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先祖を探して

Vol.327 玉帳陰符経(兵法書)のルーツを訪ねて②

泉佐野市大木村から県道62号線で山越し車で約30分ほど走ると、和歌山県の紀の川市に出ます。そこから西の方角にある根来寺へ。

ここは高野山の学僧でもあった覚鑁(かくばん)上人によって開創された新義真言宗の総本山。
開山以来、約900年の伝統を誇るそうで、山内には日本最大の木造の『大毘廬遮那法界体性塔』(だいびるしゃなほっかいたいしょうとう)通称「大塔」建立のほか、大伝法堂には重要文化財の本尊大日如来(だいにちにょらい)・金剛薩埵(こんごうさった)・尊勝仏頂(そんしょうぶっちょう)の三体が奉安されていました。



 
1585(天正13 )年に秀吉の紀州攻めにより炎上しますが、大伝法堂・大塔・大師堂等は焼け残りますが、大伝法堂は解体。本尊の三尊像は京都嵯峨へ運び出され無事だったようです。大伝法堂は1826年に復元されます。


大伝法堂 1405(応永12)年建立 


 
大塔 1547(天文16)年建立


大師堂 1391(明徳2)年建立 根来寺の中で最も古い建物

ここは15~16世紀ごろには全国から学問を志す僧侶が集まる大寺院として繁栄していたそうですが、やがて天下統一を目指す豊臣秀吉と対立することになり、秀吉の紀州攻めにより1585(天正13)年に主要な建物を残して全山が焼失したのです。その後、江戸時代の1600年に徳川家康が根來寺再興の許可を与え、徳川家の外護のもと覚鑁上人の霊跡として復興への道を歩み現在に至っているそうです。

この根来寺が繁栄していた室町時代末期の最盛期には坊舎450(一説には2,700とも)を数え一大宗教都市を形成し、寺領72万石を数え、1万余の根来衆とよばれる僧兵軍団を擁したといいます。また、根来寺僧によって種子島から伝来したばかりの火縄銃一挺が持ち帰られ、僧兵による鉄砲隊が作られ、鉄砲の鉄砲の量産体制を整えたそうです。 そんなこともあって、ここ根来寺には兵法書が伝えられていたようで、その兵法書が大木村から事務方として奉公していた行人方によって持ち込まれたのだそうです。

大木村だけでなく当家のご先祖様のいた沖永良部島との関わりについて何か情報がないものかと、資料館の方に直接お話を伺ってみました。
この根来寺は焼失のせいで失われた資料も多く、詳しく分からないことも多いそうです。現在様々な研究が行われているそうですが、発掘調査の遺物としては輸入磁器なども含まれており、交易によるものだと。その交易を通じて、九州や南島の方との関わりがあったのではないかと考えられる。その1つに、鹿児島の坊津にあった一乗院は間違いなく根来寺の別院であったそうです。
以前にも書きましたが、当家の兵法書は根来寺経由でこの一乗院からもたらされた可能性もありますが、一乗院は明治2年の廃仏毀釈により廃絶していますので詳しいことは分からずです。

兵法書のルーツはまだ謎に包まれてはいますが、ルーツの1つであろう根来寺を訪問し、その歴史に触れることができたのは貴重な体験でした。


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