今月6日に、北山王の居城であった今帰仁城跡からトラの骨が出土したとのニュースが飛びこんできました。
トラ年の年明けにマッチングしたニュースだなと驚きつつ、ちょうど北山シリーズを書いていたこともあり、今年はご先祖調査で何か良い進展があるのでは? なんて淡い期待をお正月早々に抱いてしまいました。
沖縄タイムスによると、今帰仁城跡からはトラの下顎骨(かがくこつ)や色とりどりの中国産陶磁器など国際色豊かな遺物が大量に出土したとのこと。
写真は沖縄タイムスより
後北山の怕尼芝の時代1383年に明国に初めて進貢し、明国から正式な北山王として認められ、その後は怕尼芝から珉の時代までは7回、樊安知は14回も進貢し、進貢貿易の利益を上げて北山が潤っていたようです。これらの陶器類はその貿易での品々なのかもしれませんね。
当家の本家に保管されている陶磁器類は、いま確認出来ている範囲で一番古い年代が太明成化1465-1487年製ですので、北山の時代の物では無いようです。
お爺様の記録には、世之主が使用していたとされる大皿が昭和初期頃までは保管されていたようなので、探し出せばどこかにこの北山時代の物が眠っているのかもしれません。
トラの骨の出土については、何となく「やっぱりな」感がありました。
樊安知=武勇の人=トラというイメージが勝手に出来上がっていたせいもありますが、中世の中国には江南地方の森や草原にはトラが多く生息していたといいますから、そのトラを生きたまま連れてきて権力ある王の威厳として飼育していたのか? それとも剥製として飾っていたのか?
樊安知がトラをペットとして飼育して、いつも自分の傍に連れていたのであれば、なにか百獣の王みたいでカッコいいですよね。しかしそんな伝承は聞いた事がないので、さすがにそれは無かったと思います。当時生きたまま船に乗せて中国から琉球まで連れてくるなんてのは至難の業でしょうからね。馬とは違いますし。
今帰仁城跡からは、以前から動物の骨で作られたヤジリなども出土しているようなので、もしかしたら武具などを作る材料としてトラの骨などを輸入して使っていたのかもしれませんね。
そうそう、この今帰仁城跡で出土される品々ですが、上間篤著の「中世の今帰仁とその勢力の風貌」によると、騎馬文化やアラン人ゆかりの性格を帯びた物も多いそうです。騎馬文化?アラン人? 何だかちょっと難しい話になっていますが、要はユーラシア大陸の馬族民との繋がりがあったということなのだと思います。
モンゴルやその先のトルコあたりまで通じた民族との貿易による繋がりがあったということでしょうか。
著書では樊安知の名前についてもこう触れてあります。
「樊」を字義にはこだわらない音写表記と見なせば、それを持って発せられる音声上の響きには明らかにトルコ・モンゴル語起源の王を意味する「ハン」に通底する要素が認められる。この判断は期奇しくもトルコ語及びモンゴル語の見地からその下に現れる「安知」という名に込められた意味を推し量る足掛かりとなる。すなわち問題の「安知」に関しても言及した「樊」の事例と同じく字句の意味には囚われない音写表記である可能性が高い。そもそもこの「安知」は「アンチ」の音読みを持って今に伝わるが、この呼び名の響きには明らかに彼の弓の達人を意味するモンゴル語起源の「アンチ」に比定されてもおかしくない特徴が感知される。
少し難しい文で、私には理解が難しかったのですが、簡単に言うと樊安知の「樊」はトルコ・モンゴル語起源の語では「王」を意味する。
樊安知の「安知」はモンゴル語起源の「弓の達人」を意味する「アンチ」
「弓の達人の王」という意味。ということだと思います。
樊安知の名がトルコやモンゴル語からきているとすれば、彼の時代にそれらの国の人が傍にいたのか?それとも交易で行き来があったので、トルコ人やモンゴル人にそう呼ばれていたいたのか?
なかなか面白い話ですよね。研究が進むといいな。
トラの骨の話題から沖永良部島を出て琉球本土へ、そして明国、ついにはモンゴルあたりまで彷徨うこととなってしまいました。しかしこの辺りはもう私には難しすぎる、、、早々に琉球か沖永良部に帰国しようと思います。
今帰仁城跡からの出土品について、今後の研究による新たな展開があることを楽しみにしています。
歴史は壮大ですね!