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先祖を探して

Vol.312 宗家に連なる人々7 : 池久保②子供達のこと

当家の記録上の二代目当主であった池久保(生不明~1695年卒)には8人の子供がいました。
前回にも書きましたが、男子5名女子3名で順番は不明です。
この8名の子供達については、記録が残されています。

長男:佐久田(1675-1748年:享年73才)
経歴:与人格間切り横目・・・警察官のような仕事です。
屋号:3回変わっています。
①前宗(宗家の家の前に分家したので)
②上金城(引越しして金城さんの上の方に住んだので)
③上花城(金城はカナスクといいますが、その音が転化してハナスクになった説)
長男でしたが、兄弟が多かったので結婚して分家となったようです。本人が23歳の時に嫡子の子供が生まれます。弟であった5男はこの時にまだ6才ですので確かに大家族です。居住スペースの問題もあって家を別にして分家したと思われます。
屋号の話から見ると、1700年代には本家は宗と名乗っていたことが分かります。
本家の屋号がソーヌ屋ですから、苗字ではなく屋号としてソーを使っていたのでしょう。

二男:池城(生卒不明)
養子に:叔母に嗣子がいなかったために、叔母の嫁ぎ先へ養子に出ています。
叔母とは父親の姉妹であった二女の真金で、先久統という人と結婚している。
先久統は後の要家(世之主の母方といわれている家)の人のようです。
この先久統の家は、西見の中城殿と呼ばれていたようです。

三男:清嶺(生卒不明)
養子に:以前に書いた事がありますが、当時の和泊村中城というところに、養子にいっています。このお宅は薩摩からきた代官と島妻の子孫の家のようですが、なぜ清嶺が養子に行くこととなったのかは不明です。

四男:安里(朝登)(生卒不明)
分家:分家して後に本城姓を名乗っています。

五男:平安統惟次(1692-1744年:享年52才)
経歴:喜美留与人
本家3代目当主となる。

長女:真金(生卒不明)
豊峯(1716年与人:後の豊山家)へ嫁ぐ。

二女:宮金(生卒不明)
赤田地上中城へ嫁ぐ。

三女:宇志(生卒不明)
和村久米村に嫁ぐ。夫は1716年に大城与人になった和村出身の久米村という人物だと思われる。

上記のように、池久保の子供たちについては全員の成人してからの動向が記録されています。このように子供全員の記録が残されているパターンは他にはありません。なぜ池久保の子供だけがこのように記録があるのか?
他も記録されていたが紛失したのか?
何となく不思議な感じがします。

そして五男が後取りになっていることも不思議で、理由を考えてみました。
家督相続は1名しかできません。5名も男子がいるので、どこかの家に後継ぎとして養子に出るのは重要なチャンス。長男は分家して島役人の仕事につけたので安泰。二男と三男はタイミングよく養子の話がきたので、それに乗った。
四男にはその話が来ずで分家。そして五男が与人になれたので三代目当主となった。こんな感じの理由でしょうかね。

娘たちも時の支配層の人達とうまく結婚できています。おそらくこのようにして嫡子以外は代々やってきたのでしょう。
記録上では池久保には男子の兄弟はいません。(姉妹は3名いた)よって、池久保の子供から男系としての分家を含めた子孫が残っていくわけです。そういったこともあり、記録が残されていたのかもしれません。

では父親の中城には兄弟はいなかったのか?そのもっと前は?
そこは記録も伝承も無いので謎なのです。世之主の二男以降は、代々男子が一人しか生まれなかったのかもしれませんね。憶測ですが。



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