おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

柄谷行人が「価値形態論」のなかに見出したもの-経済学を超えた基礎論的な問いを問うた『資本論』が直面した「基礎の不在」から-

2024-10-19 07:07:23 | 日記
柄谷行人がいうように、マルクスの「資本論」は、カントール、あるいはゲーデルの「数学基礎論」、フロイトの「心理学批判」、ソシュールの「言語学批判」と通底する基礎論的な問いの書であり、マルクスの『資本論』は経済学の書というよりは、そのサブタイトルが示すように、あくまでも「経済学批判」の書であるように、私には、思われる。

柄谷行人は、様々な分野の思想家が、その学問的、思想的な探求の頂点で、基礎論的な問いのなかに在る、同じひとつの問題、にぶつかることを、『隠喩としての建築』のなかで、

「それ(→原理論的な思考)は、ゲーデルの定理を他の領域に翻訳することであるよりも、逆にゲーデルの定理こそ、本来数学とは無縁な問題、すなわち、『言語は言語についての言語である』という自己言及性の問題が数字のレベルであらわれたのである。
ゲーデルの定理が形先体系一般に当てはまるとすれば、それは『形式化』が数学そのものとはべつのところからきているからだ。
そして、19世紀後半にはじまる数学基礎論(カントール)は、経済学(マルクス)、心理学(フロイト)、言語学(ソシュール)などの領域における基礎論的な問いと通底するのである」
と表現している。

原理論的な思考を押し進めていくと、最終的には、その思想や学問の基礎的な部分に辿り着くのだが、その基礎的部分は、実は、その思想や学問独自の基礎であることは出来ず、あらゆる人間の思考一般が依拠している基礎である他はないようである。

その基礎論の場所はもはや、数学、経済学、心理学、言語学といった学問的枠組みが通用しない場所であり、数学も経済学も心理学も言語学も、また文学や文芸評論も、柄谷行人のいう「基礎の不在」という現実に直面するのであろう。

もはやそこでは、「科学的」とか「論理的」とか、あるいは「数学的」とかいったことばは、いかなる説得力も持たず、そこでは、文学も数学も科学も等価で、同じように基礎の不在に直面しているのだろう。

たとえば、マルクスが、『資本論』のなかで、

「価値形態、その完成した姿である貨幣形態は、はなはだ無内容かつ単純である。
にもかかわらず人間の頭脳は、二千年以上も前からこれを解明しようとつとめてきてはたさず、しかも他方、これよりはるかに内容ゆたかで複雑な形態の分析には、少なくともほぼ成功している。
なぜだろう?
成体は、体細胞よりも研究しやすいからである。
しかも、経済的形態の分析においては、顕微鏡も、化学試薬も、役に立たない。
抽象力が両者に変わらなければならない」
と述べるとき、価値形態の分析が、あらゆる学問的、思想的、芸術的思考が直面する基礎論的な問いのなかで、「基礎の不在」に直面するため、価値形態の分析には、顕微鏡も化学試薬も役に立たない、と表現しているのではないだろうか。

「商品」の分析から始まるマルクスの『資本論』は単に経済学の書では在りえず、経済学という入口から入りながらも、経済学を超えた基礎論的な問いを問うた書であるように、私には、思われる。

柄谷行人は、マルクスをマルクスたらしめているのは、この「価値形態論」の部分であり、しかも、この「価値形態論」の部分を除いたら、マルクスは、古典経済学や、ヘーゲルの、単なるいち亜流に過ぎないという。

柄谷行人によれば、マルクス主義者やマルクス研究者たちは、ほとんど、この「価値形態論」を問題にすらしてこなかったのだが、それは「マルクス主義」という形而上学にとって必要不可欠なものどころか、不要だったからだとも、いう。

しかし、柄谷行人は、ここにこそマルクスが、ヘーゲルや古典経済学と異なる根拠を見出し、この「価値形態論」のなかに、現代的なあらゆる思考が直面している、もっとも原理的な、基礎論的な問題を見出したのであろう。

マルクスの価値形態論とは、単なる価値の問題ではなく、人間の思考の本質そのものとして重要なのではないだろうか。

たとえば、マルクスが批判した古典経済学では、使用価値と交換価値を区別する。

つまり、商品にはそれぞれ内在的な価値があり、それが貨幣によって交換されるのだが、そこに交換価値が発生するため、商品は、使用価値と交換価値の二重性によって存在しており、貨幣が共通の普遍的な尺度として機能する。

言い換えれば、貨幣は単なる手段にすぎず、それは商品の価値の表示であるに過ぎないのである。

古典経済学は、商品の価値は、その商品に費やされた労働時間である、という労働時間説によって、貨幣を二次的なものとみなした。

つまり、ここには、交換に先立って、商品の価値が存在するという、いわゆる実体論的な思考が前提とされているようである。

これに対して、マルクスが価値形態論で明らかにするのは、交換に先立って価値が存在するという考え方ではなく、交換されることにより、その結果として価値が生み出されるという考え方である。

ここには、超越論的な価値(意味)の否定があり、実体論的な思考が否定されているのだが、マルクスは、それを明確に、体系的に語っているわけではない。

マルクスの思考にも、様々な試行錯誤があり、混乱があるようである。

マルクスは、『資本論』のなかでも、しばしば古典経済学的な思考にとらわれているようであり、たとえば、剰余価値を論じるときに、マルクスは、古典経済学的な労働時間説を採っているし、またふたつの相異なる商品が等価であるためには、なにか「共通の本質」がなければならないし、そしてそれは、商品に対象化された人間的労働だと言っているのだが、これは、価値や意味を実体化した考え方であろう。

しかし、マルクスはここにとどまっているのではないようである。

柄谷行人は、このことについて、『マルクスその可能性の中心』のなかで、

「彼は、等価の秘密を諸商品の『同一性』に還元する。
しかし、そのような同一性は貨幣によって出現するのだ。
貨幣形態こそ、価値形態をおおいかくす。
したがって、貨幣形態の起源を問うとき、マルクスは、もはや『等価』や『共通の本質』という考えを切りすてている。
それらこそ、価値形態の隠蔽においてあらわれるのだからである」
と述べているが、ここに柄谷行人のマルクス論の核心が、あるように、私には、思われるのである。

やはり、柄谷行人がいうように、マルクスの「資本論」は、カントール、あるいはゲーデルの「数学基礎論」、フロイトの「心理学批判」、ソシュールの「言語学批判」と通底する基礎論的な問いの書であり、マルクスの『資本論』は経済学の書というよりは、そのサブタイトルが示すように、あくまでも「経済学批判」の書であるように、私には、思われるのだが、柄谷行人が『マルクスその可能性の中心』以降、絶えずマルクスを引用し、マルクスを問うのは、マルクスのなかに、原理論的な思考を見出しているからであり、また、マルクスのテクストが基礎論的な問いを内包しているからであろう。

柄谷行人は、マルクスを問うことによって、経済学や哲学の問題を問うているのではなく、あるひとつの基礎論的な問いを問うているのだといえるのかもしれない。

柄谷行人にとって、価値形態論の解釈の他に、マルクスの文体についても問題にしており、これは、いわゆるマルクス主義者やマルクス研究者たちとの分岐点となり、柄谷行人のマルクス論が、小林秀雄のそれに急接近する点ともなっているようである。

柄谷行人は、『マルクスその可能性の中心』のなかで、マルクスの文体について、

「マルクスの文体が著しく変わるのは、『ドイツ・イデオロギー』以後である。
そして、思想家が変わるとは文体が変わるということにほかならない。
理論的内容が変わっても文体が変わらなければ、彼は少しも変わっていない。
ヘーゲルから切れることは、さしあたりヘーゲル的ターミノロジーから切れることである」
と述べている。

文体は、理論や思想と切り離すことは出来ず、文体は文体だけで存在できず、理論や思想もそれだけでは存在することはできないだろう。

マルクス自身も『ドイツ・イデオロギー』において、ドイツの古典哲学の文体を問題にし、それ以降、ドイツ哲学の文体から離れたようである。

それは、ドイツ哲学、主にヘーゲル哲学から離れることでもあるのだが、それは単に、理論的な内容のレベルにおいて達成できることではなく、別の困難を含んでいるのだろう。

そこで、マルクスは、ドイツ哲学の内容を問題にするのではなく、ドイツの哲学者たちを問題にした。

このことについて、柄谷行人は、『マルクスその可能性の中心』のなかで、

「しかし、『ドイツ・イデオロギー』におけるマルクスは、むしろ『真理への意志』そのものを解釈しようとしている。
彼が問題にするのは、哲学というよりも哲学者という存在だ。
『真理への意志』は、哲学者という存在(階級)と切りはなすことが出来ないからである。
ニーチェが言ったように、ある言説で『何が語られているか』ではなく、『誰が語っているか』が問題なのだ。
いうまでもなく哲学者が語っている。
しかし、これまで『哲学者』という存在は誰も問題にしなかった。
真理や本質のなかに、哲学者は身をくらましてきたのである」
と述べている。

柄谷行人は、ニーチェに続いてマルクスも、哲学ではなく、哲学者を問題にしたという、重要な指摘をしている。

マルクスが価値形態論で明らかにしたことは、古典物理学がそうであったように「観測するもの」が「観測されるもの」から切り離され、メタ・レベルに特権化されていたということと、「逆のこと」なのではないだろうか。

価値は交換に先立って実在するものではなく、交換という実践のなかで、事後的に発生するものであろう。

古典経済学において自明の物とみなされている価値、つまり、相異なる商品に内在する超越論的な価値は、貨幣形態によって与えられるものにすぎない。

貨幣は価値を代弁するのではなく、貨幣が価値を産み出すのである。

いわば、古典経済学が理想とする等価交換は、何の実在的根拠をも持っていないといえるのかもしれない。

貨幣による交換により、相異なる商品の差異が消去され、価値=概念=意味として同一化され、その結果として、人々は、交換は、同一の価値を有する商品と商品とが交換されると錯覚するようになるのだろう。

マルクスが『資本論』の価値形態論で明らかにしようとしたのは、この錯覚であったが、この錯覚は単に経済学の問題にとどまるものではないのだろう。

この問題は、言語学、物理学、数学といった、あらゆる学問領域に通底する問題ではないだろうか。

柄谷行人は、それを「基礎の不在」とか、「自己言及のパラドックス」あるいは「外部」といったことばで表現し、その根底にある問題を明確化しようとしているのであろう。

しかし、それは、理論や思想として語れるものではなく、それが理論や思想として流通したとき、問題の本質は、見失われてしまうのではないだろうか。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

見出し画像は、最近読み始めた本です😊

興味深い本で、私は、かつて落ちこぼれながら😅商学部にいたことを、なんだか思い出しました😊

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

物理学における「パラダイムの転換」という事実を通して、マルクスにおける「パラダイムの転換」を読んだ小林秀雄-小林秀雄と理論物理学について②-

2024-10-18 06:56:10 | 日記
小林秀雄という文芸評論家が、理論物理学に熱中していたという事実を知ったとき、非常に驚いたことを、私は、いまだに覚えている。

小林秀雄が、ランボーやドストエフスキーに熱中することは自然であり、モーツァルトやセザンヌやゴッホに熱中することも理解できるように思うが、理論物理学に熱中していたということは、なかなか理解の出来ないことのように思われたのである。

なぜ、理論物理学なのか。

何が、小林秀雄と理論物理学を結びつけたのか。

小林秀雄にとって理論物理学とは、どのような意味を持っていたのであろうか。

これらの問題を考えるとき、小林秀雄の著作から一貫して流れる「主調低音」のなかに、小林秀雄における「知的クーデター」とでも呼ぶべき、思考様式の革命という問題が、聞こえてくる。

小林秀雄は、文学の世界で小説のパラダイムから、批評のパラダイムへのパラダイムチェンジを生きた人であり、このパラダイムチェンジは、理論物理学の世界における「古典物理学」のパラダイムから、「相対論」や「量子論」のパラダイムへの変換とほぼ並行するものだろう。

小林秀雄の批評は、アインシュタインの「相対性理論」の出現と、ハイゼンベルグたちの「量子物理学」の出現とに代表される、かつてない大きな20世紀の「科学革命」という歴史的状況の中から生まれてきたものであるように、私には、思われる。

したがって、「批評家小林秀雄」の誕生という、近代日本文学史上の大きな出来事もまた、文学の内部ではもちろん、外部で起こった出来事のようにも、思われるのである。

小林秀雄は、物理学という先端の科学を知りながらも、敢えて、科学かぶれの科学主義者としては振る舞わなかったので、小林の批評はわかりにくい点がある、と、言われてしまうのかもしれない。

小林秀雄が量子物理学に興味を持つに至っだ理由は、アインシュタインにみられるような、理論物理学における「矛盾」をも恐れない過激な思考力の展開のためではないだろうか。

つまり、その学問の成立根拠を否定し、解体することをも恐れない「物理学」における革命的な情熱に対して、小林秀雄は、心動かされたのではないだろうか。

アインシュタインをはじめとして、一連の「物理学の革命」の推進者たちは、単に科学的だったわけでも、科学主義的だったわけでもなく、ただ徹底して考える人であり、小林はそこに興味を持ったのではないだろうか。

小林秀雄は、よく、非合理主義者であり、反科学的な思索家と思われることがあるが、それは、「科学主義」的でなかったことが影響しているのであろう。

だからこそ、「批評家小林秀雄」誕生のドラマが、20世紀初頭の「物理学の革命」のドラマと密接な関わりがあるとは、思われず、小林秀雄と理論物理学という問題は、あまり問題にされていないようである。

しかし、実際にこれは極めて重要な決定的な意味を持つ問題であったのである。

小林秀雄という批評家の思考様式は、「物理学の革命」が在ることを抜きにして、解明することは出来ないだろう。

たとえば、小林秀雄は数学者岡潔との対談である『人間の建設』のなかで、執拗に理論物理学に言及しているのだが、小林は、
「新式の唯物論哲学などといものは寝言かもしれないが、科学の世界では、なんとも言いようのないような物質理論上の変化が起こっているらしい」
と述べている。

つまり、小林秀雄は、「物理学の革命」の問題を「物質理論上の変化」として、正当に、しかも原理的に受け止めているのである。

小林秀雄の思考スタイルに決定的な影響を与えたものは、物理学における
「なんとも言いようのないような物質理論上の変化」であったのではないだろうか。

つまり、近代物理学(ニュートン的古典物理学)から現代物理学(相対性理論、量子力学)への変換がもたらした物質観、存在観の変容という「物理学の革命」の問題が、小林秀雄の力強く、断定的な批評を可能にしたのではないだろうか。

小林秀雄の自信に満ちたマルクス主義批判を可能にしたのも、この「物理学の革命」に対する意識であろう。

「物理学の革命」という見地から見れば、新式の唯物論哲学も、古くさい古典物理学に依拠した「科学主義」にしか見えなかったのであろう。

したがって、小林秀雄は、マルクスを巧みに利用はしたが、マルクスの理論を基にして、その批判理論を確立したわけではない。

小林秀雄がマルクスを巧みに利用したのは、マルクス主義やマルクス主義的文学運動を批判するための必要からであったようである。

小林秀雄は、マルクス主義やマルクス主義的文学運動は批判しているが、マルクスおよびマルクスの思想そのものを批判はしていない。

逆に、マルクスの思想は「正しい」と言い切っている。

たとえば、大学時代の小林秀雄について、中島健蔵は、小林秀雄全集の付録におさめられたエッセイである『バラック時代の断片』のなかで、

「三年のころには、小林秀雄とも時々話をするようになったが、彼の態度ははっきりしていた。
左翼思想について、こちらが割り切ることができず、もたもたしていると、彼は、こんなことをいった。
『マルクスは正しい。
しかし、正しいというだけのことだ。
それはなんでもないことだ。』
わたくしには、小林の言葉の意味がよくわからなかった。
大ていの芸術派は、マルクスを否定していたが、小林は、あっさりと、『マルクスは正しい』という」
と述べている。

小林秀雄にとって、マルクスの提起した問題は、ある意味では、既に解決済みの問題であったようである。

つまり、小林秀雄は、既に、「物理学の革命」という問題、つまり、新しい物質理論であり、科学理論に影響を受けていたようなのである。

たとえば、小林秀雄は『アシルと亀の子』のなかで、マルクスの思想を要約して、

「マルクスの分析によって克服されたものは経済学に於ける物自体概念であると言える。
与えられた商品という物は、社会関係を鮮明にする事に依って、正当に経済学上の意味を獲得した。
商品という物の実体概念を機能概念に還元する事に依って、社会の運動の上に浮遊する商品の裸形が鮮明された」
と言っている。

この「実体概念」から「機能概念」への転換は、実は「物理学の革命」においても起こったことである。

つまり、「物」を中心とする古典物理学が「場」を中心とする相対性理論や量子論によって克服されてゆく物理学の革命という事実から、小林秀雄は、この転換を学んだのであろう。

吉本隆明や柄谷行人たちにより、マルクスの読み方においては、マルクス主義者たちよりもむしろ小林秀雄の方が正しい読み方をしていた、と言われているが、それは、小林秀雄が物理学における「パラダイムの転換」という事実を通じて、マルクスにおける「パラダイムの転換」を読むことが出来たからではないだろうか。

「マルクスは正しい」と言いきれる小林秀雄は、マルクス的認識の一歩先を歩んでいたようである。

マルクス主義の崩壊は、直接的には、権力の弾圧によって起こったが、それだけではなく、マルクス主義が、科学を自称しながらも、十分に科学的ではなかったから、崩壊したのかもしれない。

また、ロシア・マルクス主義的な唯物論にあっては、長い間、アインシュタインの相対性理論は、科学理論として認められていなかったようである。

それは、アインシュタインの理論が、マッハ哲学の影響下に誕生したためであろう。

レーニンが『唯物論と経験批判論』でマッハを徹底的に批判しているという時代背景からもわかるように、マルクス主義者たちは、マッハ哲学を認めないのと同時に、アインシュタインの「相対性理論」をも認めようとしなかったのである。

マルクス主義が、20世紀の科学革命を無視した上で、「科学」ではなく、単なるイデオロギーであることが明らかになったとき、マルクス主義の力は急速に衰弱したのだろう。

小林秀雄は、湯川秀樹との対談『人間の進歩について』のなかで、

「二十世紀の科学の大革命が一般思想の上に大きな影響を与えたという事は承知していますが、何しろ事がいかにも専門的なものでね」
と述べた上で、
「ブルジョア文学者は偶然論がどうのこうのと愚にもつかぬ文章を書いていた。
左翼文学者は、政治にばかり目を奪われて一向科学なんかに好奇心を持たぬ。
古くさい唯物論をかかえて最近の科学の進歩はブルジョア的であるなどと言っておりました」
と述べている。

日本のマルクス主義者たちも、科学に興味を持っていたし、また科学的であることをその思想や文学の根本においておさえていた。

しかし、マルクス主義者たちが、マルクス主義という「科学」に固執していたのに対し、小林秀雄は、「科学そのもの」に直接、接近していったのである。

小林秀雄は、自然科学、とりわけ物理学が絶対的に、客観的な真理を体現しているとは思ってはいなかったようである。

小林は、むしろ、物理学がいかに基礎論という部分では、不安定な、相対的なものでしかないか、という点に目を向けていたように私には、思われる。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

小林秀雄がいう「本物の思想家ならどんな思想家にもあるもの」としての「矛盾」-小林秀雄と理論物理学について①-

2024-10-17 07:04:22 | 日記
小林秀雄のデカルト解釈は、そのまま、小林秀雄自身の思考のスタイルについても当てはまるように、私には、思われる。

小林秀雄は、デカルトについて『常識について』のなかで、

「合理主義者デカルトという言葉は、実に怪しげな、というより万事につけ高をくくりたがる人々の好む嫌な言葉です。
彼は、出来るかぎり合理的に考え、合理的に生きようと努めた人であったが、これは、彼が合理主義者であったことを意味しはしない」
と述べているのだが、小林秀雄もまた、「出来るかぎり合理的に考え、合理的に生きようと努めた人」であったのではないだろうか。

それが、結果的に、世間ら、合理主義と呼ばれようと、非合理主義と呼ばれようと、問題ではなかったのかもしれない。

私たちは、しばしば、矛盾に直面しない思考が合理的思考であり、矛盾をはらむ思考は非合理的思考である、と思い込んでいるが、これは逆であろう。

例えば、ポアンカレは、今日の記号論理学の基礎を築いたラッセルが、カントールに始まる集合論のなかに、自己自身を含む集合のパラドックス、いわゆる「ラッセルのパラドックス」を見出したとき、(→ポアンカレ自身はしばしば数量論理学の非生産性を攻撃していたにも関わらず、)
「もはや、それは非生産的なものではない、ちゃんと矛盾があるではないか!」
と大喜びで叫んだといわれている。

「ラッセルのパラドックス」の出現に、フレーゲが「代数はぐらついているのだ」と、途方に暮れたのに対して、ポアンカレは、大喜びで矛盾の発見を讃えたのだが、それは、矛盾の発見が論理学に新しい地平をもたらすであろうことを確信したからではないだろうか。

これまで、「非合理主義者」、「独断家」と言われることも少なくなかった小林秀雄だが、文学や思想の世界において、小林秀雄は、極めて合理的な思索家であり、さらにいえば、過激なまでの合理主義者でさえあるように、私には思われる。

また、合理主義者としての小林秀雄の思考の問題を考えるとき、小林秀雄が、非合理主義者または独断家と言われるのは、小林秀雄の合理主義が、いわゆる合理主義という世界的地平を容易に突破するような、ラディカルな合理主義であるからであるように思われる。

さらに、真の合理主義は、合理主義というイデオロギーに安住することは出来ないし、真の合理精神は、合理主義をもひとつの非合理主義として断罪するにいたるのではないか、と思われるのである。

無論、小林秀雄が、合理的な思索家であることは、小林秀雄の思考に矛盾がないということではないし、小林秀雄ほど矛盾に満ちた文学者もあまりいないであろうが、それは、小林秀雄が合理的でなかったから抱え込んだ矛盾ではなく、小林が、矛盾に逢着することも恐れぬほどの合理主義者であったからこそ逢着した矛盾であろう。

小林秀雄は合理主義に甘んじるにはあまりにも苛烈な合理的精神の所有者だったのかもしれない。

合理主義者とは、合理主義という思考のパラダイム、言い換えれば、思考の歴史的制度から抜け出せない人のことを指すのかもしれない。

思考の合理性は、ときに、思考の合理的体系を突破し、解体せしめるように機能するのだろう。

矛盾に直面しない思考が合理的なのではなく、徹底して合理的な思考は矛盾を避けられないことを考えると、小林秀雄が本居宣長について、江藤淳との対話『歴史について』のなかで、

「言うことが矛盾しなければならんように、その人は、それだけ深く考えていたということだってある。
もう少し手前で考えを止めれば、なにも矛盾しなくてもよかった。
そういうことだってある。
考え詰めると矛盾が起こる、そういう構造が頭脳にある、そう考えたっていい。
宣長は、自分で知っていてやったんですよ。
馬鹿だから矛盾したわけじゃない。
あの人は、非常に明瞭な露骨な形で、矛盾を表したけれども、これは本物の思想家ならどんな思想家にもあるものなんです」
と述べていることが、実に興味深く思われる。

ここで、小林秀雄は、「矛盾」を肯定的に把握しているようであり、また小林秀雄の特異性は、この「矛盾」の考え方の特異性にあるようである。

しかし、小林秀雄がここで語っていることは、さほど風変わりなことではなく、数学や論理学、そして物理学などの分野においては、自明なことであろう。

矛盾の発見が、新しい知的革命をもたらし、矛盾の発見が、学問の発展を推進するこれらの分野では、先に述べた「ラッセルのパラドックス」の場合のように、そこから20世紀の数学や論理学の最も重要な部分がはじまったようである。

このパラドックス、つまり「矛盾」を解決するために、形式主義、論理主義、直観主義という新しい数学が始まり、同じように物理学における相対性理論や量子論もニュートン的な古典物理学のなかに矛盾を見出し、その矛盾を解決することによって確立されたのではないだろうか。

ヘーゲルも、『哲学史講義』のなかで、弁証法が「ゼノンのパラドックス」から始まったといっている。

このように、「矛盾」は一概に否定されるものではなく、むしろ「矛盾」は、小林秀雄が言うように「本物の思想家ならどんな思想家にもあるもの」ではないだろうか。

小林秀雄は、「矛盾」に逢着することにより、「小説家小林秀雄」に挫折したが、その「矛盾」を生きることによって、「批評家小林秀雄」が誕生したのだろう。

さて、「矛盾」に逢着することをも恐れない合理主義者である小林秀雄の逢着した「矛盾」とは、単なる文学の領域のなかだけの矛盾では無いようである。

小林秀雄の逢着した「矛盾」は、ニュートン的古典物理学が19世紀末に逢着した矛盾と同じ種類の矛盾、つまり、ニュートンに始まる古典物理学がアインシュタインの相対性理論によって相対化され、さらにハイゼンベルグやニールス・ボーアらの量子物理学によってその根底を脅かされた、いわゆる20世紀の科学革命を通底する「矛盾」ではないだろうか。

小林秀雄は、科学者ではないし、小林秀雄自身がその矛盾を発見したわけではないが、私たちは、小林秀雄と物理学の関係を、単なる類似性だけで語れはしないし、小林秀雄の批評が偶々、物理学の問題と同じような問題を内包していただけだと言うことなど出来ないであろう。

小林秀雄の思考の基礎的な部分には、物理学が在り、その批評の強さもそこに在り、私たちは、小林秀雄的な思考を辿る際、この物理学の問題を避けることは出来ないようなのである。

小林秀雄の用語や文体を模倣する人たちが、小林秀雄になることが出来ないのは、小林秀雄が物理学のなかに見出した理論的なものの徹底性が欠如しているからかもしれない。

小林秀雄のベルクソン論である「感想」は、「新潮」の昭和33年5月号から昭和38年6月号までの合計56回におよぶかなりの長辺である。

ベルクソンの『物質と記憶』における物質論の延長上として、49回目から物理学の問題が前面に出てくる。

ベルクソンもまた、科学や物理学と深い関わりを持った哲学者であるため、小林秀雄がベルクソン論である「感想」のなかで、物理学の問題に言及することはごく自然なのだが、小林秀雄の物理学に対する分析はやはり大きな意味を持っているように思われる。

小林秀雄が「感想」のなかで、物理学の問題に論を進めたのは、ベルクソンという哲学者が、物理学の問題と深い関係にあり、その哲学的思索において、絶えず「科学」を論じ、「科学」を分析・解明してきた哲学者だったからであろう。

ベルクソン哲学は、「科学批判」の哲学であると言うことが出来、また、ベルクソンは、科学における思考は、分析的・空間的思考であり、それにかわって、直観による持続の認識が哲学の思考であると考えたようである。

ベルクソンは、近代科学の成功により一般化した、分析的・実証主義的な思考を批判し、科学に対して哲学の復権を主張した哲学者であり、科学の成功やその成果を十分に認めた上で、批判するにあたり、徹底して科学を研究し、科学を自分のものにしようとした哲学者である。

ベルクソンには、アインシュタイン論である『持続と同時性』があるが、アインシュタインの批判を受けたことなどから、絶版にしてしまっている。

小林秀雄が、ベルクソン論である『感想』を未完のまま打ち切りにし、本にして出発することも、全集に入れることもしなかったことと、奇妙な一致を示しているようだが、このことについて小林秀雄は、ベルクソン論である『感想』のなかで、

「今世紀に這入って始まった科学の急激な革命は、恐らくベルクソン自身にも驚くべき事だったのであり、そこからアインシュタインの『特殊相対性理論』に関するベルクソンの誤解、つづいて、自著『持続と同時性』の絶版が起こったが、これについては、いずれ触れねばならない。
当面の問題は、彼の予想の或る意味での的中なのだが、これは、『一般相対性理論』がもたらした純粋に幾何学化された世界像、世界の構造の、誰も予想しなかった計量的完成、ベルクソンの言う、『ニュートン力学の前進が、遂に到達した、デカルトのメカニズムの完全な証明』を超えたところにあったからだ」
と述べている。

ベルクソンが念頭に置いていた「科学」は、主として近代科学といわれるものであり、いわゆる20世紀の科学革命を含んではいなかったようである。

ベルクソンが、当時起こりつつあった「物理学の革命に深い関心」を寄せることは自然なことかもしれない。

ベルクソンの予想をはるかに超えるような革命が、物理学の世界に起こった事実は、小林秀雄が言うように、ベルクソンの予想が的中したといえるかもしるないが、それだけではないようである。

小林秀雄は、ベルクソンを通して、また、小林独自の仕方で、物理学に接近していったようであるが、詳しくは次回以降に描こうと思う。

また、次回以降、小林秀雄と理論物理学の深い結びつきが、何を意味しているのかをも、考えてみたいとも、思っている。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

最近は、矛盾にぶつからない思考が合理的なのではなく、矛盾にぶつかることを恐れない思考が合理的なのだ、と、考えるとき、矛盾に直面しない思考は、中途半端思考であり、矛盾することを恐れて、問題回避した思考なのだ、と考えることが出来、頑張れるように、思えています😊

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

*見出し画像は銀座のUNIQLOで最近撮ったものです😊

マルクスのテキストのなかに自分自身の問題を発見し、解釈した「批評家」小林秀雄-小林秀雄的批評の系譜のなかの吉本隆明と柄谷行人-

2024-10-16 07:11:14 | 日記
なんと鋭い唯物論理解なのだろうか。

マルクスの唯物史観における「物」が、いわゆる物質としての「物」ではないという小林秀雄のマルクス理解は、昭和4年という時代的背景を、忘れさせる。

小林秀雄は、『様々なる意匠』のなかで

「脳細胞から意識引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論も等しく否定したマルクスの唯物史観に於ける『物』とは、飄々たる精神ではないことは勿論だが、又固定した物質でもない」
と述べているのである。

それから、かなりの時間が経過しても、マルクスの唯物史観における「物」とは物質としての物であると思い込んでいる人も少なくないようである。

たとえば、「唯物論」に対して「唯幻論」を唱えた心理学者の岸田秀は、唯物論の「物」を近代物理学的な意味での物質と理解した上で、そのような意味の唯物論に反対する立場として「唯幻論」を主張したのだ、と柄谷行人との対談『フェティシズムについて』のなかで述べているが、もし、マルクス的唯物論が、小林秀雄的に理解されたような意味での唯物論であったならば、岸田秀の唯幻論は、「唯幻論」ということばを用いずとも、唯物論ということばで十分だったはずではないだろうか。

しかし、岸田秀は、「唯物論」の物は、いわゆる近代物理学的な意味での「物」であることを疑わなかったようである。

このような誤解は、岸田秀だけのものではなく、多くの人がそのように考えていたようである。

小林秀雄は、「物」的な物理学から、「場」的な物理学への転換を知っていたため、その誤解を免れることが出来たようであり、小林秀雄独自のマルクス解釈はここから始まっているといってよいのかもしれない。

小林秀雄、吉本隆明、柄谷行人といった文芸評論家たちによって理解されたマルクスは、いわゆるマルクス主義者やマルクス研究者たちによって理解されたようなマルクスとは違い、小林秀雄という文芸評論家の手によるマルクス理解から始まるのではないだろうか。

吉本隆明も、柄谷行人も、小林秀雄に理解されたマルクスを前提にして、そのマルクス論を展開しているようである。

柄谷行人は、このことについて『マルクスその可能性の中心』のあとがきのなかで、

「明らかに、小林秀雄は、マルクスのいう商品が、物でもなく観念でもなく、いわば言葉であること、しかもそれらの『魔力』をとってしまえば、物や観念すなわち「影」しかみあたらないことを語っている。
この省察は、今日においても光っている」
と述べている。

大正末期から昭和初期にかけて襲ってきた「マルクス主義」という台風は、文芸評論家小林秀雄を「思想家」たらしめたような、言語化などできないような次元での影響を及ぼしたようである。

皮肉にも、小林秀雄は、マルクス主義と対決する過程で、最も深くマルクス主義の思想的核心部に触れることができたのだろう。

そして、それは、マルクスを理論家として読むのではなくて、思想家としてのマルクスを読むことであったのではないだろうか。

小林秀雄は、マルクス主義と全面的に対決せざるを得ない奇妙なめぐり合わせによって、最も深い部分で、マルクスの影響を受けたのかもしれない。

彼自身、単なる哲学者でも、政治学者でも、そして経済学者でもなくて、ひとりの思想家であったマルクスが、ひとりの文芸評論家を思想家に鍛え上げたのではないだろうか。

吉本隆明や柄谷行人がどれほど激しく小林秀雄を批判しても、彼らの思考そのものが、小林秀雄とマルクスの接触によって作り出された小林秀雄的パラダイムのなかで、なされていることは、否定できないだろう。

吉本隆明や柄谷行人の思考もまた、マルクスの影、そして、小林秀雄の影に覆われているようである。

吉本隆明は、小林秀雄のマルクス解釈について『小林秀雄-その方法』のなかで、

「初期の小林秀雄は、本多秋五も指摘しているように、マルクスもエンゲルスもレーニンもよく読んでいて、きわめて適切に引用していることがわかる。
たとえば『マルクスの悟達』や『文芸批評の科学性に関する論争』などの批評文は、現在よんでみても、ただ、いやおうなく小林秀雄的な色彩でエンゲルスやレーニンの言葉がよまれているということを除いては、けっしておかしなものではない」
と述べている。

吉本隆明は、躊躇いを持ちながらも、小林秀雄のマルクス解釈の正当性を認めているのではないだろうか。

吉本は、小林のマルクス解釈が、
「いやおうなく小林秀雄的な色彩で」染められている、と言っており、
ここに、吉本隆明の小林秀雄批判の根拠があるのだが、
小林秀雄のマルクス解釈の正当性の根拠は、むしろそこにあり、それを除いたらば、小林秀雄のマルクス解釈は、はじめからあり得なかったはずであろう。

小林秀雄の小林秀雄たる所以は、「小林秀雄的な色彩」のなかにあるのであり、私たちが、問題にしなければならないのは、
小林秀雄的な色彩とは何か、という問題なのではないだろうか。

なぜ小林秀雄の認識が、今も有効で在り続けているのか、ということこそ問題であり、私たちが、問うのも、その問題であろう。

吉本隆明の小林秀雄批判には、なぜ、小林のマルクス解釈が正確であったのかという問題の追求が欠けているようである。

小林秀雄は、マルクス主義者でも、マルクスの研究者でも、マルクスを特別に思想家として敬愛していたわけでもないにもかかわらず、小林のマルクス解釈は正確であり、吉本隆明や柄谷行人にまで影響を与えるような、独自のマルクス読解を達成できたが、それは、小林秀雄が「批評家」であったからではないだろうか。

小林秀雄は、マルクスが直面したであろう思想的な危機を共有出来るような、そのような思想的極限を生きた批評家であり、小林秀雄は、マルクスのテキストのなかに、自分自身の問題を発見し、それを解釈したに過ぎないのかもしれない。

小林秀雄にとって、マルクスもまた、すぐれた批評家のひとりであり、マルクスを読むことは容易であったのかもしれない。

そして、小林秀雄にとっては、マルクスを読むことは、ただ、批評家という、自分の感受性に忠実であるだけで、可能だったことなのかもしれない。

文芸評論家が「文芸」だけしか語らないとすれば、文芸評論家という存在は、その存在意義を失ってしまうように、私には、思われる。

たとえば、小林秀雄と中村光夫を比較するとき、同じように文芸評論家と言われるふたりであるにもかかわらず、これほどまでに、「批評」の向かう方向が異なるのか、と驚いてしまう。

小林秀雄の批評の進行方向には、「哲学」や「思想」とでも呼ぶべきものがあり、小林秀雄の評論はいつも原理的な問題へ向かう。

言ってしまえば、小林秀雄の思考は、物事の本質をきわめようとするような垂直的な思考である。

これに対して、中村光夫の批評の進行方向にあるのは、「文学」や「文学史」のみであり、言ってしまえば、批評の原理と方々を固定化して、その批評の原理と方々を様々な分野に応用しているのみではないだろうか。

近代文学や現代文学の研究、解釈に限っていえば、小林秀雄よりも、中村光夫の方が、はるかに優れた文芸評論家であり、その影響も、中村光夫の方が圧倒的に強いものを持っているかもしれない。

しかし、中村光夫という文芸評論家には、原理論的思索が欠如しているが、それに代わり、文学史的、実証的な探求が在るのかもしれない。

昭和10年夏、中村光夫は、小林秀雄、大岡昇平らと、霧ヶ峰を訪れ、暫くそこに滞在しているのだが、そのとき、中村は、小林が「物理学」に対して示した関心を、まったくと言ってよいほど共有していなかったようである。

また、中村光夫は、ベルクソンやデカルトや、ニーチェなどについても、ほとんど関心を向けていないようである。

このことは、小林秀雄の近くにいた中村光夫が、ほとんど小林秀雄の影響を受けておらず、小林秀雄とはまったく違ったタイプの批評家であったことを示しているだろう。

小林秀雄の批評は、原理論的であり、ある意味では、抽象的ですらあるのに対して、中村光夫の批評は、極めて具体的であり、また実践的であった。

しかし、中村光夫的批評の具体性や実践性は、なにか根本的な問題を無視することによって成立した具体性や実践性であるようにも、私には、思われ、そのことが、中村光夫に、原理論的な思索が欠如しているように感じさせるのかもしれない。

やはり、私は、中村光夫的な批評よりも、小林秀雄的な批評に興味を持つのであるが、やはり、小林秀雄的批評の系譜には、吉本隆明と柄谷行人が、いる。

ふたりとも小林秀雄の影響を受けたことを告白しており、ふたりとも、小林秀雄からの圧倒的な影響の下に、その批評活動をはじめており、ふたりとも、極めて激しく、小林秀雄を批判し、否定しようとしている。

しかし、ふたりが、小林秀雄を批判し、否定すればするほど、吉本隆明も柄谷行人も、さらに小林秀雄的になってゆくように、見える。

たとえば、柄谷行人が、マルクスを論じ、数学や物理学、あるいは論理学の問題を追及してゆけばゆくほど、その批評の方向が、さらに小林秀雄の方に傾いているように思う。

また、吉本隆明も、その言語論をはじめ、国家論や身心論が小林秀雄とまったく違う場所でなされていると思えないのである。

それらは、いずれも、小林秀雄的パラダイムの中に在るといってよいのではないだろうか。

無論、ふたりは、小林秀雄が踏みこもうとしなかった領域に踏みこもうとし、そうすることによって、小林秀雄を超えようとしているのだが、ふたりの試みが小林秀雄的批評に対して、根本的な変換をもたらしてはいないように、思われる。

むしろ、私には、このことが、小林秀雄的批評を乗り越えることの困難さを示しているように、見えるのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日からまた、定期更新を再開いたしますので、また、よろしくお願いいたします😊

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

*見出し画像は
ベルクソンの「記憶理論の歴史」-コレージュ・ド・フランス講義 1903-1904年度-からです




小林秀雄が近代批評を確立したといわれる理由②-「当為」ではなく「存在」を問題にしていた小林秀雄-

2024-10-11 07:28:11 | 日記
小林秀雄以後の文芸評論家たちが、「思想家」とでも呼ぶべき存在へと転換した理由は、文学作品の分析を通じて、文学という問題を越えた、ある基礎論的な問題を問うような存在へと変身したからなのではないだろうか。

その代表的な文芸評論家のひとりは、吉本隆明であろう。

吉本隆明は、1961年、「試行」に『言語にとって美とは何か』を連載するころから、急速に原理的思考の世界に移っていった。

以後、『共同幻想論』、「心的現象論」というような、文芸評論の世界では対処できないような問題作といっても過言ではないような作品を次々と発表するのだが、吉本隆明は、あくまでも「文芸評論家」の名において、これらの仕事を進めているのである。

『言語にとって美とは何か』という言語論はともかくとしても、どうして、「文芸評論家」にとって、『共同幻想論』や「心的現象論」が必要なのかについて、吉本隆明は、『心的現象論序説』のなかで、

「いうまでもなく、この領域は、心理学、精神医学、哲学の領域に属していて、私はひとびとがわたしの専門と考えている文学の固有領域から、すくなくとも具体的には一段と遠ざかることになる。
しかし、現在では、一個の文芸批評が独立した領域として振る舞おうとするとき、このような文学的常識からの逸脱は免れがたいものである。
そしてこの逸脱が、いつの日か文学芸術の固有領域を根源において惹きつけるということを信ずるほかはない」
と述べている。

では、吉本隆明は、なぜ、文学的常識からの逸脱を必要とし、なぜ、文芸批評の名において、『共同幻想論』や「心的現象論」を必要としたのだろうか。

おそらく、それは、吉本が、批判的に対決しなければならなかった当面の敵が、ロシア・マルクス主義であり、それに根拠をおく社会主義リアリズム論であったからである。

吉本隆明もまた「マルクス主義」との対立上から、必然的に原理論的な次元からの考察を余儀なくされたといってもよいのかもしれない。

吉本隆明は、マルクス主義とマルクス区別し、史的唯物論と弁証法的唯物論を基礎にしてロシアで発表されたロシア的マルクス主義とマルクスの思想とを区別し、それを「マルクス主義者」と「マルクス者」という呼び方で区別し、前者と批判的に対決したようである。

この吉本隆明のマルクス主義に対する構えは、小林秀雄のそれに極めて近い、というのも、吉本隆明は、マルクスの理解の仕方を、ほとんど小林秀雄のマルクス理解から受け継いでいるようなのである。

このことについて、磯田光一は『吉本隆明論』のなかで、
「吉本隆明をマルクスに近づけたのも、あるいは吉本のマルクス理解を決定したもの、それは小林秀雄の初期評論以外の何ものでもなかった」
と述べている。

吉本隆明は、『心的現象論序説』のなかで、
「わたしは、ここで現象学とも悪しき唯物論とも違った仕方で『観念論か唯物論か』という二次元的な問題の立て方を越えてみたい」
と述べているが、これもまた小林秀雄のマルクス解釈とそれほど違ってはいないだろう。

そしてこのことばは、「心的現象論」のテーマを要約しているようである。

つまり、「唯物論か観念論か」という二元的構えそれ自体の無効を宣言することは、結局のところ、ロシア・マルクス主義的な「唯物論」への批判ともなっているのではないだろうか。

わが国における文芸評論とは、物事を原理的に考える場所として確立されたのであり、それは単なる文芸時評や文学研究とは異なる、私には、思われる。

小林秀雄以後、文芸評論家に要求される役割は大きく変容し、文芸評論家は、単なる文芸の評論家であることは許されなくなったようである。

哲学者や思想家の役割をも担うことによってはじめて、文芸評論家という新しい存在形式が確立したからであろう。

文芸評論が、文芸という拘束を離れて、一種の哲学的な原理論へと転換したとき、そのときはじめて近代批評が確立したのであり、その逆ではないのではないだろうか。

小林秀雄が近代批評を確立したといわれるのは、小林秀雄が文芸評論を文芸という専門領域から解放したからであり、「考える」ということの具体的な実践の場所を確立したからであり、文芸評論が哲学的、原理的な思考の世界を獲得したからであろう。

原理的思考とは、根拠を最後まで追い求める思考のことであるが、言い換えてしまえば、前提条件や思考の枠組みを形成する仮定や前提を、暗黙のうちに容認するのではなく、それ自体も問い直す思考であろう。

小林秀雄は、いたるところで「学者」や「学問」を批判している。

小林秀雄は、学者を、学問の狭い固定概念に閉じ込められて本当は何も考えていない、として批判し、学問は方法論や概念のために押しつぶされて死んでいる、と批判しているようである。

小林は、学者や学問は、原理的にものを考えるという姿勢が出来ていないといい、そのような学者的、学問的思考の代表として、「科学主義的思考」を挙げ、それを批判し、否定しているのである。

しかし、私たちの多くは、どこかで「科学」を絶対視し、「科学」を学問や思想の方法や原理としており、「科学」の根拠を問うことよりも、「科学」的思考に近づき、その方法をいかにしてうまく利用するかに関心があるのかもしれない。

前に触れたが、小林秀雄は、科学的思考とはなにかを明らかにするため、その最も根本にある物理学を問うことによって、その本質を見極めようとしたようである。

小林秀雄の科学批判は、単に「科学」と「文学」、あるいは、「科学」と「人間」とを対比させて「科学」を批判したのではないことが、小林秀雄の『表現について』のなかの、

「科学の進歩は、決して停止しやしないが、科学の思想、科学的真理の解釈の仕方は変わってくる。
十九世紀に科学思想が非常な成功を勝ち得たというのも、科学が人間の正しい思考の典型であると考え、思想のシステムの完全な展開は、物事のシステムに一致するという信仰によったのであるが、そういう独断的な考えも、科学の進歩に伴い、十九世紀末には、科学者自身の間から否定されるようになりました」

ということばからもわかるのではないだろうか。

小林秀雄が問題にしたのは、科学の発展が、科学それ自体の根拠を否定するようなレベルでの科学であり、科学の基礎であり、科学主義的思考の起源であったといってよいだろう。

それは、マルクス主義、あるいはプロレタリア文学から芸術派に到るまでの、いわゆる昭和初期のあらゆる思想的流派と、小林秀雄が、まったく違った位相にいたことを示してはいないだろうか。

小林秀雄が、近代的思考の「基礎」であり「根拠」となっている物理学や数学に非常な関心を向けたことについては否定のしようがないことのように思われるのだが、このことから明らかになるのは、小林秀雄の原理性であり、ラディカルさであるように思う。

小林秀雄は、他の文芸評論家が問題にしなかった物理学や数学の基礎に向かっていった理由は、「原理的」に物事を考えるという小林秀雄本来の思考スタイルのためであろうが、それだけではなく、そこにはやはり、「科学的理論」として登場してきたマルクス主義という思想体系の影響があろう。

小林秀雄は、マルクス主義者やマルクス主義の研究者たちが、マルクス主義は科学的理論であるということに満足して、専らその解釈や応用にのみ関心を向けたのに対して、科学そのものの根拠を問い返した小林秀雄の原理的思考の徹底性は、驚くべきものであるように、私には、思われる。

例えば、本多秋五は、『小林秀雄論』のなかで、

「小林秀雄は、そのころの僕等の眼には変な奴としか映らなかった」
と述べたた上で、さらに、

僕等は学校の昼休みの時間に、「あいつは、批評とは他人の作品をダシに使って、自分を語る仕事だといっているよ。」とさも奇妙そうに噂しあい、『マルクスの悟達』にいたっては、表題を見ただけで失笑するのであった。
......マルクスの学説は、科学的理論として、客観的妥当性だけを論議されるものであった。
そこに「悟達」の問題などあるべきはずのものではないと考えられていた」
と述べている。

本多秋五の甚だしい誤読は、それなりに正しい部分も在るようにも、私には、思われる。

本多秋五が
「マルクスの学説は、科学理論として、客観的妥当性だけを論議されるものであった」
というのは間違ってはおらず、問題は、当時のマルクス主義者やマルクス研究者が考えた「科学的理論」とはいかなるものであったか、ではないだろうか。

現代でも、小林秀雄出現の意味は、明確になどなっておらず、小林秀雄は依然として「変な奴」のままであるように見える。

小林秀雄が「変な奴」であったのは小林秀雄の問題意識の位相の独自性のためだろう。

恨み節になってしまうが、私に言わせれば、小林秀雄が問題にしようとしたものが、私のような一般Peopleにはあまりに異様であり、不可解だからだよう、となってしまうのである。

私のように、小林秀雄の問題意識の位相がどこにあるかを考えずに、小林秀雄を読む人間には、小林秀雄が「変な奴」として見えてしまったとしても、それは、当然の報いかもしれない。

本多秋五は、正直に、当時は小林秀雄の批評の意味が理解できなかったと言っている。

その原因は、小林秀雄には、「いかに生くべきか」という問題がなかったからだと言っている。

小林秀雄に「いかに生くべき」という問題がなかったというのは、小林秀雄の批評が原理論であったということではないだろうか。

小林秀雄が問うたのは、思考とはなにか、認識とはなにか、科学とはなにか、ということであり、それは、極めて原理的な問題であったが、小林は、日常言語で、文学作品や作家を語ることによってその問題を追求したのではないだろうか。

もし、本多にとって「いかに生くべき」かが課題であったとすれば、小林秀雄にとっては、「いかに生きているか」あるいは、「なぜ生きるのか」が重大な関心事であったといってよいのかもしれない。

本多秋五が「当為」を問題にしていたのに対して、小林秀雄秀雄は「存在」を問題にしていたのではないだろうか。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

明日から、また、数日間、不定期更新になりますが、また、よろしくお願いいたします😊

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

(追記)
日仏哲学会以降考えることが多いです😊
ありがとうございます😊