沖縄の地方紙には、死亡欄がある。
これって、フツーと思ったら、違うらしいね。
まー、ここ沖縄ではフツーなことであり、毎朝大人たちはニュース記事と合わせて、
死亡欄もチェックすることが、沖縄の一般家庭の朝の光景である。
私も、小さい頃からその環境の下で育ってきた。
そして大人になった今、購読している地方紙の死亡欄を見ている自分を発見する。
もう、大人である証か。
でもね、最近また気づいたの。
家庭をもって子供ももつようになると、死亡欄一つでも見方が変わっている自分を。
昔は、死亡欄に大きく載っている人を見ると、”お、どこかの大物が亡くなったのかな”
”えー、この人、こんなに沢山の肩書きがあったんだー”とか、
”この大物のお母さんが亡くなったんだー”
”この会社とこの会社は血縁関係だったのかー”などと、故人の偉業というか、
沖縄社会における地位などに目がいったの。
でもね、最近は違う。
ポツリと載っている故人の名前と享年を見て、「天寿をまっとうし・・・」という文言の大さに
驚くと同時に、私がこの人と同じ享年になるためには、自分の今の年齢の3倍以上も必要~
と、故人の天寿に改めて敬意を表す。
たとえ、有名企業の名前や、医師会や弁護士会の名前が載っていなくても、
たくさんの子や孫の名前や、地域の自治会、友人らの名前を載っていることを見ると、
故人が有名でなくても、立派に人として生きてきたんだろうなーなどと思う。
また時折、親より先に旅立つ故人の名前を見ることもある。
長寿社会の宿命か・・・自分が長生きすると、子供の死目にあうことは
避けて通れないのかもしれない。
その子供がまだ幼子の場合、言葉にいい表せない悲しみが新聞の死亡欄を見ているだけで
込み上げてくる。幼子をなくされたご夫婦のお名前を新聞で拝見すると、本当に、本当に、
考えさせられることがたくさんある。
先日、6歳未満で脳死が確認された男児のご両親が、子供の臓器提供に同意し、
国内初の臓器提供が行われるとのニュースを見た。
臓器提供には色々な論があるんだろうけども、それによって助かる子供が
いることも確か。でも、そのご両親が同意するまでには、色々と悩まれたかもしれない。
私だったら同意できるだろうか・・・。
こんなことを思いながら、新聞やニュースを観ていると、知らず知らずのうちに
涙が溢れている自分がいる。
朝からその涙をティッシュで拭き取りながら、
日々の当たり前の生活をもっと大事にしよう、この生活に感謝しようと
心を改めたりしている。
各人に悲しみや苦しみは起こってほしくないが、
ニュースを見ているだけの非当事者の私は、その気持ちを察することと、
自身の心を改めることしかできない。