I先生
日本では、まだ韓国語と言う呼び習わしが新しかった頃
日本では、韓国語と言う教科書が初めて刊行された頃
日本では、大学や研究者や学生にとって、
その言語が、当たり前に朝鮮語であった頃、
日本では、朝鮮語の朝鮮と言う言葉を、何をはばかってか、
在日の朝鮮人や韓国人や日本人が、口にしなくなり始めた頃
日本では、その言語を、朝鮮語とか韓国語とかハングルとか、
時と場と場合で、言いかえていた頃
私は、小さなビルの一室で開かれていた語学教室で、
I先生に、初めて会った
数人の仲のよさそうな在日の若者たちと、
日本人である僕と、
生徒数が十人に満たぬ小さな教室だった
ピンク色のファイルに綴じ込んだ、
手書きの青焼きのコピーが、私たちのテキストだった
そして、私はそこで、
先生にとっても、
クラスの在日の若者たちにとっても、
異質で年かさの 鬱陶しい存在だった
教室の中で僕は、劣等生だった
ハングルの基本的な発音が出来ず、
先生の発するその発音の違いが、聞き取れなかった
私はそこで、
先生にとっても、
クラスの在日の若者たちにとっても、
カリキュラムの進行を妨げる困った存在だった
教室での日本人としての私の疎外感は、
苦痛ではなかったが、
学業での劣等感が、自分の心を苛んだ
私が、まだイウンとニウンに戸惑っていた頃
急に、在日の若者たちが来なくなった。
生徒は、日本人の僕一人になった
一人の生徒に、カリキュラム通り、授業は進められた
その間も、私の発音は、厳しく何度もたしなめられた
私はそこで、あいかわらず、先生にとって、
指導に価しない 劣悪な困った生徒だった
私は、まるで、
尋常小学校で、日本語で教育を受けている
日帝時代の朝鮮の子どものようだった
青焼きコピーの初級テキストが、
そろそろ終わりに近づいたある日、
教室の休憩時間、
I先生は、教壇から降りて、生徒の席に座った
そして、
私は、朝鮮大学の出身なのだと語った
それが、あの在日の若者たちが、
急に姿を見せなくなった事の理由だったのか、
今も私には分からない
夫も、朝鮮大学の出身なのだと教えてくれた
I先生は、先生の夫の事や子どもの事も、少し話してくれた
なぜそんな話を語ったのか、
今も私には分からない
I先生は、夫の政治心情に付いて、
まるで言い訳でもするように、理想主義者なのだと語った
なぜかその時、自分が、
センチメンタル・コンサンタン(共産党)と言う言葉を、
口にしたことを、覚えている
そして、その言葉にI先生が、悲しげに笑ったのも
私はその時、I先生と私との壁が消えたのを感じた
日帝時代の朝鮮の小学校の教室でも
日本人の教員と、朝鮮の子どもたちの間で、
このような事が、きっとあって、沢山あって、
先生も子どもたちも、感じあい、理解しあい、
学びあったのに違いないのだと思った
あの教室の在日の若者たちは、
僕を決して、受け入れなかった
僕が、日本人であったからなのか、
他に理由があったのか、
それともただ、機会と時間が無かっただけなのか
今も私には分からない
朝鮮大学出身のI先生は、
あの教室のたぶん民団系だった在日の若者たちに、
受け入れられなかったのだろうか
今も私には分からない
I先生も感じておられた疎外感が、
私との距離を、縮めたのだろうか
今も私には分からない
採算の取れない教室は、その後、数期を経て閉鎖された。
私は、別の教室に通い始めた
すでに「韓国語」の呼び名が定着しつつある時代になっていた
その教室は、当然のごとく「韓国語教室」の看板をかかげていた
ある日、I先生から、開店案内が届き、
私は、電話をいれた
I先生は、私の韓国語に驚き、
私のささやかな語学の上達を、誰より、喜んでくださった
私は、その後も、勉強を続けた
勉強すればするほど、
韓国も朝鮮も、私からその距離を隔てて行った
私は、日韓や日朝の友好関係に、幻想をもっていない
絶望的だと思っている
せめて敵対し合わない関係を、持続できれば…と、願っている
私は、懐かしく思い出す 心
何十年も前の小さな教室でのひと時を、
I先生は、安寧でお過ごしだろうか
あの小さな教室の心通わせたひと時を、覚えておいでだろうか