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先祖を探して

Vol.194 「唐馬の角」の由来

沖永良部島で使われている「無い物は唐馬の角だけ」という表現があります。唐馬とは中国産の馬のこと。何でもそろっている富豪の豊かな生活ぶりを庶民の側から見て言う言葉で、無いのは角だけということで、馬にはもともと角などありませんので、もうほぼ完全に何でも揃っていて、とても豊かな大富豪のことを指した表現のようです。
しかしなぜそれをわざわざ中国の馬に例えているのか?そこは不思議ですよね。
そこで色々調べて見ると、和泊町史:歴史編にその言葉の由来が書いてありました。


かねて永良部に角力(かくりょく:相撲のこと)の名手の居る事に感心していた那覇の王様は、近頃永良部から渡ってきた美形で評判の真千代の髭を見たいと考えていた。
ある日、宴会の席か何かそこはよく分からぬが、大勢の人集まりで王様が「真千代兼近う寄れ」と仰せがあった。
真千代兼は、恐るおそる進んで参ると、王様は斜めならずお喜びになり、お手をのべて真千代兼の髭をなでながら「音ど聞ちゃる、話どきちゃる永良部真千代兼が髭」と言いざまに二つに振り分けて両手で引っ張った。真千代兼は痛くてならんのを王様のする事だからと思い耐えていた。王様は戯れて今度はむしるようにうんと引っ張る。真千代兼は耐えかねて、アイタと呼んで王を肘付きにして終わりにした。
王は怒るかと思ったら、かえって真千代兼の愛嬌をお誉めになったが、家来の者たちが「永良部のやつらはただに置いてはならぬ。先年の角力の仇をこうして報いやる」と、真千代兼は遂に唐に遠島ということになった。

この「角力の仇」とは、こいうことである。
王様の家来たちが、那覇と永良部で角力を取らせるということになった。
那覇はなかなか屈強な大男、ここは永良部の名高い平安統シュ。丁々発しと暫くもんでいたが、平安統が少し弱く見えてくる。友達の荒里が気点を利かせて「荒里よ、お前も中々の力じゃ、もう負けても構わん、この平安統が仇はうんと打ってくれる」と、自分を平安統と名乗って意気を張って見せると、那覇の男「荒里さえこの強さだのに、更に新手に平安統がいて俺もたまらぬ。」とでも思ったのでしょう、腰が抜けてとうとう永良部が勝った。那覇の者たちは後で騙されたと悟りはしたが仕方ない。

永良部と那覇の角力が開催され、永良部が知恵で勝ったので、その仇をうつために、王様を肘付きした真千代兼を唐に遠島してしまったのですね。真千代もいいとばっちりでしたね。

そして唐に遠島された真千代兼は、結婚して女の子が一人できた。その子にマートと名付けて長らく暮らしていたが、とうとう妻子を置き去りにして永良部に帰ってきた。
後に、真千代兼の調度品その他が送って届けられて、それが今、古里の子孫に宝物として残されている。
俗に「唐馬の角」と称して世間の呼び物となっているのは、その宝物のうちの大きな勾玉である。

遠島されて唐に行き妻子を置いて帰島したが、その後に調度品が届くなど、富豪っぷりが伝わってきます。馬はもともと縁起物の象徴であったので、唐から帰島したら調度品が届いたので、それを縁起物を馬に例えたのでしょうかね。
かつての沖永良部島では、明国への冊封品の1つとして馬を飼育していたようですので、その馬は朝貢品として明に渡り、はるかに高価な陶磁器類や絹織物などの物品にとり変わって琉球に戻ってきた。
ここでの馬は、そういった意味での富の象徴としての表現なのかもしれません。
その調度品の中の大きな勾玉はめったにお目にかかれない代物なので、馬には角は無いので、まず見ることはないだろう的なレベルの大きな勾玉を比喩して角と言ったのではないでしょうか。

しかもその調度品の宝物は子孫によって残されている。これが本当であれば、大きな勾玉などその宝物を見てみたいです。
そしてこの真千代兼とはいったい誰だったのか?

そして何より驚いたのは、角力が強かったという平安統シュ。これは当家のご先祖さまのことで間違いありませんね。この角力が強かった平安統の話は他にもあるのです。それは次回に書きます。


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