沖永良部島には数々の口碑伝承が残されており、その中の1つに世之主と関係する「ヘンダマチガマ」という伝承があります。和泊町誌民族編には以下のような内容が書かれています。
真千鎌(まちがま)の伝説
昔、世之主の世、古里のメーヒャに真千鎌という器量の良い女が居た。
世之主様が釣りに下る与和通り近くに居る事とて、何時の間にか世之主のお目に止りお召しになって内城のヘンタに居らしめた。
兎角している中に真千鎌は世之主の種をやどして玉の様な王子が生まれる。ずんずん成長する。十四の年になると武芸も中々達者になってくる。そこで世之主は、其の気性をためさんために直城まで縄を張り、「我子ならば渡れる、人の子なら落ちて死ぬに相違あるまい」と綱渡り試験を致せ史に首尾よく渡って了った。
王子は、大屋子御拝命の為上国なさいましたが、其後世之主はあの御騒動のために御割腹召され、一門皆滅んで、真千鎌は詫び住いに幾年か経ちましたが、王子の音沙汰が一向に聞えぬ。御衣調度など調へて機を幾機か織り切って大屋子の準備を調へて置いたが、とうとう御帰国が無い。
高貴な方の妾なれば、寄りそう男もなく、世間もなく真千鎌の美貌もいつしか
色腿せて見る影もない有様となり、うば玉の髪も散り乱れてシラミさえ湧き出でとうとうもだえ死にました。世俗伝えてシラミに噛倒されたというて居たそうである。
世之主の御家来どもが、真千鎌のお里帰りの折暗くなりますと東石橋までお迎えに行ったもので
東石橋に あんどまち とぼち
へんだ真千鎌が お迎(ムチ) しやぶら
と歌ったそうです。
此女のお屋敷は、今の小山家の東で近い昔まで其の足洗の堀にはマンク木の葉も落ちず汚れもせなかった。ご老人の方々がこの池は御大切にせねばならぬ。人に売ってもならぬと申していたそうで、此古池から出た宝物が只今小山家に保存されて居ます。
この伝承は「ヘンダマチガマ」と呼ばれていますが、別の伝承記録によれば、「ヘンダ」というのは古里に住むヘンダという人の娘だとも書かれています。町誌の方は内城のヘンタという地名のようになっているので、どちらが伝承の中での事実であるかはわかりませんが、真千鎌(まちがま)という女性の名前は同じです。
この真千鎌という女性が、その時の世之主の妾であり、男の子の子供がいた。14才になって世之主が子供の気性を試すために城と直城の間の丘に縄を張り、渡らせることで試した。そして王子は大屋子になるために上国したが、その時に島では騒動があって世之主一家は自害した。上国した王子も帰ってこず、真千鎌は高貴な人の妾だったので、我が子の帰りを待ちながら一生寂しく一人で暮らし亡くなったというような話です。
14才になって気性を試すために縄を張って、、、という話は、勇気ある男児であったことを示す例えだと思いますが、大屋子になるために上国するという話は大変気になります。というのも、北山王の二男であった世之主が生きた時代は、大屋子というような役職はまだ無かったと思うのです。これは琉球が統一されて以降の話であると思うのですが、島での騒動で一家が自害した話は、北山時代の世之主の自害の話だと思われます。
そして妾の子が大屋子にというあたり、島には父が世之主(島主)として存在しているわけですから、大屋子はその下の役職として島に存在したということでしょうか。
この伝承が事実だったとした場合、北山時代の話と琉球が統一されて中山王に統治されていた時代の話が混ざり合っているようです。
それか、ここには北山時代というような話は出てこないので、時代の違う世之主の話の可能性だってあり得ます。島での騒動で一家が自害したというのも、もしかしたら北山滅亡後の和睦の船を勘違いし、、、という話とは違って別にまた自害の話があるのかもしれません。
あり得るとしたら、いま分かっている情報の中だけで見ると、Vol.277で書いた遺老伝説の中の永良部侵攻の話ですね。
彼女がいたお屋敷は今の小山家の東であるとのことですが、いったいどこになるのか?池からは宝物が見つかったということですが、どこの池なのでしょうか。宝物とは何だったのでしょうか。
こうして伝承の内容を1つ1つ見ていくと辻褄が合わないこともありますが、口碑伝承は語り継がれた長い年月の間に少しずつ内容が変わっていったり、途中で新たに似たような話が加わったりと、当初の話から変わってきたのだと思いますが、しかしどこかに真実はあったのだと考えるのです。そう考えるとたいへん興味深い話です。
そしてヘンダマチガマの伝承が、今回のメインテーマである直城とどう関係しているかは次回に続きます。