日本という国は独自の暦を用いているため、この度も平成から令和に代わりましたが、わたしたちの生活はとくに変化はなく5月の新緑の季節へと移り変わっていきます。役所や銀行などは新元号へのシステムの変更が必要となり、行楽地やお店は稼ぎ時であって、10連休といっても仕事に追われている人もたくさんいるのではないかと察します。
毎年、西暦で新しい年を迎えた時と日本の場合は4月からが学校や会社の会計年度の始まりとなっているため、事実上年に2度新しい区切りが精神的にも持てることになり、今年は3回目の新しい区切りとなります。しかしながら、環境の変化や暦などが新しくなり区切りがつけられていたとしても、わたしたち人の心はそれで一新されるのでしょうか。心のコントロールが、それでうまくいく人は良いですが、何も変わらない、もしくは益々悪化していってしまう様々な悩みがある人もいるかもしれません。
聖書では、下記のようにキリストを信じる人は日々内側が新しくされると書かれています。内側が日々新しくされるとはどういう意味でしょうか。まず、これは環境的な要因や自分自身に言い聞かせるということで心が新しくされるものではなく、キリストの霊(聖霊)が人の内側(心)に働き、新しく変えられていくといことといえるでしょう。具体的には、日々、新しい悩みや事件に直面する人、もしくは単調な生活で飽きてしまっている人、仕事や介護で忙しくて何も考える余裕がなく日々流されていく人、悲しみ・恐れに捕らわれている人。。それぞれ状況が異なるとしても、信仰が与えられると聖書の言葉をとおしてキリストの恵により、その時はあせったり感情の起伏が起こるとしても、落ち着けるところへ導かれる、満足して神様に感謝する心に変えられる、これが日々心の中で起こることです。これは、傍から見てもわからないことですが、その人の心がこのようにかえられて神様に感謝できる日々を保てるという事こそが、日々内側が新しくされている証拠なのです。
キリストを信じて信仰を持っていても、信じていない人と同じように、因果関係なくとも(もちろん原因があっても)辛い事、悲しいこと、つまらないことはたくさん起こります。キリスト教はご利益宗教ではないので、自己中心的な人間社会の中に生きている限り自分の思う通りに事は運ばず、自分の願いを神様に祈ってもその通りに叶えられないこともあります。それでも、クリスチャンは、たとえ自分の願い通りにならなくても、神様がベストの答えと必ず導いていくださると信じて委ねることができます。自分で心をコントロ―ルして守ろうと一生懸命頑張らなくも、もしくは人間が造った神々に願をかけ、お金を使う必要はないのが幸いです。この神様の恵みをイエス・キリストを通して与えられていることを感謝しつつ、変えられなければならないところがたくさんある、欠けのある私は、日々忍耐できる、謙遜な心に変えられるよう祈ります。
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人は」衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人は」日々新たにされていきます。」 第2コリント人への手紙4章16節
毎年、西暦で新しい年を迎えた時と日本の場合は4月からが学校や会社の会計年度の始まりとなっているため、事実上年に2度新しい区切りが精神的にも持てることになり、今年は3回目の新しい区切りとなります。しかしながら、環境の変化や暦などが新しくなり区切りがつけられていたとしても、わたしたち人の心はそれで一新されるのでしょうか。心のコントロールが、それでうまくいく人は良いですが、何も変わらない、もしくは益々悪化していってしまう様々な悩みがある人もいるかもしれません。
聖書では、下記のようにキリストを信じる人は日々内側が新しくされると書かれています。内側が日々新しくされるとはどういう意味でしょうか。まず、これは環境的な要因や自分自身に言い聞かせるということで心が新しくされるものではなく、キリストの霊(聖霊)が人の内側(心)に働き、新しく変えられていくといことといえるでしょう。具体的には、日々、新しい悩みや事件に直面する人、もしくは単調な生活で飽きてしまっている人、仕事や介護で忙しくて何も考える余裕がなく日々流されていく人、悲しみ・恐れに捕らわれている人。。それぞれ状況が異なるとしても、信仰が与えられると聖書の言葉をとおしてキリストの恵により、その時はあせったり感情の起伏が起こるとしても、落ち着けるところへ導かれる、満足して神様に感謝する心に変えられる、これが日々心の中で起こることです。これは、傍から見てもわからないことですが、その人の心がこのようにかえられて神様に感謝できる日々を保てるという事こそが、日々内側が新しくされている証拠なのです。
キリストを信じて信仰を持っていても、信じていない人と同じように、因果関係なくとも(もちろん原因があっても)辛い事、悲しいこと、つまらないことはたくさん起こります。キリスト教はご利益宗教ではないので、自己中心的な人間社会の中に生きている限り自分の思う通りに事は運ばず、自分の願いを神様に祈ってもその通りに叶えられないこともあります。それでも、クリスチャンは、たとえ自分の願い通りにならなくても、神様がベストの答えと必ず導いていくださると信じて委ねることができます。自分で心をコントロ―ルして守ろうと一生懸命頑張らなくも、もしくは人間が造った神々に願をかけ、お金を使う必要はないのが幸いです。この神様の恵みをイエス・キリストを通して与えられていることを感謝しつつ、変えられなければならないところがたくさんある、欠けのある私は、日々忍耐できる、謙遜な心に変えられるよう祈ります。
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人は」衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人は」日々新たにされていきます。」 第2コリント人への手紙4章16節