Vol.100で書いた琉球の中城御殿が当家のご先祖様であるというお爺様の記録、いったいどういうことなのでしょう。
今のところ、お爺様の書から詳しいことは発見できていないのですが、気になる記述を発見しました。
この記録がいつ頃に書かれたのかははっきりしないのですが、おそらく昭和初期ではないかと思われます。
巻紙になった家ごとの系図なのですが、相当な数の親族の名前が書かれています。その中に、気になる箇所を3つ発見しました。
1つが最大のポイントとなる琉球の中城御殿との関わりなのですが、この系図の記録によると、当家のご先祖様の1人である清嶺という人が、泊の中城というところに養子にいっております。
清嶺の生まれた年ははっきりとはわからないのですが、長男の佐久田が1675年生まれですので、3男になる清嶺は1680年頃の生まれになるのだろうと予想されます。
そしてこの中城の泊なのですが、これはおそらく琉球の中城村の泊ではないかと考えます。中城村には中城御殿があったのです。中城という記述が中城村を指しているのか?それとも中城御殿を指しているのか?
ただ、姓のところに町田と書かれています。まだ調査は出来ていないのですが、町田一族と言われる家があったようですので、もしかしたらその家なのかもしれません。
沖永良部からわざわざ琉球の中城村まで養子にいくなんて、ただ事ではないですよね。何か繋がりがあってのことだと思います。
そしてもう1つが、久米村の娘である思田兼が朝登の妻になっています。この朝登というのは、中城村に養子にいった清嶺の弟で4男です。分家して本城姓を名乗っていますが、その嫁が久米村から嫁に来ているのです。
まだあります。同じく久米村へ、宇志という女性が嫁に行ってます。宇志は清嶺や朝登の妹で三女です。前という家に嫁に行ったようですね。系図では朝登の嫁は逆に前家から来ているようです。
久米村といえば、琉球史において重要な人物がいた重要な場所ですよね。
町田家や前家がいったいどんな家であったのか、とても興味があります。
この時期に琉球の家と婚姻関係や養子が頻発しているので、当家は恐らく琉球との繋がりが深かったのだと思います。
まだまだ謎は残りますが、1つ1つ調べていこうと思います。