沖永良部島の砂糖(2)
沖永良部島の糖業開始が遅れた2つ目の理由としては、北の3島(奄美大島・喜界島・徳之島)に対する米の供給地であったことが考えられます。黍作を強要すると、食料生産用の田畑までもが黍畑となったわけですから、食料不足になることは見えています。そこで、沖永良部の米は、近隣の徳之島の飢餓に対する応急備蓄、また同島産糖の代米供給地という役割があったのではないかと言われています。
和泊町史:歴史編によると、「徳之島前記録」という中に、次のような記録があるそうで、確かに沖永良部島から徳之島に米が融通されています。
もちろん沖永良部自体が当初は拒否していたところもあると思います。それを見とることが出来るのが、1805(文化2)年、与論島の掟・目指・横目・与人らが、沖永良部島に派遣された附役の山本源七郎に、藩庁からの通達に対して出した口上書です。
藩庁からの通達
「沖永良部島はこれまで専ら稲作をしてきたが、近年百姓共が困窮している。黍作を始めたら糖価は徳之島定式買い入れ糖より代米一合増しとする。その分貢米より差し引くことができるので、島での潤いにもなるのではないか。」
与論島の前記の役人たちの返事
「当島は竹木なく、居宅・農具・燃料等にも不自由し、琉球の山原から購入している次第である。このような島で製糖を始めると多くの薪を必要とするため期待通りにはできず、かえって厄介をかけることになりはしないか。また必要な品々を他島から求めなければならないので、定められた期日まで製糖ができるかどうかもおぼつかない次第である。さらに、精糖は12月から2月ごろまでがその期間であるが、当島は1、2月ごろまでは雨次第牛馬による田の踏みつけをしなければならない多忙な時期である。この期間に精糖もとなると、稲作はできなくなる。よって黍作はご勘弁申し上げます。」
この口述書は与論島の島役人たちからのものでありますが、沖永良部島にとっても実情はほぼ変わらなかったと思われます。そしてこの文面には書かれていませんが、島の役人たちは北の三島の窮状を十分に知っていたので、出来るだけ避けたいと警戒していたのだろうと思われます。
このような理由があったわけですが、実は隠れた第三の理由もあったようです。それは砂糖運搬にあたっていた船頭や水主たちの抵抗による藩の対策があったということです。
どういうことかと言うと、北の三島の砂糖を惣買入れすると、当然、船頭や水主たちも砂糖の売買が自由にできなくなり、利益が減ってしまう。そこで、沖永良部島を「諸人交易」という特別地区にして、減収分を確保させようとしていたようです。1830(天保元年)年に北の三島で砂糖惣買入れが始まった結果、命がけで砂糖の船便輸送に関わる人達の利益を得させるために、沖永良部島を特別地区にしての「諸人交易」を認めたわけです。
沖永良部島での砂糖惣買入れが始まる 2 年前の状況が和泊町史に紹介されていますが、そこには以下のことが書かれています。
沖永良部島には毎年 14、5 艘の船がやって来るが、その際に米や茶・たばこ・諸白・そうめん・魚・木綿・反物・小間物類に至るまで過分に持ち下ってきて、仮屋元とよばれた代官役所の前で市を開いて販売した。目の前に品物があれば欲しくなるのは人情で、しかも掛値売りなので島の人びとは後難もわきまえず買ってしまう。仮屋元の市で売りさばけなかった品物は、他の間切に持っていき、不要な品までも上述の村の功才に届けて押し売りするのを手柄にしている。そのため、納入すべき砂糖の未進が 1 年間の産額のほぼ 3 倍の 400 万斤にも達し、いくら出来増ししても解消するのは不可能な状況になっていた。そこで、1851(嘉永 4)年に藩庁は沖永良部島代官に対し、「諸人交易」の品は米・大豆・綿・鍋・半はがま釜等の日常なくてはならない物に限り、魚類・器物・小間物等は島民が注文したもの以外、持ち下ってはならないという通達を出すほどであったといいます。
この船頭・水主たちの悪質な商いの方法は、すべて本人たちの問題だったかというと必ずしもそうとは言い切れず、これは藩の政策としてやっていた沖良部島の「諸人交易」という特別地区で、減収分を確保させようとしていたのに乗った行動だったわけであります。
この船頭・水主たちの悪質な商いの方法は、すべて本人たちの問題だったかというと必ずしもそうとは言い切れず、これは藩の政策としてやっていた沖良部島の「諸人交易」という特別地区で、減収分を確保させようとしていたのに乗った行動だったわけであります。
それを裏図けるように、「調書笑左衛門履歴概要」には次のような注目すべき一文があります。
「亦砂糖の価格低くなりたる年、外に物産を殖さんと需むれども他に良産なき時、沖永良部の一島を諸人の交易を停め三島と同じくせんと伝ひしか、尤もなり、去りながら残らず利を納しては下々立ち難しと」藩財政立て直しの最高責任者である調書は「砂糖の値段が下落してはどうか」という進言に対して、「すべての利を吸いあげると下々が立ち難い」と答えているのです。すなわち、北の三島の砂糖は一斤残らず藩庁が買い入れて、船頭たちは一指も触れさせないかわりに、沖永良部という特別地区(諸人の交易の地)を設け、そこの砂糖は彼らの自由売買に任せて不満解消策としたのです。
そんな船頭や水主達への藩の対応が、当初は精糖に否定的であったことと、掛値売りで欲しい物を自由に購入でき、生活が一瞬潤った感があったことで良しとされていたとは思いますが、それがエスカレートしていき、結果的には押し売りによって負債が増え、島民が苦しまなくてはならなくなってしまったのです。
島民の反応
このような流れから、いよいよ沖永良部でもいくつかの恩典とともに、惣買入が実施されました。
島民の反応はといいますと、前述のような「諸人貿易」の弊害を被っていたので、意外にも歓迎されたようです。
恩典の1つとして、島民が抱えていた借金が免除となったことも大きかったようで、これには島民も万々歳だったと思われます。しかし果たしてその後の結果は良かったのか?
この件については別記したいと思います。