「PRAY FOR JAPAN」は
この日
記念すべき「100回目の上映会」だったそうです。
「100回」達成まで13年
商業映画ではないドキュメンタリー記録映画が
県内のみならず
東京、三重、島根、沖縄など国内をかけめぐり
日本を飛び出し
全米・アジア・中東・欧州などでも
上映されました。
映画を上映する事に尽力された方の1人に
門間さんがおられます。
門間さんは
映画の中にも登場されていて
コメントを幾つか残していました。
石巻市の復興に
一生懸命向き合ったおひとりだったのだと思います。
私がこの映画を観るために
予約の電話をして
お話させて頂いたのも門間さんでした。
*
まだ高校生だった健人君も
何度か登場しています。
私は
東松島市の職員になった大人の健人君しか知らなかったので
当時流行していた
前髪がとっても長い華奢な健人君の姿が
少し新鮮に思えました。
東日本大震災で
おじいちゃん おばあちゃん おかあさん 弟の律君の
4人を津波にのまれてしまった健人君は
倒壊した自宅の前で
カメラに向かって一生懸命説明をしていました。
律君の小さな青い鯉のぼりも
泥だらけのままで映っていました。
行き場のない喪失感の中
バンドマンでもあり太鼓打ちでもあった健人君が
「一緒に太鼓を打ちたい」
という手紙を書いた事をきっかけに出会った
KYO君 こうき君 ようちゃんたちも
若い頃の姿のままで
フィルムの中に存在していました。
*
幾つもの奇跡的な出会いが重なって
映画「PRAY FOR JAPAN」はできあがったのだなぁ
と改めて感じさせられた
「PRAY FOR JAPAN」の上映会でした。
(続く)
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「52ヘルツの鯨の呟き」
私が
1月1日の能登半島地震で北陸の皆さんの事を心配し
少しでも役に立ちたいと情報収集し
このブログが今のような形に至っているのは
この方たちとの出会いや
イベントに参加させて頂いている事に
端を発しているのです。
「本気で能登を助けようとしていますか?」と
ずっと心の声を上げながら
ニュースやネットの記事をを見続けている毎日です。