お爺様の記録と明治期の土地台帳などから、ご先祖様が代々住んでいたと思われる場所が判明しておりましたが、その場所は現在はすっかり畑となっており、屋敷があったとは想像もつかない景観となっています。
その土地は城跡のすぐ北側の下にあり、直城と呼ばれた丘との谷間にあたる部分であったようです。直城の丘は現在は削られ平地の畑となっているため、そこが谷間になっていたとは分かりにくいのですが、昔の地図などを見ると確かに谷間であったことが分かります。
その場所には、本家と分家が並んで屋敷を構えていたようで、中央が本家である宗の家(ソーヌヤ)の屋敷、東側が東宗(アガリゾ)、西側が西宗(イヒゾ)という屋号の屋敷でした。お爺様の記録によれば7代目の当主であった平安統惟雄の兄弟たちが分家してできた家だったようです。東宗については、厳密にいえば薩摩からの役人の家に平安統惟雄の兄弟が養子に入った家です。
どちらの家も今に続く子孫の方がおられます。
その宗の本家になる屋敷があった場所ですが、実は畑の中に石垣の跡が少し残っていることが分かりました。
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ほんの少しですが、石垣の形跡が残っていました。この場所には、1898(明治31)年の大型台風で屋敷が倒壊するまでは住んでいた場所です。
屋敷が倒壊後には、付近に住んでいた人たちもこの地を離れて生活するようになりました。なぜ先祖代々の土地を離れたのかがずっと分からなかったのですが、どうも台風による土砂災害などもあったようです。あまりにも被害が大きくて、その場所を離れるしかなかったのかもしれません。
また明治期に入り学校ができたりして生活のスタイルも変わってきたので、少し便利な場所を求めたのかもしれません。
本家は最初は大城というところに仮住まいし、その後に泉川に移り、大正年間に内城小学校の裏手に住むようになったそうです。
お爺様の上花城の家は、お爺様の母親の実家が所有していた内城小学校の裏手に移り住みました。
このような経緯のあったご先祖様が居住していた直城の土地ですが、実は少し前から気になっていたことがありました。直城には以前は丘があったのに、なぜ屋敷は丘の上でなく谷間にあったのか?
伝承のように世之主自害後に徳之島に避難していた長女と二男が直城の場所にあらたに城を構えたということであれば、それは丘の上だったのではないかということです。なぜ谷間の方だったのか?
続きは次回に。