お爺様が書き残した記録の中に、母親から聞いた話として、宗家の記録上の3代目になる平安統惟次(1715-1772年)喜美留与人の息子であった平安淳の逸話がありました。
平安淳の母親は傍目で屋者村の出身だったようで、妊娠したことで宿下がりして屋者村に戻り、息子はそこで成長したといいます。
この平安淳はVol.98で書いた薩摩へ唐通事の稽古のために留学をした人です。
平安淳は子供の頃に夜にイザリ(たいまつで水中を照らして獲物をモリで突く)が好きで、友達とよく海に行ったようです。ある晩のこと、友達を連れていつものようにイザリに海の浅瀬に出たところ、あまりに獲物が多く夢中になっていたそうで、潮が満ちて周りが海水で満たされていたことに気が付かず、友達は先に浜辺に上がっていたようで一人取り残されてしまったようです。
友だちの方は、そのうち自分で浜に戻ってくるだろうと思っていたようですが、平安淳は右往左往して帰る方向も分からなくなっている様子。友達が慌てて海の中に入り迎えにいって救済し、共に無事に帰宅したということでした。
そのことが城の父親(平安統惟次)の知ることとなり、母親としても男親の膝下から離れた場所で養育することで、過失でもあっては申し訳ないと合議し、父親の住む内城の小字名:雨降屋(アミフヤ)というところ(現在は田園とある)に家を与えられ母子で移り住んだといいます。その屋敷が平良俣屋敷と呼ばれていたそうです。
お爺様の記録には昔話として「城の父親」と書いてあるのですが、これは不思議です。この時はもう薩摩の支配下であり、平安統惟次は与人という島役人をしていた時代です。世之主の城があった場所ではなく、その後方の小高い山であった直城と呼ばれるところに居住していたはずなのですが、当時はそこを城と呼んでいたのでしょうか。何だか謎が残ります。
青丸が古城地跡 赤丸が小字:雨降屋あたり
お爺様が記録を書いた昭和の時代には、そこはもう田園となっていたようなので、赤丸の近辺のどこかになると思いますが、屋敷の形跡が残っていないか調査をしてみたいですね。
この雨降屋ですが、この辺りは片平山とも呼ばれているようなのです。正式な地名ではないようですが、お爺様の記録にはこの辺りを片平山と書いています。
以前に城跡の南側の地にあった禅王子という寺があった場所も、正式な小字名は上城ですが、寺があった付近は寺敷と呼ばれています。かつては地名だったのか?そこは分かりませんが、このような正式地名以外の地区の呼び方も先祖調査の何かヒントになるかもしれません。
しかし、平良俣屋敷があった場所の小字名:雨降屋とは妙に気になる地名ですね。〇〇屋とはまるで屋号のようで、もしかしたら雨降屋と呼ばれていた家があったのが、そのまま地名になったのでしょうか。
そして雨降屋とはどういう意味なのでしょうね。雨乞いをしていた家があった?雨男が住んでいた?色々と憶測が広がりますが、何か分かれば別記したいと思います。