沖永良部島に人々が住み着いたのは、縄文時代頃からでしょうか。島の遺跡から爪形文土器 などが発掘されているようです。そんな古代から人々が住み着いていた島ですが、歴史上に沖永良部の名前が出てくるのはもっとずっとずっと後のことです。
ウィキペディアによると、奄美諸島自体の存在が日本の歴史書に登場するのは7世紀で、『日本書紀』には657年(斉明天皇3年)に「海見嶋」、682年(天武天皇11年)に「阿麻弥人」、『続日本紀』には699年(文武天皇3年)に「菴美」、714年(和銅7年)に「奄美」とあり全て奄美(大島)のことだと考えられ、当時の日本の中央との交流があったことがわかる。733年(天平5年)の第10回遣唐使は、奄美を経由して唐へ向かっている。
735年(天平7年)に朝廷は、遣唐使の往来上の利便のため碑を南島に建てた。『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込まれ、奄美群島の各島々にこの碑が建てられたとしているが、未だ実物の発見は無い。また、遣唐使に奄美語の通訳を置くことも記されている。
このように奄美諸島として見ても、7世紀以降のことになります。
沖永良部島が歴史書に登場したのは、私が知る限りでは(他にあるかもしれません)、千竈氏(ちかまし)という人に薩摩が奄美地方の島々を譲るような文書です。この家は鎌倉時代を通じ、尾張国千竈郷(現在の名古屋市南区千竈通)を本拠地とした御家人であると同時に得宗家の被官として海上交通を掌握したと見られているそうです。1306年のことですね。
この千竈氏が、世之主が登場する1380年代より前に沖永良部を統治していたのでしょうか? 世之主の時代には島は北山王の領地だったわけですから、それ以前に島とどのような関わりがあったのかは興味深いところですね。
それからは歴史書などにも島の名前が登場しますが、初めから沖永良部島と呼び、書かれていたわけではありませんでした。
おもろさうしには、「ゑらぶしま」とか「ゑらぷせりよさ」とあり、古名として「せ
りよさ」「せりゆき」と記されていることもあるようです。
りよさ」「せりゆき」と記されていることもあるようです。
以前の記事で書いた朝鮮の書物である「海東書記」には「小岐恵羅武島」と書書かれています。
このような呼び名を知れば、歴史書を見たときに私も新たな新事実を発見できるかもしれませんね。発見してみたいな😄
そしていつの頃からか沖永良部島と呼ばれるようになっていますが、島びとは、美しい自然にはぐくまれて温和です。昔から「いらでいらぼら ぬいらぷじま」といわれていて、「選んでも選ぶことができない永島部島」、つまり「どこをさがしても見つけることができない恵まれた島」という意味だそうです。これらのことばから、島を愛する人々の心がとてもよく伝わってきますね。