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先祖を探して

Vol.302 玉帳陰符経(3) 薩摩の一乗院

一乗院(いちじょういん)は現在の鹿児島県南さつま市坊津町坊(門前)にかつて存在していた真言宗の寺院です。鹿児島県指定史跡でもあります。
古くから存在していたようで、江戸時代に入ってからも藩主である島津氏の尊崇を受け、藩内屈指の有力寺院であったそうですが、明治2年に廃仏毀釈により廃絶してしまいました。その後は坊泊小学校が跡地に開校し、2013年(平成25年)に坊津町泊の高太朗公園に南さつま市立坊津学園として移転するまで学校の敷地内となっていたそうです。


江戸時代後期の一乗院(三国名勝図会)

この一乗院の歴史を見ていくと、興味深いことがありました。
寺伝等によると百済の僧・日羅の建立(583年)とされているそうですが、実在がはっきりするのは南北朝時代(1337-1392年)からだそうです。
そして驚くべきは、この寺は紀伊国根来寺の別院であったといいます。後には京の仁和寺の別院として栄えたようですが、そう、あの大木村が行人方を出して関わっていたあの根来寺の別院だったというのです。
そして、この寺が栄えていたその背景にあったのは、寺があった坊津が古代から大陸との貿易港として重要な役割を果たしていたことが挙げられるといいます。戦後の発掘調査で一乗院跡地から出土した大量の中国陶磁器から見て、一乗院もその貿易に深く関与していたと考えられているようです。
貿易といえば琉球貿易、密貿易時代も含めて琉球とも関わりがあった港です。

江戸時代に入ってからも藩内屈指の有力寺院であったということですが、当家のご先祖様が入手した玉帳陰符経などとの繋がりがどこかに見えないものか探ってみましたが、これといった入手経路がはっきりとわかるような情報は見つけることが出来ませんでした。
しかし、島が薩摩の支配下に置かれ、代官が奄美の各島々に派遣されるようになると、坊津の港から島に向けて出港していた人もいたようです。全ての人がそうであったかは分かりませんが、出航する時には近くにある一乗院で安全祈願をしたといいます。実際に一乗院で安全祈願をしてから坊津の港から沖永良部島へ向かったという記録をした薩摩の役人の日記をどこかで読んだことがあります。
そうなれば、島役人たちも上国で鹿児島に渡航していたわけですから、薩摩から帰る時には同じように坊津の港を使い、一乗院で安全祈願をしていたのではないでしょうか。
当家のご先祖様も上国をしていますので、この一乗院を通じて玉帳陰符経を入手していた可能性だって考えられるわけです。
あくまで推測の域ではありますが、こうして様々な可能性を探ってみるのも先祖調査のお楽しみです。
いまのところ正確な情報はありませんでしたが、何か分かれば追記したいと思います。 


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