薩摩藩により共有地を配当された島の農民は、すべて夫役(ぶやく)といって、男子15歳から60歳、女子13歳から50歳までの者は労力の貢物をする制度がありました。この夫役に従事する者を作用夫役や現用夫役と言って、兵役・輸卒・池溝・道路橋渠・堤防などの修繕造営から田畑の復旧・租年貢の運搬、藩士巡回の際の労役はもとより、俸給の一部として吏(公務員)の私用にまで使役されたようです。
このような状況でしたので、農民は1年の大半はこの夫役に従い、自己の農作業に従事する日数は極めて少なかったようです。
一方で夫役を免除された人たちもいました。
1. 病気などで身体が不自由な者。
2. 藩の公職に務める与人・与人格・間切横目・およびその同格・黍横目およ
びその同格等と嫡子は空役といって夫役を免除。
3. 詰役の女中妾となって失敗なく任務を終えた者及びその子は免除。
4. 郷士格とその子三男まで及び一代郷士格の者。
当家の場合、本家は7代続けて与人職、分家においても与人や横目などをしていたようですので、免除制度の恩恵にはあずかっていたようですが、この制度が有効な期間はどうだったのでしょうかね。
2.の公職に務める者と4.の一代士族については、一度免除を受けても、該当者でなくなった場合は免除にはならなかったのではと思われます。役についてしまえば免除措置が一生有効といったわけでは無さそうです。
そして、公職の嫡子以外の子供や妻は免除にはならない制度だったようなので、夫役として働かなければなりませんでした。奄美地方の女性は昔からとても働き者であると聞くのは、こういった制度によるものなのかもしれませんね。
また島では鹿児島からくる役人に娘をアングシャリとして差し出す家が多かったと言うことですが(Vol.93-94参照)、それもこのような制度が影響していたのでしょう。
島民としては、年貢を納めるために、そして自分たちの食料を確保するためには農業に従事することは必須です。よって、出来るだけ夫役の免除を受けたいと思うのは当然です。しかし限られた人しか免除は受けられない。夫役として1年の大半を働きながら、農業にも従事しなければならなかった島民は働き詰めだったと思われます。
一応藩庁からは、農繁期にはなるべく農民を使役しないように、また私用には夫役を避けるように警告があったようですが、実際はその警告もあまり効力は無かったようで、島民は常に過酷な労力に使役されて苦しんだということです。
現代において、収入を得ることができるメインの仕事があるのに、強制的な奉仕業に1年の大半の時間をとられメインの仕事が出来ない。そんな状況はありえないでしょうし、仮にそんな状態にあれば問題になるでしょう。しかし150年ほど前までは、これが普通に行われていたのです。
このような制度があったとは非常に驚きでした。年貢でかなり苦しめられたということは知っておりましたが、それ以外にもこのような強制があったとは。どこまでも島民を苦しめる藩の体制。本当に今ではとうてい考えられない制度ですね。
歴史は表舞台で活躍した人ばかりがフォーカスされて称賛される。しかしその裏では、このように苦しみながら藩を支えた人たちが沢山いたことを、歴史の裏舞台として知る必要があるし、皆さんにも知ってほしいなと思います。