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先祖を探して

Vol.278 直城(1) 直城の丘があった頃

世之主の城があった丘のすぐ北側には、小字名で直城と呼ばれている場所があります。この場所はかつては小高い丘で、その高さは城のあった主曲輪のすぐ下の段の曲輪と同じ位の高さであったといいます。
この直城の丘が削られたのは昭和50(1975)年頃で45年程前。長い歴史から見ればわりと最近のことではありますが、当時の様子を覚えている人はもう少ないようです。
当家のご先祖様は代々この直城の丘に居住していたということでしたが、その丘はもう無くなっており、その昔の様子が全く想像できない状態でした。
そんな中で、昭和22(1947)年撮影の航空写真に出会い、丘が崩される前の様子が分かりましたので、現在の地図との照合をしてみました。

現在の様子はこちら:黄色の範囲がかつて丘だったところ。左側の細長いところは、実際にはもう少し短かったかも。


昭和22年の写真:黄色い範囲がだいたいの直城の丘であった範囲です。畑になていますが、丘が全面段々畑になっています。こちらも左側の細長いところは、実際にはもう少し短かったかも。

写真ではあまり立体感が感じられないので、丘になっていることが分かりにくいですが、じーっと見ていると少し立体的に感じられてきます。
この写真を見るまでは、てっきり頂上付近が平らになっていて、他は木々の生い茂った普通の山のようになっているのかと思っておりましたが、昭和22頃には丘全体が段々畑となっています。
昭和50年頃に削りとられた土は、客土として他の畑に撒かれたということですので、もともと耕作に適した土壌だったのでしょう。

そしていつからこのような一面畑の状態であったのかは分かりませんが、薩摩藩の指示により砂糖黍の生産が強化された1800年以降かもしれません。もしくは沖永良部島は砂糖の生産は他の奄美の島々よりは遅く、米の生産がメインだったといいます。そして畑の殆どが砂糖黍であった徳之島に米を送っていたため、その米の生産のために水田にしたのかもしれませんが、水田であれば豊富な水が必要であったでしょうから、丘の上では水の確保は難しかったかもしれませんね。
いずれにしても開墾が進んだのは1700年代中期から1800年代の頃だったのではと推測します。
そう考えると、開墾用の機械などが無かった時代に、恐らく木々が生い茂っていたであろう丘の斜面を畑にしていく作業は相当な労力だったのではないかと推測します。昔の人たちは本当に働き者ですね。

この直城の場所を昭和22年の写真をベースに現在の畑の中心に走っている十字の道路を重ねてみました。



ピンクの道路の場所はだいたいの位置になりますが、道路が十字に交わってる箇所あたりが恐らく丘の頂上付近だったようです。

下の写真は、上の写真の右側(東)から左側(西)の方を向いて撮影したものです。中央の十字に交わった道路(オレンジ)のところが今でも少し高くなっています。かつてはここら辺りが頂上で、右奥に見える城跡(赤丸)の下のオレンジのところと同じ位の高さであったそうです。



だいたいの位置関係が分かってきたところで、お爺様の書き残した記録や、この付近にある伝承などから、少し見えてきたものがありますので次回に書きたいと思います。


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