沖永良部島での日本軍による陣地は、島の中心にある越山と南部の中心にある大山に作られました。
越山の陣地については前回書きましたが、大山の陣地などについての記録は知名町誌にありました。
沖永良部島守備隊
部隊本部は越山の方に陣を置き、野砲数門、伝書鳩班もいた。
当初は蛸壺陣地を築いたが、後には横穴壕に変わった。
大山防空監視哨
昭和19年3月に施設隊が来島し、大山頂上西側に兵舎と見張り台を建設。
10名近くの兵員が常駐し、電波探知機で広島大本営に直属していたという。
大山頂上付近に電波探知機による見張所が作られた。
昭和19年5月9日から8日間、知名村青年学校生は大山施設へ協力。海軍の施設竣行し、施設隊は沖縄方面へ移動して行った。
海軍は隊長、上等兵曹、一等兵曹、上等水兵、電波兵器担当2名、主計兵、無線担当など合計9名がいた。
電波兵器と無線機は、自家発電によって地下で活躍。
外には27ミリ機関銃1基、ル式機関銃1基。
見張所は木の間に8メートルの高さの櫓(やぐら)で、一角に真竹を立て、地下壕に直通できるように構築。機関掃射でも受けたら、一挙に地下まで滑り降りる手はず。見張所の双眼鏡は、当時としては最高の倍率を誇る対物レンズ28センチのしろ物であった。
学校の先生も見張りの応援をしていたそうである。
実際に見張りの応援をした先生の経験談が書かれてありました。
昭和20年3月頃には空襲がいよいよ激しくなってきたが、当時アメリカは日曜日には攻撃しないといわれていたのに、南の海上から低空飛行しながら住吉部落を機関掃射し、余裕を持ちながら大山基地上で反転したカーチスホーク1機に対し、突然27ミリ機関銃が火を吹いた。
敵機は胴体やや後方から煙を吹いて与論島近くの海上に突き進んだ。隊長に報告すると、荒らしい言葉を叫びながら見張台の下まで来られたが、直ちに機銃座のところに走って行った。後で聞いた話によると、敵襲に際しては陸海軍とも命令があるまでは応戦しないという約束が出来ていたが、兵曹の単独専行によって陣地が探知された模様。それから2日後には大山基地は敵4機による連続攻撃を受け、なおその後駆遂艦による艦砲射撃を受け、無残な集中攻撃を受けた。それ以来、大山陣地は数回に渡った攻撃により壊滅的打撃を受け、見張中に直撃による戦死者を出す始末であった。
その後は見張所の移転工事、沖縄戦の余波による不時着機搭乗者の始末、島に漂着した戦死者の火葬など、戦地の無残な様相そのままが昭和20年6月末まで続いたそうです。