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先祖を探して

Vol.133 世之主の墓(3)石垣や厨子甕などの調査報告


世之主のお墓は、敷地をぐるっと石積の壁で囲んでおり、中庭を二つ設けた作りになっています。昔はこの中庭で、儀式が行われていたようです。儀式のことについては別記するとして、先に調査結果の方から書きたいと思います。


*先田光演:世之主伝説 P85

上記の図はウファの構造図です。
地形を活かした作りのためか、敷地は綺麗な長方形にはなっておらず、地面は両端がなだらかに上がっています。2つの門と庭を持ち、切り出した岩壁と、石積みで庭を囲っています。



納骨堂
2つの門を通り抜けて、一番奥に納骨堂があります。石灰岩を彫り込んで納骨室を作っています。お墓の規模から見ると、質素な作りのようで単純な長方形となっています。天井はややドーム状。

石垣
石の積み方を見ると、17世紀後半以降の積み方のようです。場所によって積み方が違うため、中世に作られたものを改変したのか、それとも近世になって新たに造成したのかは分からないようです。しかし少なくとも近世になって複数回積み直した可能性が高いようです。

遺物
沖縄・薩摩・肥前産等を中心に17世紀中頃以降のものが大半を占めるようです。明朝系灰色瓦が出土しており、これは琉球王国時代の瓦が沖縄県以外で出土した初めての報告例だとか。

厨子甕(沖縄の伝統的な骨壺のこと)
沖縄産の甕が使われている。17世紀中旬以降の物のようである。


これらの結果を踏まえ、ウファは17世紀中旬以降(1650~)に作られた可能性もありそうです。伝承されている北山王の次男であった真松千代が自害したのが1416年頃、その後の33回忌頃に墓を作ったような話からすると、年代の差が見られますね。
もちろん、石積みが近世になって修復などされた可能性もあるので、実際に建造されたのは伝説のように1450年頃なのかもしれません。
それを裏付ける可能性のある1つの話に出会いました。



これは、平成2年6月22日に和泊町老人クラブ連合会会長:新納定明氏が連合会から発行した「むんがたい」という本に掲載されていたものです。
この本は、伝承で伝わる話などをまとめた本のようで、現代では忘れ去られてしまったような話が沢山掲載されており、歴史を辿っていくためには非常に重要な本の1つです。
この本のP120に上記の記載があるのです。
1804~1829年の文化・文政の頃に、世之主の墓であるウファの一部が崩壊したため、遺骨をすぐ近所にあるチュラドゥールの方に100年程移動させていたことが書かれています。
年代こそは17世紀中旬以降からは200年程遅い時期にはなりますが、崩壊して手を入れていたことがある事実は分かりますね。よって17世紀中旬以降の石積みは、崩壊によって手直しをした可能性が十分にあるということです。台風の多い場所なので、崩壊は考えられます。

この話を聞いたのは初めてでしたが、そういえば当家の平安統惟雄が1850年に書いた「世之主由緒書」に、「近年まで後蘭孫八と屋者真三郎の遺骨が世之主の墓所にあったが、それは本当にその二人のものだったかは分からない」というような記述があります。
私はこの「近年まで」という表現をどう解釈して良いのか悩んでいたのですが、これはウファの一部が崩落してウファから遺骨を動かしたが、近年までは二人の遺骨があったというように解釈ができると思います。もしかしたら、二人のお墓は別に作られていますので、そこに持って行ったのかもしれませんしね。
その後、どういった経緯で誰が主導してウファを手直ししたのか? 
そもそも崩壊したのは石垣だったのか?(納骨堂は無傷のような感じなので、多分石垣だけだと思う)そのあたりは、また情報を集めてみようと思います。

このウファの建造時期は非常に気になるところですね。
そして何より伝承されている世之主の墓で間違いないのか?
まだ気になる話もありますので、次回に書きたいと思います。

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