琉球版の万葉集と呼ばれる「おもろさうし」から、沖永良部島がかつて琉球王国にとって重要なポジションの島であったことは、数々の謡から見て取れました。
明国に朝貢の品として贈っていた硫黄鳥島の硫黄の管理や、永良部で放牧して飼育していたであろう馬、これらが主となって沖永良部島が琉球王国にとって主要な島であり、富に溢れた島であったことは以前にも書きました。
そんな沖永良部島について、大変に興味深い話を耳にしました。
先日、当家の古文書に関する書籍の件で奄美郷土歴史研究会の方とお電話でお話をさせてもらっていた時のことです。
こちらの方は大変な歴史好きな方で(研究会の方ですから当たり前ですが)、いつも用事があってお電話をすると、私の聞きたかったこと以外のお話もたくさん教えて下さり、大変勉強になっております。そんな会話の中で、「永良部は昔は特別だったでしょう」ということをおっしゃったのです。
私は思わず「なぜそう思われるのですか?」とお尋ねしましたところ、「おもろにも永良部のことはたくさんでてくるので、海の交易として海流が何か関係ししていたのではないかと思う。」とおっしゃるのです。
奄美群島については、大島の上を東シナ海から太平洋に向けて横切る七島付近の黒潮については、以前にも書いたことがありますし認識しておりましたが、沖永良部あたりを流れる海流については全くの無頓着でしたので、さっそく調べてみました。
ちょうど良いタイミングといいましょうか、いま南島の方では太平洋の海底火山「福徳岡ノ場」が噴火による軽石の漂着が問題となっていますが、その軽石の漂流状況をシミュレーションした動画がありました。
その動画を見ると海流の動きが分かるのですが、なるほど!と思わず声をあげてしまいました。
以下をご覧ください。朝日新聞のサイトにある海洋開発機構が作成した動画からの切り抜きです。
赤字は潮の流れを追記し、黄色は沖永良部島の位置です。
1枚目
太平洋から東シナ海に向けて海流が流れ、沖縄本島と与論や沖永良部の間抜けていき、その後に北上する海流と南下する海流に分かれます。
硫黄鳥島は、その北上する海流のすぐ先にあります。
画像2
北上した海流は、奄美大島と徳之島の間でまた太平世側に戻ってくる流れがあります。硫黄鳥島から見れば、徳之島と奄美大島の間を抜けてくるっと周って沖永良部に戻ってくることができます。
画像3
徳之島と奄美大島の間を通らなかった別の海流は、東シナ海側から喜界島の方に抜けるルートもあり、それはまた南下します。
どうでしょうか。喜界島も琉球史を語る上では大昔から歴史があり重要な島の1つですが、こうして奄美群島の海流を見ると、北からは喜界島が南下に向けての入り口の港島、南からは沖永良部が北上に向けての入り口の港島ということが分かると思います。
船を使った交易で繁栄していた琉球時代、エンジンもついていない船で遠い交易先までの航海です。帆を張って風を利用し、そして海流をうまく利用した時代。
奄美群島は道の島と呼ばれ、沖永良部島が交易の港島として繁栄していたことが分かった気がします。
そして交易の拠点であった島には、必ず琉球王府からの重要な役人が派遣されていたはずです。その人はきっと王家の直系の人だった可能性も高いですね。その人が世之主と呼ばれたのか?
当家のご先祖様との繋がりはまだはっきりとはしませんが、面白い発見ができました。
なお、この海流につきましては専門家としての話ではありません。あくまでも動画を参考にした私の仮説として捕えて頂きますようお願いします。