おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

ベルクソンがアインシュタイン論である『持続と同時性』を絶版にし、小林秀雄がベルクソン論である『感想』を中断したことから-小林秀雄とベルクソン哲学①-

2024-10-24 07:03:30 | 日記
小林秀雄は、ベルクソン論である『感想』を途中で放棄したことについて、『人間の建設』のなかで、

「書きましたが失敗しました。
力尽きて、やめてしまった。
無学を乗り切ることが出来なかったからです。
大体の見当はついたのですが、見当がついただけでは物は書けません」
と述べている。

ここで、小林秀雄が、
「失敗しました。力尽きてやめてしまった」
というのは、ベルクソンとアインシュタインの論争についてではないかと思われる。

おそらく、小林秀雄は、ベルクソンとアインシュタインの対立を最終的に解明することができなかったのではないだろうか。

言い換えれば、アインシュタインの時間論を、ベルクソンの時間論によって批判することができなかったのではないだろうか。

小林秀雄は、ベルクソンの時間は、人間が生きる時間であり、生きてわかる時間であるという。

これに対して、アインシュタインの時間は、第4次元の時間であって、いわゆる客観的な時間であろう。

小林秀雄は、ベルクソンとアインシュタインの対立を感情的なものと理論的なものとの対立として捉えているようである。

しかし、小林もベルクソンも、科学的真理を無視するような独断的な空想家ではない。

ベルクソンがアインシュタイン論である『持続と同時性』を絶版にし、小林秀雄がベルクソン論である『感想』を中断したのは、ここにおいてであると言ってよいのかもしれない。

柄谷行人は、『交通について』のなかで、

「小林秀雄のテクストはすべて管理されている」
と述べたことがあるが、その意味でいえば、小林秀雄のテクストのなかで、ベルクソン論である『感想』だけが、小林秀雄の管理の手をのがれ、意識家小林秀雄の意識をこえて、小林秀雄の手によっても、どうにも収拾のつかなくなった作品なのかもしれない。

小林秀雄は、ベルクソン論である『感想』を打ち切るとすぐに『本居宣長』の連載を開始し、『本居宣長』は1冊の長編評論として立派な本になり、晩年の小林秀雄の代表作としての地位を獲得しており、ベルクソン論で果たし得なかったことを『本居宣長』で果たし得たかにすら見えるだろう。

小林秀雄は、なぜ、あれほどの情熱と持続力をもって論じたベルクソンを投げ出し、ベルクソン論である『感想』を本にしようとはせず、ベルクソンから本居宣長に切り換えてしまったのだろうか。

小林秀雄には、ベルクソン論以外にも、初期の評論「『悪の華』一面」と題するボードレール論のように「未完」のままで、長い間全集にも収録されず、放置された作品もあるのだが、「感想」と「『悪の華』一面」とでは、その分量があまりにも違い、さらに、「『悪の華』一面」が、小林秀雄が文芸評論家として文壇にデビューする以前の、いわば、習作の域を出ない小品であるのに対し、「感想」は、文芸評論家としての不動の地位を確立してのちの小林秀雄が、いわば最後の作品、言ってしまえば、遺書のようなものとして書き続けた長編の問題作であるため、その重さは違うといわざるをえないのである。

しかし、このふたつの未完の評論は、極めて原理論的な色彩が強い作品であるという共通点があり、これは、小林秀雄の評論としては稀なことであると思われる。

江藤淳は、「『悪の華』一面」について、『小林秀雄』のなかで、

「この時期の小林の論文としては異常に論理整然としている」
と言い、全集にこの作品が収録されていないのは、「思弁的でありすぎるのを嫌った」のかもしれないと言っているが、この「論理整然」としていて「思弁的」でありすぎるという特徴は、そのまま『感想』にも当てはまるだろう。

小林秀雄には、彼自身、非常に「論理的」で「思弁的」であるにもかかわらず、「論理的」で「思弁的」な文章に対する非常な警戒感があり、その意味で小林秀雄にとってベルクソン論は極めて危険な作品だと言ってよいのかもしれない。

つまり、小林秀雄の本質が、小林秀雄の警戒心を押しのけて、一気に溢れ出てきたような作品が、『感想』であり、「『悪の華』一面」であったからではないだろうか。

もし、そうであるとするならば、これらの作品は小林秀雄自身の判断とは真逆に、小林秀雄という近代文学史上最大のパラドックスのひとつを解釈するにあたり、最も重要なヒントを与えてくる作品ということにはならないだろうか。

特に、その分量の多さと、その問題の重要さによって、『感想』は、その重要性を増してくるように思われる。

小林秀雄のベルクソン論である『感想』のなかには、小林秀雄の強みも弱みもともに含まれている小林秀雄がはじめて公開した原理論の書であるということができるのではないだろうか。

『感想』は、小林秀雄的思考の核心を、ベルクソン論というかたちで公開したものであり、そこには、それまで見せなかった小林秀雄の素顔があるようである。

『感想』の第1回目は、小林秀雄の母の死の前後の話から始まっており、母の死にまつわるエピソードのあと、ベルクソンの「遺書」の話に及んでいる。

そして、第2回目から、ベルクソンの哲学に関する詳細な分析が始まるのだが、小林秀雄の『感想』の特色は、ベルクソンを論じるときに、「生の哲学」や「非合理主義」といった、いわゆるもうすでに、よくあるような、既製品のようなベルクソン哲学の解釈ではなくて、ベルクソンの著書のなかの論理を具体的に、ひとつひとつ検討している点にあるのだろう。

その意味では、『感想』は、ベルクソン論というよりベルクソンを素材にして、小林秀雄がさまざまな思考実験を行った評論と言った方がよいのかもしれない。

「学生時代からベルクソンを愛読してきた」小林秀雄が、自身の批評の基礎原理に深く関わりすぎているがゆえに、ベルクソンについて、具体的に語ったことはあまりなかったし、ベルクソンの名前を出して具体的に語りはじめるのは戦後のようである。

小林秀雄は、原理的な思考に裏付けられた、極めて論理的、客観的な思索を得意とする人であったが、その原理論や原理的な思考そのものを人前にさらしたことはなく、常にその批評の原点は隠されていたといってよいのかもしれない。

そのように考えるとき、『感想』は小林秀雄にはめずらしく、その原理的思考の内側を、具体的にさらけ出した作品といえるのではないだろうか。

小林秀雄にとってのベルクソンを考えるにあたり、小林秀雄の初期の雑誌連載の文芸時評である『アシルと亀の子』に触れたいと思う。

中村光夫は、『小林秀雄初期文芸論集』の解説のなかで、

「昭和五年は、氏がはじめてジャーナリズムの表通りに出て、継続的に仕事をして批評家として印象づけた年であり、この四月から満一年にわたって『文藝春秋』に連載した『文芸時評』は『アシルと亀の子』という奇抜な題とも相俟って、たんに文壇の注目をひいただけではなく、広範囲の読者の関心を呼び喝采を博したので、これまで一般には未知の批評家であった小林氏が、はじめて人気の中心というべき新進文学者として登場したのです」
と述べている。

つまり、『アシルと亀の子』先立って発表されたデビュー作である『様々なる意匠』がどちらかといえば、批評の原理論であり、本質論であったのに対して、『アシルと亀の子』と題して『文藝春秋』に連載された文芸時評は、一種の情勢論であり、小林秀雄的批評の実践版であったようである。

『様々なる意匠』が読者にとって理解し難かったのに対し、『アシルと亀の子』は話題が具体的であり、現実的であったため、多くの読者を獲得し、このような連載時評の成功により、小林秀雄は批評家としての地位を確立したといえるのかもしれない。

中村光夫には、「奇抜な題」と言われてしまったが、『アシルと亀の子』は小林秀雄自身にとっては、十二分に考え抜いた末に選んだ、特別な意味を帯びた題名であったはずであろう。

この「奇抜な題」は、ベルクソンから借用したものではないかと、私には、思われる。

「アシルと亀の子」のパラドックスは、ベルクソン哲学の中心に位置する問題であり、「学生時代からベルクソンを愛読してきた」小林秀雄がこのパラドックスに関心を持ち、この題名を初期の連載時評に選んだことは、やはりベルクソンを通じててあると思われる。

私たちがよく、「アキレスと亀」と呼んでいるエレア学派のゼノンのパラドックスは、ベルクソン哲学にとって、非常に重要な意味を持つパラドックスであり、その哲学の独創的な展開の端緒を開く契機となったパラドックスである。

ベルクソンが、この問題に直面したのは、まだ、クレルモン=フェランのリセ・フレーズ=パスカルで教鞭をとっていた頃のことであったといわれており、ルネ・デュポスの日記によると、ベルクソンは、
「ある日、私は黒板に向かってエレア学派のゼノンの詭弁を生徒たちに説明していたとき、私にはどんな方向に探求すべきかがいっそうはっきりと見えはじめた」
と語っている。

以後、ベルクソンが、この問題を端緒にして新しい哲学的見解を示し、絶えずこの問題に触れ、その著作のいたるところでこのパラドックスを分析し、その哲学的思考の根拠としているようである。

ベルクソン哲学とゼノンのパラドックスはそのもっとも根底的なところで結びつけられている。

ゼノンのパラドックス、つまり「アシルと亀の子」のパラドックスとは、紀元前5世紀に南イタリアのエレアで活躍した哲学者であるゼノンが挙げた、運動に関する4つのパラドックスのうちのひとつであり、アリストテレスが『自然学』のなかで取り上げられたために、広く世に知られるようになったのだが、ゼノンにとっても、アキレスが亀に追いつくことは、自明のことであっただろう。

ただ、その事実を説明し、理解しようとすると、矛盾が起こってしまうのである。

ゼノンのパラドックスは、単純明快な内容と、その解決の異常な難しさのために、古くからパラドックスの代表的なものとされて、多くの哲学者を悩ませてきた。

ベルクソンは、このゼノンのパラドックスを解明することから、その哲学を開始したようである。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

*見出し画像は散歩途中での景色です。昨日は曇りでしたね😌

大岡昇平の「渋滞の跡」、「人間への絶望」、そして「戦争体験」からの再生と小林秀雄の存在-大岡昇平と小林秀雄とベルクソン哲学③-

2024-10-23 06:45:19 | 日記
批評とは、分析であり、分析の限りを尽くして、もはやそれ以上分割不可能なものを見出すことではないだろうか。

たとえ、究極的には、その最終的に分析不可能なものが、もはや1個の無であったとしても、その分析の道を進まない限り、批評に到達することはできないだろう。

小林秀雄もまた、どれだけ分析的な認識にかえて、直感的、経験的な認識を主張したとしても、まずやらなければならなかったことは、分析することであり、反省することだったのかもしれない。

これに対して、大岡昇平は、ある時点から、分析や反省という行為に対して、ある決定的な訣別を行っている。

大岡昇平の分析や解釈は、『俘虜記』や『野火』などの小説においてさえそうであったように、あまりにも過剰であるといってよいほどかもしれないのだが、それらは、あくまでも分析や解釈の向こうにある現実や生活を浮かび上がらせる手段でしかないのであろう。

大岡昇平の内部には、現実や生活に対する素朴な、そして分析や解釈という理論的作業によっては、決して汲み尽くせない現実の多様性への強固な信頼が生まれてきたようである。

それは、大岡昇平がフィリピン、ミンドロ島での戦争体験を通して獲得したものであろうか。

大岡昇平の『俘虜記』や『野火』その他で書かれている、過酷な戦争体験は、批評家大岡昇平が作家大岡昇平に転換する契機であることは否定しようがないが、大岡昇平の内部である価値転換がおこったのはその前の、大岡昇平が東京を離れ、神戸でのサラリーマン生活をはじめたときであり、それが、戦争、出征、俘虜、復員という歴史的な体験と偶然重なったようにも思われるのである。

大岡昇平は、昭和3年、19歳のときに、フランス語の家庭教師としてやってきた小林秀雄と出会い、小林秀雄を通じて、中原中也、河上徹太郎、中島健蔵などと知り合うなど、大岡昇平の文学的な交友関係は切り拓かれたようである。

小林秀雄との出会って以来、大岡昇平は、友人から、
「人が違ったようになった」
と言われるほどに変化したのだが、それは、大岡昇平が批評家小林秀雄の誕生劇の渦に呑み込まれていったということでもあろう。

以後、大岡昇平は、小林秀雄的なパラダイムの中で生きねばならず、やがて、小林秀雄や河上徹太郎らの後を追うように、彼自身も文壇にデビューするのだが、大岡昇平が、この頃書いた評論のなかでめぼしい物はあまりなく、ほぼ相前後して、小林秀雄の影響下に批評を書き始めた中村光夫と比較しても、大きな違いがあったようである。

中村光夫は、すでにその頃、のちに『フロオベルとモオパッサン』として1冊の本にまとめられることとなる一連の書評や、やがて彼の代表作ともなる二葉亭四迷に関する評論を続々と発表しており、大岡昇平が同じような年の、しかも同じ小林秀雄の門下生である中村光夫の華々しい活躍が気にならなかったはずはないように思う。

大岡昇平は、中村光夫について、

「二十三歳で『モオパッサン』を書いて以来、中村の経歴は伸び伸びと育った植物を思わせる。
底にモオパッサンとフロオベルの苦渋を秘めながら、それを立証しようとする彼の筆には、いささかの渋滞の跡がみられない」
とのちに書いているが、逆にこの当時の大岡昇平の筆には、「渋滞の跡」が顕著であったようである。

中村光夫と大岡昇平の違いは、大岡昇平の内部にあった「原理的思考」へのこだわりなのかもしれない。

この「原理的思考」へのこだわりは、中村光夫には、まったくといってよいほど無く、そのことが、場合によっては、中村光夫が、小林秀雄以上に大胆かつ明快な批評家であり得た理由なのかもしれない。

中村光夫にとっては、小林秀雄が理論物理学やベルクソン哲学に示した関心の深さは、決して理解し得ないものであり、中村光夫においては、「理論」と「現実」ずれ、言い換えれば、「アシルと亀の子」のパラドックスという問題が、問題として浮上することはなく、中村光夫は、原理的な問題を回避することによって、いわば評論という危機を無視することによって、大胆な批評家たりえたのかもしれない。

江藤淳が中村光夫を評して、
「大胆に間違う人であった」
というのは、非常に正確な中村光夫評であろう。

これに対して、大岡昇平は、小林秀雄の忠実な読者であったゆえに「大胆に間違うこと」が出来ず、理論と現実のずれに直面した大岡昇平は、沈黙を選んだようである。

昭和13年、9月中村光夫は、フランス給費留学生として渡仏し、パリ大学に入学したのに対し、大岡昇平は、そのわずか2カ月後、神戸にある帝国酸素株式会社に翻訳係として入社し、東京を離れた。

大岡昇平は、このことについて、
「前年日支事変が起こり、文筆で生活する自信を失ったためである」
と自筆年譜に記している。

しかし、『わが文学に於ける意識と無意識』のなかでは、

「一度でも世界大戦史を読んだ者にとって、あの時アメリカと戦うことは亡国を意味することは明白でした。
無知な軍人共が勝手な道を選ぶのは止むを得ないとしても、私の尊敬する人達まで、それに同調しているのを見て、私は人間に絶望したといえます。
私はフランス語の知識によって、或る日仏合弁会社の翻訳係に国内亡命する道を選びました」
と述べている。

「私の尊敬する人達」のなかには、小林秀雄もふくまれているだろう。

大岡昇平が、昭和13年に東京を離れたという事実は、小林秀雄にとっても見逃すことのできない重大事件であり、小林秀雄の最も優れた理解者のひとりである大岡昇平が、もっとも強力な批判者に転じたことを意味していたのではないだろうか。

戦後、フィリピンの俘虜収容所から復員してきた大岡昇平を小林秀雄は、喜んで迎え、大岡昇平に「従軍記」の執筆を勧め、大岡昇平は、小林秀雄のすすめに従って『俘虜記』の第1章にあたる「捉まるまで」を書いたようである。

小林秀雄にとって、大岡昇平は、フランス語の生徒であり、文学的な弟子であり、そして青春のある時期をともに過ごした、やや年少の友人であったのであろう。

小林秀雄のベルクソン論である『感想』を読むとき、『感想』は一種の大岡昇平昇平批判ではないかと、私には、思われるときがある。

そのとき、『感想』というベルクソン論が遺書に関する分析から始まっている理由も、また、大岡昇平を意識した批評家小林秀雄の遺書として書かれたようにも、思われるのである。

小林秀雄のベルクソン論である『感想』は、5年間にわたり、「新潮」に連載された長編評論であるが、途中で突然未完のまま打ち切られた奇妙な評論である。

これは小林秀雄の作品のなかでも異例のことであり、大岡昇平も、このことについて「『本居宣長』前後」のなかで、

「五十六回にわたって連載された労作はここで中断され、単行本になっていない。
小林さんの著作歴において異常なことである」
と書いている。

人はしばしば、もっとも大切なものを隠そうとし、また、隠そうとするその動作によって、もっとも重要な本質的な問題が何であるかを暴露してしまうのかもしれない。

小林秀雄とて例外ではなくて、小林秀雄のベルクソン論には、小林秀雄の本質的な課題が隠されているのかもしれない。

小林秀雄は、ベルクソン論が、彼にとって重要だからこそ、出版もせず、全集にも入れようともせず、さらに言ってしまえば、ベルクソン論は小林秀雄にとってあまりにも重要な問題を孕んでおり、ある場合には、小林秀雄の文学成果を悉く覆してしまうかもしれないような、極めて危険な要素を含んだ作品だからこそ、出版もせず、全集にも入れようとしなかったのではないだろうか。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

最後の疑問から、次回は考えていきたいなあ、と思っております😊

よろしくお願いいたします😊

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

*最近、また、気になりだしました😊
小林秀雄「近代絵画」
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大岡昇平の『俘虜記』と『野火』みる「解釈や意味に対する絶望」と「現実や生活に対する深い信頼」-大岡昇平と小林秀雄とベルクソン哲学②-

2024-10-22 07:14:34 | 日記
小林秀雄が、ベルクソン論である「感想」のなかにおいて、ベルクソンのことばで、
「君達には何もわかっていない」と言うとき、その傍らには、亀の子のように、黙々と資料の収集に歩き回る大岡昇平の姿が見えてくるような気がすることがある。

「わかる」とか「わからない」というような批評的言説に絶望した大岡昇平という作家の作業は、小林秀雄を神格化すると同時に、脱神話化しているように見える。

そして、その問題は、小林秀雄のベルクソン論のテーマと複雑に絡み合っているのではないだろうか。

戦後、フィリピンの俘虜収容所から復員してきた大岡昇平を小林秀雄は、よろこんで迎え、「従軍記」の執筆を勧め、大岡昇平は、その勧めにしたがって『俘虜記』の第1章にあたる「捉まるまで」を書いたようである。

そこで、作家大岡昇平が誕生するのであるが、小林秀雄は大岡昇平に「従軍記」の執筆を勧めたとき、

「とにかくお前さんにはなにかある。
みんなお前さんを見棄ててるが、お前さんのそのどす黒いような、黄色い顔色はなんかだよ」
と言ったそうである。

大岡昇平の地道な資料の収集や回想録なくして、批評家小林秀雄を語ることはできないのかもしれない。

小林秀雄自身はほとんど自己を語らないひとであり、いわゆる回想録の類も、必要最低限のものしか残していないからである。

それらの短い、形式的な回想録から、小林秀雄の全体像を作り上げることは、不可能に近いと私には、思われる。

小林秀雄自身の残したテクストだけで十分だと言う人もいるが、私は、作品がすべてではないし、作品を生み出した背景を抜きにして文学者は語れず、また、作品はその背景なしに抽象的には成立するわけではないと、考えている。

小林秀雄以来、すぐれた批評作品は、ほとんど「評伝」的要素を含んでおり、作品より作者に分析の比重が置かれていることもしばしばあるだろう。

もし、小林秀雄によってはじめて批評が確立されたとするならば、それは、小林秀雄によってはじめて「作品論」という文学主義的批評のかわりに「作家論」という存在的批評がそれにとってかわったからかもしれない。

小林秀雄について知るためには、大岡昇平の手を借りなければならないのだが、大岡昇平の過去への非常なこだわりは、富永太郎と中原中也に関しての文献的な基礎資料の収集から評伝の執筆、作品の分析にいたるまで完璧にまとめ上げたようである。

これに比して小林秀雄については、1冊の書物というかたちでは残していないのだが、「小林秀雄の世代」 という、小林秀雄のベルクソン論である「感想」に対する優れた注釈的な評論をはじめとして、数多くのエッセーを残している。

私たちが、これからも小林秀雄を知ろうとするとき、大岡昇平の書き残した回想録や、彼が収集した基礎資料は重要な意味を帯びるだろう。

江藤淳の『小林秀雄』は、大岡昇平が貸与した資料にもとづいており、大岡昇平は、「江藤淳『小林秀雄』」というエッセーのなかで、

「江藤氏にこの論文をすすめ、資料を提供したのはわたしである。(中略)
わたしは小林の無名時代の断片を偶然持っていたので、その一部を氏にまかせた。
わたし自身、いつか小林論を書くつもりであったが、ほかに仕事を持っているので、いつのことになるかわからない。
資料をいつまでも死蔵しておくのは、小林秀雄が共通の文化財産になりつつあるこんにち、公平ではないのではないか、という自責を感じることがあった。
江藤氏に使ってもらうことができ、むしろほっとした感じがあった」
と述べている。

勿論、江藤淳の『小林秀雄』は、江藤独自の分析と解釈によって成立しているのであるが、大岡昇平の資料の収集と保存がなければ、今のようなかたちとは違ったものになっていたであろう。

大岡昇平の資料の収集と保存という行為それ自体もまた、ひとつの厳然とした批評的行為たりえているように、私には、みえる。

大岡昇平という作家は、なぜこれほどまでに、青春時代の一時期の人間関係にこだわり続けたのであろうか。

冒頭にも述べたように、大岡昇平は、戦後、小林秀雄の勧めによって『俘虜記』を書き始めるのであるが、それとほぼ平行して、中原中也論と富永太郎論の執筆にとりかかっている。

たとえば、大岡昇平の『疎開日記』の昭和21年10月3日の頃に、

「中原中也論ノートを書いている。(中略)散文はつまらない。
現代では興味があるのは詩だけだ。
だから詩人だけを考える。
富永太郎論七十枚。中原中也論百五十枚」
という記録がある。

以後、大岡昇平の『疎開日記』には、富永太郎と中原中也の名がたびたび登場し、富永太郎論と中原中也論の執筆や、その資料収集が、大岡昇平にとって、やがて作家大岡昇平のデビュー作となり、また代表作ともなる『俘虜記』に勝るとも劣らないような重大な価値を有する仕事であったことがわかるのである。

大岡昇平は、一種のライフワークとでもいえるようなかたちで、 これらの詩人論を執筆しており、『疎開日記』には、

「フィリピンで立哨中、雨の野をながめながら、僕は十七歳の頃の感情を思い出し、いかにそれに逆らって生きてきたかを知った。
これが僕の底ならば、まずそこを耕すことから始めねばならぬ」
という一節が在る。

大岡昇平が小林秀雄と知り合ったのは、19歳のときであり、大岡昇平が「17歳の頃の感傷に逆らって生きてきた」というのは、小林秀雄と知り合って以降のいわば、批評的な時代の生き方を指しており、言い換えれば、小林秀雄的批評への訣別が自覚されているということができるのかもしれない。

大岡昇平は、このとき、はじめて批評的な思考から解放され、ここに、大岡昇平の「資料」や「人間関係」へのこだわりが始まるといってよいのかもしれない。

戦後、復員すると同時に、中原中也や富永太郎に関する資料の収集や調査が、精力的に進められたのだが、大岡昇平を非常なまでに資料の発掘に駆り立てたのは、批評への反抗であったようにも思われる。

「資料」や「人間関係」という、極めて即物的で、非文学的な事実に固執する大岡昇平の構えは、明らかに小林秀雄に始まる「批評的なもの」への批判の構えであったように見える。

そして、それは、批評家大岡昇平との訣別の意味をも含んでいたのだろう。

大岡昇平の『中原中也』のなかの、まるで裁判記録のような事実関係への執着と、資料収集への大岡昇平の熱意、そして、事実や資料への熱意とは真逆に、その分析や解釈に対する無関心ぶりには驚かざるを得ない。

大岡昇平の内部では、分析や解釈にが価値を有していないかのように見える。

ここには、批評への絶望が隠されているように思われる。

大岡昇平は、ある時点できっぱりと、批評することを断念し、現実を尊重するという道を選んだようである。

大岡昇平の資料の収集と資料の提示だけで十分だとするような姿勢には、「解釈や意味に対する絶望」と「現実や生活に対する深い信頼」があるように思われる。

批評とは分析であり、分析の限りを尽くして、もはやそれ以上分割不可能なものを見出すことではないだろうか。

たとえ、究極的には、その最終的な分析不可能なものが、もはや1個の無であったとしても、その分析の道を進まないかぎり、批評に到達することはできないだろう。

小林秀雄もまた、どれだけ分析的な認識にかえて、直感的、経験的な認識を主張したとしても、まずやらなければならなかったことは、分析することであり、反省することであったのかもしれない。

これに対して、大岡昇平は、ある時点から、分析や反省という行為に対して、ある決定的な訣別を行っているようである。

無論、大岡昇平は、分析や解釈という反省的な思考を完全に放棄したわけではなく、大岡昇平の分析や解釈は、『俘虜記』や『野火』にみられるように、あまりにも過剰とさえいえるだろう。

しかし、それらは、あくまでも分析や解釈の向こうにある現実や生活を浮かび上がらせる手段でしかないのであろう。

大岡昇平の内部で、現実の生活に対する素朴な、そして強固な信頼が生まれてきた。

それは、分析や解釈という理論的作業によっては、決して汲み尽くせない現実の多様性への信頼であろう。

それは、いつ、どこで獲得されたのかについては、次回に考えてみたいと思う。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

大岡昇平が『野火』のなかでベルクソンに言及した理由-大岡昇平と小林秀雄とベルクソン哲学①-

2024-10-21 07:25:07 | 日記
大岡昇平の作品には、小林秀雄という孤独な魂に対する共感と批判を内包しているものが多いように、私には、思われる。

また、これは、河村徹太郎や中村光夫といった小林秀雄周辺の批評家たちと決定的に違うところにも、思われる。

大岡昇平と小林秀雄に共通する問題意識とは、思考の原理性、つまり理論の徹底性ではないだろうか。

大岡昇平は、小林秀雄のもっとも良き理解者であると同時に、もっとも手強い小林秀雄批判者でもあったのだろう。

大岡昇平の小林秀雄批判は徹底しており、それは、もっとも根本的な地平でなされたようである。

たとえば、大岡昇平は、小林秀雄がベルクソン論である「感想」を連載するとすぐに、「小林秀雄の世代」と題する小林秀雄の「感想」に対する論考を発表しているのだが、小林秀雄の「感想」対して確りとした論評を加えた人は、大岡昇平だけであったのではないだろうか。

言い換えれば、小林秀雄について語る人は多いが、小林秀雄が「感想」で提出したような問題を、正当に受け止めた人は(→小林秀雄の持っている原理的な思考に対する関心が、大岡昇平以外の人には欠如しているため)、大岡昇平以外にはいないのではないだろうか。

大岡昇平は、小林秀雄の世代の特質について『小林秀雄の世代』のなかで、

「哲学は現在不思議に流行らなくなった学問である」
と述べた上で、
「しかし小林秀雄の世代は、相対性理論についても日本の科学者の間で一致せず、哲学が科学を『批判』すると信じられていた時代に、成年に達している。
『哲学概論』が高等学校の必修科目であり、タレスから新カント派に到る哲学史を新カント派の立場から記述して、諸学問の上に君臨していたのである。
岩波の『哲学叢書』が今日の修養書のように売れていた。
デカルト、カント、ヘーゲル等の名が、たとえわからなくても、わかろうとしなければならない本として、本屋や図書館の書棚から、少年を見下ろしていた。
私は前から西田幾多郎を除いて、プロレタリヤ文学以前の日本文学を論じる不備を感じていた。
『善の研究』と倉田百三『出家とその弟子』のように直接の系統は常に辿れないとしても、小林の論文が「人生斫断家ランボオ」以来備えていた思弁的構造は、大正の哲学的雰囲気をなしには説明できないと思われる」
と述べ、
「最近小林の批評の先駆として、佐藤春夫をあげる説が出ているが、そこには根本的に態度の相違があると思う」
と述べている。

小林秀雄に関して、このような問題を提起した人は、大岡昇平だけではないだろうか。

これは大岡昇平自身にとっても重要な意味を持っており、大岡昇平のなかに、哲学的、原理論的な志向性がすでにあったからこそ、小林秀雄のなかの、哲学的、原理論的な志向性に目をむけることができたのであろう。

少し前の回で述べたが、小林秀雄と理論物理学の密接な関係を指摘したのも、大岡昇平であったことを思い出してほしい。

大岡昇平にだけ、そのようなことが可能であった理由は、大岡昇平のなかに、小林秀雄とは無関係に、既に小林秀雄と出会う前から、哲学的、原理論的な、大岡昇平独自の志向が芽生えていたからではないだろうか。

大岡昇平の哲学的、原理論的な志向性は、大岡が『小林秀雄の世代』のなかで書いているように、小林秀雄と同年の生まれで、7歳上の従兄である大岡洋吉の影響下に始まっているようである。

大岡昇平は、
「僕の文学的青春は、昭和三年の二月、小林秀雄に会った時から」始まると言っているが、本当にそうだろうか。

大岡昇平に、詩作を「手に取るように」教えてくれた大岡洋吉と、鈴木三重吉主宰の童話雑誌『赤い鳥』に童謡を投稿することから大岡昇平ははじめているし、「漱石、龍之介、春夫、直哉、そして、カントやゲーテを洋吉さんのあとをついて歩いて」教わり、読んだ大岡少年は、小林秀雄と出会う前に、すでにこの従兄大岡洋吉の手助けにより、ある程度の文学的、思想的な主体性を確立していたのだろう。

確かに、大岡昇平にとって小林秀雄の影響は、圧倒的であったが、大岡昇平の文学的な骨格を形成したのものは、小林秀雄と出会う以前のものであったのかもしれない。

このようなところに、大岡昇平が、小林秀雄と多くの問題を共有しながらも、微妙な対立を示した原因があるのだろう。

大岡昇平は、大岡洋吉から小林秀雄への転換について、
「洋吉さんの教養は広かったが、音楽はなかった
と述べており、素朴実在論的な大岡洋吉の下を離れ、認識批判を武器にあらゆる形而上学(文学)の批判を目指していた小林秀雄の下へ走ったようである。

しかし、大岡昇平は、この転換を、本当に突きつめて考えたわけではなかったのだろう。

大岡昇平が、この問題に本当に直面したのは、フィリピンの戦場においてであったようである。

戦争という極限の体験によって、大岡昇平は、「小林秀雄的なもの」つまり「批評」に本当に直面し、その時、大岡昇平の前に現れたのは、小林秀雄と出会う前の大岡昇平の姿であったのだろう。

大岡昇平は、『野火』という、敗残兵がフィリピンの荒野を彷徨し、「人肉喰い」の場面に直面する小説のなかで、村の小さな会堂に「十字架」を発見した時のことについて、

「然し私はその十字架から目を離すことが出来なかった。(中略)十字架は私に馴染みのないものではなかった。
私は生れた時、日本の津々浦々は既にこの異国の宗教の象徴を持っていた。
私はまず好奇心からそれに近づき、次いでそのロマンチックな教義に心酔したが、その後の私の積んだ教養はどんな宗教も否定するものであり、私の青年期は『方法』によって、その少年期の迷蒙を排除することに費やされた」
と書いている。

大岡昇平は、小林秀雄を知る前に、キリスト教を信仰していた時期があり、「私の青年期は、『方法』によって、その少年期の迷蒙を排除することに費やされた」というのは、大岡昇平のなかの小林秀雄的体験を指しているのだろう。

大岡昇平は、小林秀雄を知ることによって、大岡洋吉を捨て、キリスト教を捨てた。

それは、徹底した実体論の批判であり、宗教批判であったようである。

大岡昇平とキリスト教は、必ずしも共通しているわけではないのだが、大岡昇平のなかにあっては、「小林秀雄的なもの」に対立するものとして、共通な価値を持ち、ここで「十字架」は、「小林秀雄的なもの」に対立するものの象徴といえるかもしれない。

既に、批判し尽くし、捨ててしまったはずの「十字架」から眼を離すことが出来なかったのは、大岡昇平が、ここで、小林秀雄的な批評の本質に、観念的にではなく、現実的、具体的な次元で直面したからであろう。

そして、大岡昇平は、
「少年期の思想が果たして迷蒙であったかどうか、改めて反省して見た」のである。

もしそれが、すべて未熟な感覚の混乱の結果に過ぎなかったとすれば、今更、戦場の中で、少年期の迷蒙に心を動かされることはないはずだろう。

しかし、遠くに見える「十字架」から眼を離すことができないという現実は、否定することが出来ないし、もし、この現実が、夢でも虚偽でもないとすれば、「十字架」を否定し、捨てさせた「小林秀雄的なもの」こそが誤謬ではないのか、ということになってしまわないだろうか。

大岡昇平は、続けて、

「もしこの感情が人性に何の根拠も持たないならば、私がそれを感ずるはずがない。
そういう感情を無視した、或いは避けて通った私のこれまでの生活は、必ずしも条理に反したものではなかったが、もしこの感情に少しでも根拠があるのならば、以来私のこれまでの生活は長い誤謬の連続にすぎない。
私はこの点に関し、かつて決定的に考えたことがなかったのに気がついた」
と書いている。

大岡昇平の小説は、『俘虜記』であれ、『野火』であれ、徹底して考える小説であるが、その考える対象は「小林秀雄的なもの」、つまり「批評」であったように見える。

大岡昇平は、戦場という極限の状況のなかで、批評を具体的に検証し、その本質を解明し続けたといってよいのではないだろうか。

小林秀雄と大岡昇平のあいだの微妙な差異は、ふたりのベルクソンに対する態度のなかにもあらわれている。

小林秀雄が、ベルクソン哲学を全面的に受け入れ、それを思考の原点に据えているのに対し、大岡昇平は、ベルクソン哲学に多大なる関心を示しながらも、それを全面的に受け入れているわけではないようである。

むしろ、大岡昇平は、最終的には、ベルクソン哲学と根本的に対立している。

たとえば、『野火』のなかに、

「事実を思い出すかわりに、私はこういう想起の困難もまた初めての経験ではないことを、近代の心理学で『贋の追想』と呼ばれている、平凡の場合にすぎないのを思い出した。
既知感だけあって、決して想起できないのをその特徴としているが、それは事実既知のものではないからである。
ベルクソンによれば、これら絶えず現在を記憶の中へ追い込みながら進む生命が、疲労感或いは虚脱によって、不意に前進を止める時、記憶だけ自動的に意識より先に出るために起きる現象である。
この発見はこの時私にとってあまり愉快ではなかった。
私はかねてベルクソンの明快な哲学に反感を持っていた」
と書いている。

このベルクソンの「贋の追想」については、小林秀雄も『感想』のなかで詳しく述べているが、小林秀雄のなかには、ベルクソンに対する反感はほとんどなく、小林秀雄は、ベルクソンの主張を全面的に受け入れ、それを自分自身の思想として血肉化し、その批評の原理としている。

勿論、大岡昇平もまた、長い間、ベルクソン哲学の影響下にあったようである。

大岡昇平が、ベルクソンの明快な哲学に反感を持っていたということは、言い換えれば、小林秀雄に反感を持っていたということかもしれない。

大岡昇平が、『野火』のなかベルクソンに言及したのは、「十字架」を通じて、少年期のキリスト教体験を想い起こす、すぐあと、である。

大岡昇平は、ベルクソン哲学の記憶理論によれば、大岡が、戦場で想い起こした少年期の感情も、「贋の追想」のひとつになってしまうことを知っていたようである。

もし戦場での想起を肯定するのであれば、まず、ベルクソンの記憶理論を否定しておかなければならない。

それこそが、突然、大岡昇平が、ベルクソンを持ち出した根本理由であったのだろう。

また、大岡昇平にとって、ベルクソンを論破することは、小林秀雄を論破することであったのかもしれない。

ベルクソンのいう「贋の追想」とは、今まで一度も体験したことのないことが、記憶としてよみがえるというものである。

大岡昇平が訳したベルクソンのことばによると、それは、
「絶えず現在を記憶の中へ追い込みながら進む生命が、疲労、或いは虚脱によって、不意に前進を止める時、記憶だけ自動的に意識より先に出るために起こる現象」である。

大岡昇平は、このベルクソンの考え方に反対する。

もし、ベルクソンの記憶理論を受け入れるならば、大岡が、今、戦場で、敗残兵として思考する内容は、すべて、疲労と虚脱による幻想ということになってしまうからであろう。

大岡昇平は、現在の感覚の内部にその原因を探し、そこに生きているという現実の問題から、この問題を解釈したようである。

その結果、大岡昇平が得た結論は、
「未来に繰り返す希望のない状態におかれた」とき、今、行っていることを、もういちど行いたいという繰り返しの願望が、生命のなかに、生まれるのではないか、ということだろう。

このように考えることは、大岡昇平にとって、今、戦場で考えていることは、疲労と虚脱による異常な思考ではなく、
「今生きていることを肯定する」
ことであったのてまはないだろうか。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

小林秀雄がドストエフスキーの文学的行為の意味を解釈するために用いた「物理学の革命」のモデル-『罪と罰』の構造の変化と「物」的世界像から「場」的世界像への変換-

2024-10-20 06:42:54 | 日記
柄谷行人は、マルクスが哲学ではなく、哲学者を問題にしたと言い、さらに、マルクスの文体が『ドイツ・イデオロギー』を境にして変わったと言ったようである。

柄谷行人がこのような問題意識を持つのは、柄谷行人が、小林秀雄のマルクス論の影響を受けているからかもしれない。

小林秀雄は、そのマルクスの読解において、マルクスの価値形態論を徹底化し、マルクスの理論を、単なる理論ではなく、理論それ自体、あるいはそれを指示する人、あるいはそれを研究する人をも巻き込む理論であるとみなしているようである。

小林秀雄は、『様々なる意匠』のなかで、

「商品は世界を支配するとマルクス主義は語る。
だが、マルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。
そして、この変貌は、人に商品は世を支配するという平凡な事実を忘れさせるという平凡な事実を忘れさせる力を持つものである」

小林秀雄は、マルクスの商品論を逆手にとり、マルクス主義という商品の魔力について語っている。

小林のマルクス主義批判は、いわば、マルクスの理論を使ってなされたといってよいのかもしれない。

小林秀雄のマルクス主義批判が決定的な意味を持ったのは、小林秀雄のマルクス解釈の徹底性によるのだろう。

マルクス主義者やマルクス研究者たちは、マルクスの理論を単に理論としてのみ理解し、その理論のなかに、自分自身の存在も含まれているということを忘れ、古典物理学がそうであったように、観測者が観測対象から独立した前提である、という前提を疑うことは、できなかったようである。

マルクスの商品論も理論であり、理論と実践の弁証的統一なる言葉も理論であったのだが、マルクス自身にとっては、それは単なる理論ではなかったようである。

小林秀雄のマルクス解釈は、現在でも十二分に読む価値があるものであるのは、小林秀雄自身の思考の徹底性の結果であり、さらに、マルクスのテクストがこれに耐えうるだけの深さと広がりを持っていたからであろう。

このように、小林秀雄は、徹底して考える人であったのだが、やはり小林秀雄の思考の基礎的な部分に物理学があり、私たちは、小林秀雄を読むときに、この小林秀雄と物理学の関係を避けて通ることは出来ないように思われる。

戦後の小林秀雄は、昭和23年の湯川秀樹との対談「人間の進歩について」をはじめとして、昭和40年の岡潔との対談「人間の建設」、およびベルクソン論である「感想」などにおいて、物理学について直接的に、しかも具体的に語っているが、戦前の小林秀雄は、物理学について、直接的にはほとんど語っていない。

むしろ戦前の小林秀雄の言説のなかからは、物理学の影を読み取ることさえ容易ではない。

しかし、小林秀雄は、戦前から物理学に興味を持ち、徹底的に研究していた。

小林秀雄と理論物理学のつながりは、「様々なる意匠」による文壇デビュー以前の、アインシュタインの来日まで遡るようである。

小林秀雄が文壇へデビューする以前からの年下の友人である大岡昇平は、『小林秀雄の世代』というエッセイのなかで、小林秀雄と物理学の関係について

「彼がエディントン『物的世界の本質』を読んだのは昭和7年だったらしい。
霧ヶ峰では小林はマイケルソン=モーレーの実験や「フィッツジェラルドの短縮」から、どういう風に相対性原理が出て来たか講義してくれた。
熱力学の第二法則とエントロピーの増大の話を聞いたのもその時である。

小林にはエントロピーの増大という事実は、エネルギー恒存の法則を破るものと映り、宇宙の死を意味したらしい。
これは『現代文学の不安』に窺われるが、霧ヶ峰の薄暗い山小屋で講義する小林の真剣な顔を、私は思い出すことが出来る」
と、興味深いエピソードを伝えている。

大岡昇平は、昭和10年、小林秀雄と霧ヶ峰で一夏を過ごしたが、そこでの話題はもっぱら理論物理学のことであったようである。

このとき、小林秀雄は33歳であり、文芸評論家として文壇にデビューしてから、すでに6年が過ぎていた。

小林秀雄にとって、物理学という問題は、単なる一時的な気まぐれの対象であったはずはなく、また、小林はこうした物理学への関心を、戦後まで一貫して持続しており、小林秀雄自身は明言していないが、小林秀雄にとって、物理学という問題が、本質的な問題を持っていたことがうかがえるように思われる。

昭和10年といえば、小林秀雄が雑誌「文学界」を創刊し、その編集責任者となった年である。

そして同誌に『ドストエフスキイの生活』を連載した年である。

小林秀雄は、昭和4年に、『様々なる意匠』で文壇にデビューしており、昭和10年は、小林秀雄の初期の文芸時評的仕事が一応の完成を見せた頃であり、中期の小林秀雄の出発の頃ということになり、小林秀雄が文芸評論という仕事に全力投球している時期であろう。

この頃、小林秀雄が『ドストエフスキイの生活』という、極めて重要な仕事を始めながら、理論物理学に非常な関心を持っていたということは、小林秀雄にとって理論物理学の問題が、ドストエフスキーの問題と同じくらい、もしかすると、それ以上に重要であったことを意味してはいないだろうか。

大岡昇平は、霧ヶ峰で小林秀雄から理論物理学の講義を受けた翌年の昭和11年のことについて、『昭和十年前後』のなかで、

「その翌年から私は鎌倉の小林の家の近所へ下宿して、毎日のように交際ったのだが、どうも文学の話をした記憶はあまりない。
物理学やベルクソンの話ばかり記憶に残っている。
後で「文学界」の同人になった佐藤信衛と三人で、鎌倉の裏山を散歩し、佐藤から物理学者としてのデカルトの講義を聞いたこともある」
と書いている。

佐藤信衛は、小林秀雄の勧誘で「文学界」の同人となった人であり、『近代科学』(昭和12年)という、デカルトから量子力学までの物理学の発展と革命をわかりやすく書いた本の著者である。

小林秀雄という文芸評論家が、昭和10年前後、理論物理学に非常な関心を示していたことは興味深い事実ではないだろうか。

小林秀雄が理論物理学に非常な関心を持ったのは、小林秀雄が「物理学の革命」のなかに、小林秀雄自身が体験してきた文学革命と同じものを見出したからであり、さらに小林秀雄がおぼろげにしか対象化出来なかった革命のドラマを、理論物理学は、より具体的に、より客観的に、またより徹底的に究明しつつあったからではないだろうか。

また、小林秀雄は、物理学の研究を通じて「科学とは何か」という問題を追及したのだろう。

小林秀雄は、マルクス主義という「科学」と対決するために、物理学を通じて科学の本質に触れることを必要としたようである。

ただし、小林秀雄は、物理学的知見を、文学や批評の世界に導入してはおらず、ましてや、物理学を上に置き、文学を下に置いて、物理学という高い場所から、文学を啓蒙しようなどとしていないことは重要であるように思われる。

小林秀雄は、物理学の問題は、物理学の問題として語っている。

たとえば、文学や芸術と物理学を対比して語るときでも、決して価値の優劣を前提にして語っておらず、その類似性や共通性を語るだけである。

戦前の小林秀雄のテクストのなかには、物理学の問題は、ほとんど出てこないのだが、小林秀雄が科学や物理学について、ひそかに独自の思考をめぐらせていたようである。

たとえば、昭和7年発表の「現代文学の不安」のなかに、
「エントロピーの極大はわが身の死に等しく明瞭だ」とか、
「あらゆる原子の足元はふらつき、時空の純粋な概念も全くその意味を失ってしまった。
われわれ素人が垣間見たたけでも、これら科学の高級理論は夢に酷似している」
といった、相対性理論や量子物理学の知見が書きとめられている。

昭和10年から11年にかけて書かれた『「地下室の手記」と「永遠の良人」』と題するドストエフスキー論のなかに、

「ファラデー、マックスウェルの天才以来、実体的な『物』に代わって、機械的な『電磁場的』が物理的世界像の根底を成すに至ったのは周知の事だが、この物理学者等の認識に何等神秘的なものが含まれてはいない様に、ドストエフスキーが、人間のあらゆる実体的属性を仮構されたものとして扱い、主客物心の対立の消えた生活の「場」の中心に、新しい人間像を立てたことに、何等空想的なものはないのである」
と述べている。

小林秀雄が、このようなむき出しの形で、物理学に言及したことは極めてめずらしいように思われる。

小林秀雄は、物理学の知見を持ちだせば、読者を説得することが容易であることを知り抜いていたからこそ、文学解釈において、物理的知見を使うことを避けたかったのかもしれない。

しかし、小林秀雄は、ドストエフスキー論で、もう一度「物理学の革命」のモデルを使って、ドストエフスキーの文学的行為の意味を解釈しようとしているのである。

小林秀雄は、『罪と罰』という小説の構造の変化について、『「罪と罰」について』のなかで、

「ここに現れた近代小説に於ける実体的な『物』を基礎とした従来の世界像が、電磁的な『場』の発見によって覆ったにも比すべき案件であった」
と述べている。

小林秀雄が、ドストエフスキーを論じながら、2度も、「物理学の革命」のモデルを使っているのという事実は重要なことだと、私には、思われる。

また、小林秀雄の批評作品に占めるドストエフスキーの比重は、極めて大きいが、その大きさが、ある意味では、小林秀雄における理論物理学の問題の大きさと対応しているようにも、思われるのである。

小林秀雄は、ドストエフスキーを論じながら、「物理学の革命」を「物」的世界像から、「場」的世界像への変換としてとらえており、これは、小林秀雄が、20世紀の「物理学の革命」を正確に、また深く理解し、考察していることを示すものではないだろうか。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

小林秀雄以外に、ある経済学者の先生がオススメして下さった本を読みはじめてからも、
「あっ、私、落ちこぼれだったけれど、商学部にいたなあ😅」
と最近は、なんだか思い出しています😊

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

*ちなみにこの本です😊→→→