付けてくれたことに感謝しております。
流山児さんとは1979年から、「バカ!アホ!」と言われる関係にあり、最近では「ボケ!爺」と言われて喜んでいる始末。
劇に関して「お前は何処に飛びたいんだよ。」と言って笑っていた。「お前たちはわかって舞台に立っているのか?」とマナミや肥後ちゃんに問いかける。「あちゃ~!」と思っているところで「わかっていません。」と答える二人。
フツーだったら「なんて無責任な劇団なんだ。」となるだろうが、笑いが起こった。この笑いの意味が「アングラトーク」に弾みになった。
このトークはビデオで収められているので、報告会で熊本の人たちへも紹介しようと思う。
1968年~70年の頃の「状況劇場」新宿西口広場、寺山修司が事件であったことが語られている。
アングラとは演劇の事件だったのだ。
私たちはその流れに遅れること10年、早稲田で旗揚げすることになったのだが、大学の大隈講堂前でのテント無許可公演や文学部では無許可で小屋が建っておりそこでも上演されていたことを思い出した。
その時の関係者も客席にいた。韓国との演劇交流を活発に試みている方や紛争地(主に中東)の戯曲を紹介している方たち。アングラとは無法者たちの劇ではない。その後の流れで国境を超えているのだと思った。時代と関係している。
一方、1983年の寺山没後、小劇場は商業化への流れも見えるようになった。演劇の事件性は薄まってきている。それも時代の流れか?
(つづく)