「火の君、鳥の物語」とTOKIO公演の意味。
劇中、劇が壊れる場面を何箇所か設けた。
物語を時間の流れで組み立てていなかったことも要因である。登場人物の人格が分裂していた。台詞の感情に従わなかった。これは意図した役作りで薦めました。
①4回目の阿蘇大爆発が起きた9万年前
②大陸から渡って来た戦う神の3千年前
③未来から訪れた旅人
この①から③の時間が重なるから、物語は壊れる。つまり、劇では一貫して時間が宙ぶらりんになっている。
論理的ではなかった。「悩む、苦しむ。」の感情を排除して別の感情を浮かび上がらせることを探し続けた。もっと、奇妙奇天烈なものが出てこないか!狂気はないか。
瞬間的に夢の中か?病院?・・・いわゆる、夢オチ、精神病院オチに見られたかも知れない。そうは問屋が卸してくれないのだ。
着地点は黄泉の世界か、この世の果か。・・・起承転結は終わって塗り替えられる。
当然、「わかって舞台に立っているのか?」の質問に対して「わからない。」と答えるのが正直な気持ちだったろう。
だが、私にとってはとても残念なのである。出演者一人ひとりに対して物語が壊れているからこそ作り変えられるように仕掛けたつもりだったからだ。
集団でやっていることには個人差が生じる。その一人ひとりに突っ込んで説明する時間がなかったことも確かだった。一人ひとりに物語はある。そのセンスがなければ劇の流れの中で薄まり、結果として消滅することもある。
言われた通り「はいはい。」と踊らされる役者と付き合うのは息が切れる。
いちいち稽古中に議論することはないが、出演者から疑問を突きつけられると有頂天になってしまうのも事実である。しっかり、疑問を投げかけてくれた出演者に喜びを感じた。
この劇の根本は「火の君=鳥の部族はこの国の先住民ではなかったのか」から出発した。しかも人間ではない。目に見えない、人間が想像した「神」だ。
無神論と多神論は対立しない。唯一の神を信ずることには疑いを感じる。
だから、テンノウの神話を怪物、あるいは鬼のように捉えたのだった。これは先住民、あるいは「神」から見た側のもの。立ち場や視点が変わると見え方が変わる。
桃太郎のおとぎ話を鬼の側から作り替えたようのものになった。
よく言われることだが、東京一極集中説がある。日本の首都トキオだからか。政治経済文化の中心都市トキオか。
政府は地方都市創生を掲げているが、いわゆる破綻したアベノミクス(笑)経済幻想の創生でしかないと思っている。
地方都市クマモトに住んでいて大きなお世話だとも思っている。目つきの悪い大臣を信用できないのだ。
トキオから見る地方にも劇団はあるよ。演劇が息吹いているよ。叩かれても起き上がる力が漲っているよ。
夢桟敷が誕生したのは確かにトキオだった。だから、東京公演の30年ぶりの意味があった。
だが、別の意味の方が大きかったのではないか。
旅公演の醍醐味はその土地で生きる者たちの出会いがある。今回は再会もあった。
空白の時間を埋め合わせる人の生き様と出会えたことが大きな収穫だったように思った。
(つづく)
劇中、劇が壊れる場面を何箇所か設けた。
物語を時間の流れで組み立てていなかったことも要因である。登場人物の人格が分裂していた。台詞の感情に従わなかった。これは意図した役作りで薦めました。
①4回目の阿蘇大爆発が起きた9万年前
②大陸から渡って来た戦う神の3千年前
③未来から訪れた旅人
この①から③の時間が重なるから、物語は壊れる。つまり、劇では一貫して時間が宙ぶらりんになっている。
論理的ではなかった。「悩む、苦しむ。」の感情を排除して別の感情を浮かび上がらせることを探し続けた。もっと、奇妙奇天烈なものが出てこないか!狂気はないか。
瞬間的に夢の中か?病院?・・・いわゆる、夢オチ、精神病院オチに見られたかも知れない。そうは問屋が卸してくれないのだ。
着地点は黄泉の世界か、この世の果か。・・・起承転結は終わって塗り替えられる。
当然、「わかって舞台に立っているのか?」の質問に対して「わからない。」と答えるのが正直な気持ちだったろう。
だが、私にとってはとても残念なのである。出演者一人ひとりに対して物語が壊れているからこそ作り変えられるように仕掛けたつもりだったからだ。
集団でやっていることには個人差が生じる。その一人ひとりに突っ込んで説明する時間がなかったことも確かだった。一人ひとりに物語はある。そのセンスがなければ劇の流れの中で薄まり、結果として消滅することもある。
言われた通り「はいはい。」と踊らされる役者と付き合うのは息が切れる。
いちいち稽古中に議論することはないが、出演者から疑問を突きつけられると有頂天になってしまうのも事実である。しっかり、疑問を投げかけてくれた出演者に喜びを感じた。
この劇の根本は「火の君=鳥の部族はこの国の先住民ではなかったのか」から出発した。しかも人間ではない。目に見えない、人間が想像した「神」だ。
無神論と多神論は対立しない。唯一の神を信ずることには疑いを感じる。
だから、テンノウの神話を怪物、あるいは鬼のように捉えたのだった。これは先住民、あるいは「神」から見た側のもの。立ち場や視点が変わると見え方が変わる。
桃太郎のおとぎ話を鬼の側から作り替えたようのものになった。
よく言われることだが、東京一極集中説がある。日本の首都トキオだからか。政治経済文化の中心都市トキオか。
政府は地方都市創生を掲げているが、いわゆる破綻したアベノミクス(笑)経済幻想の創生でしかないと思っている。
地方都市クマモトに住んでいて大きなお世話だとも思っている。目つきの悪い大臣を信用できないのだ。
トキオから見る地方にも劇団はあるよ。演劇が息吹いているよ。叩かれても起き上がる力が漲っているよ。
夢桟敷が誕生したのは確かにトキオだった。だから、東京公演の30年ぶりの意味があった。
だが、別の意味の方が大きかったのではないか。
旅公演の醍醐味はその土地で生きる者たちの出会いがある。今回は再会もあった。
空白の時間を埋め合わせる人の生き様と出会えたことが大きな収穫だったように思った。
(つづく)