私は稽古中に口癖のように言うことがある。
「三流は二流には絶対ならない。二流にならない三流がある。三流だからといって何も卑下することはない。」
【B級・三流論】である。
そういう意識(開き直りとも言う)が芽生えると“三流”にとんでもない可能性が見えてくる。・・・独自な邪道を歩かねばならなくなる。平安な大道ではなく獣道(けものみち)を歩く。自分で道を作らなければ生きてはいけない。
「二流にならない。」演劇とは“はぐれる”ことも覚悟の上だ。 あの人この人から気障(きざ)と言われてしまったが、「演劇の荒野をさまよう。」ことである。三流の条件はここにある。
B級演劇には、三流のフロンティア精神が必要。寄らば大樹の影、親方日の丸では根性が腐る。なんてね。
である。「右や左のだんな様、哀れな乞食にお恵みを!」
実は、後ろを振り向いて赤いべろを出している不届きな気持ちを秘めている。お茶目なところもあるのだ。
開き直ると何にでも笑い飛ばせるのである。笑う乞食である。
二流の人は乞食を嫌う。嫌うというよりプライドが高い。一流が好きだからである。おまけに「ホンモノ」志向だけはある。何が「ホンモノ」かは自分では判断せずに、誰かが評価すれば「ホンモノ」と思い込んでしまう。どうやら「ホンモノ」という会話が好きなようである。
役者と乞食は三日やったらやめられない。抜けられなくなるのだ。出口を失ってしまう。
愛すべき、バカのパラダイスなのである。
何が「ホンモノ」で何処が「ニセモノ」なのかの判別すらつかないのが、三流の天然。
「ホンモノ」であろうが「ニセモノ」であろうが関係ない。自分で「良し。」と思わなければ燃えないタイプ。
ある程度は生まれ持った素質がモノを言う。
その集団が作るB級路線の演劇は恐ろしいのである。絶対に二流にはならないからだ。
稽古中は“天然”を発見する作業でもある。
私たちは「おぎゃーっ」と生まれて養殖で育ってきた。
選別され、ある時は不良品扱いされる。
そういう奴らが這い上がったら強いぞ。
これは自分にも言い聞かせている。
「三流は二流には絶対ならない。二流にならない三流がある。三流だからといって何も卑下することはない。」
【B級・三流論】である。
そういう意識(開き直りとも言う)が芽生えると“三流”にとんでもない可能性が見えてくる。・・・独自な邪道を歩かねばならなくなる。平安な大道ではなく獣道(けものみち)を歩く。自分で道を作らなければ生きてはいけない。
「二流にならない。」演劇とは“はぐれる”ことも覚悟の上だ。 あの人この人から気障(きざ)と言われてしまったが、「演劇の荒野をさまよう。」ことである。三流の条件はここにある。
B級演劇には、三流のフロンティア精神が必要。寄らば大樹の影、親方日の丸では根性が腐る。なんてね。
である。「右や左のだんな様、哀れな乞食にお恵みを!」
実は、後ろを振り向いて赤いべろを出している不届きな気持ちを秘めている。お茶目なところもあるのだ。
開き直ると何にでも笑い飛ばせるのである。笑う乞食である。
二流の人は乞食を嫌う。嫌うというよりプライドが高い。一流が好きだからである。おまけに「ホンモノ」志向だけはある。何が「ホンモノ」かは自分では判断せずに、誰かが評価すれば「ホンモノ」と思い込んでしまう。どうやら「ホンモノ」という会話が好きなようである。
役者と乞食は三日やったらやめられない。抜けられなくなるのだ。出口を失ってしまう。
愛すべき、バカのパラダイスなのである。
何が「ホンモノ」で何処が「ニセモノ」なのかの判別すらつかないのが、三流の天然。
「ホンモノ」であろうが「ニセモノ」であろうが関係ない。自分で「良し。」と思わなければ燃えないタイプ。
ある程度は生まれ持った素質がモノを言う。
その集団が作るB級路線の演劇は恐ろしいのである。絶対に二流にはならないからだ。
稽古中は“天然”を発見する作業でもある。
私たちは「おぎゃーっ」と生まれて養殖で育ってきた。
選別され、ある時は不良品扱いされる。
そういう奴らが這い上がったら強いぞ。
これは自分にも言い聞かせている。
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