見出し画像

先祖を探して

Vol.207 北山滅亡後の沖永良部島の統治は?(1)

琉球が北山・中山・南山と3つの勢力に分かれていた時代の14世紀後半頃については、当家の平安統が書いた「世之主かなし由緒書」によれば、この頃の北山の統治は徳之島、奄美大島、喜界島まで及んでいたということですが、このあたりは定かではありません。しかし沖永良部島と与論島については共にこの時期に北山王国の勢力圏に入っており、それは沖永良部の島主であった世之主(真松千代)が北山王の二男であったことからも伺えます。そしてこのあたりの時期は徳之島のカムィ焼生産販売勢力が衰退した時期と一致していると言われているようなので、もしかしたら徳之島のその勢力圏にあったのかもしれませんね。

琉球本島の方では、尚巴志はまず1406年に中山王武寧を攻撃して察度王統を滅亡させ、首都を浦添から首里(現在の那覇市)に遷し、父・尚思紹を中山王に即位させています。
1416年には北山国の攀安知を倒し、北山守護として護佐丸を今帰仁に配置します。首里から北部方面は距離があるので監視の目が届きにくいのと、北山の残党が反逆に出るのを阻止するためだったようです。そして1422年には、護佐丸にかわって尚巴志の次男尚忠が、北山監守として北部の抑えについたのです。
護佐丸の先祖は北山樊安知の前の中北山に繋がっているといいますし、奄美の島々にまで勢いがあった護佐丸を、これ以上は置いておけないとの判断もあったとか。
実際に護佐丸が北山守護として今帰仁城にいた頃に、与論や沖永良部島はこの護佐丸の支配下にあったのです。
Vol.168の記事でも書きましたが、今帰仁城から退いた護佐丸は義美座城を築城し、その築城の為に与論や沖永良部の農民が強制的に徴用されていたといいますから、この頃は今帰仁護佐丸の配下であったのでしょう。

その後、1429年に与論と沖永良部の両島は、琉球王国の領土に正式に組み込まれたようです。これ以降は時期ははっきりとは分かりませんが、琉球王府から大親子が派遣され、島の管理は王府直轄となっていたことが伺えます。1466年には那覇に泊地頭(泊港)を置き、奄美群島各地に年貢の納付を改めて命じています。 その年貢のための蔵を天久寺(那覇市)に設け大島御蔵と呼んだそうです。 年貢を納めさせたわけですから、各島には琉球の息のかかった管理者やノロなどが必ずいたでしょう。
そして1469年からの第二尚氏の時代に入ってからは、三代目の尚真王の時代には琉球から奄美の島々に王家の血縁者が大親子として派遣され、島の統治にあたっと言われています。

こうして、うっすらとは北山滅亡後の奄美の統治の様子が見えてはいるのですが、誰がいつ?というはっきりとした記録がなく、沖永良部島についても当家のご先祖様とつながる決定的な情報がまだありません。
そうはいっても、少しずつですが新しい関係しそうな情報も分かってきましたので、次回にまとめてみたいと思います。


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「島の統治者」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事