今日26日という日は、宗家にとっては先祖供養の日だったようです。
当家の歴史を親族代表として調べ、書き残した義経お爺様には3男6女の9人の子供がいます。長女と次男以外の7名は今もご健在です。9人もご兄弟がいらっしゃるので、先祖や島のことなどのお話を聞けると思っていたのですが、昭和28年に島を出たときまでの記憶がかすかに残っているのは当時8歳ぐらいだった義母(6番目)まで。6人中2人が他界。長男は老人施設で生活中、二女はご病気ということで、話が聞けるのは三女の叔母と義母のみです。そこで、昨年の終わりごろに、北九州に住む三女の叔母にまず電話で話を伺いました。昔々の思い出話から始まって、実に沢山のお話を伺うことができました。その叔母の協力もあって、長男の叔父さんにも電話で話を伺うことができたのです。そのお二人の話の中に出てきた26日という日。
もう1つのお墓
叔母の話では、世之主の墓とチュラドゥールの近くにもう1つ別の納骨堂のあるお墓があって、お爺様の義経と一緒に毎月26日に墓を訪れていたそうです。その墓はウファと呼ばれていた記憶があると。(この記憶は少し曖昧かもしれません。通常ウファは世之主の墓のことを指します)
琉球の王様関係の墓だとお爺様に聞いていたそうで、後で誰かに聞いた話しによると、そこは女性禁制の場所だったそうですが、叔母さんは毎月そこにお参りにお爺様と一緒に行っていたそうです。
この墓の正体は、電話では確認ができないので、今度叔母に直接会ってからと思っていましたが、コロナでなかなか会いに行けない状態が続いています。年内には確認したいと思っていますが、私の予想ではこのお墓は3号墓と呼ばれているところではないかと。このお墓は誰のお墓であるかが現在は分からず、和泊町が調査中です。私ももう少し調査してみようと思っています。
林の中にひっそりとあるこの3号墓がもう1つのお墓ではないかと勝手に推測しています。
先祖供養の日
長男88歳の叔父の話では、毎年11月26日に家で祭りごとがあったそうです。先祖の人が朝廷に船で行く途中に嵐にあって遭難した。その日が26日だったので、親戚が集まって供養をしていたとのこと。叔父は成人の頃まで島で生活していたので、島での生活のことはわりと覚えていらっしゃいました。
この26日に他界されているご先祖様を探していたのですが、見つけることができました。当宗家の名前が分かるご先祖様の2代目の池久保という方です。他界されたのは1695年7月26日。この方は喜美留与人をされていた役人なので、仕事で朝廷に出向くことは考えられます。生まれた年が不明なので死亡時に何歳であったかは分からないのですが、父親の死から8年後に亡くなっているので、早死にであったと思われます。おそらくこの方の供養を先祖代々やってきていたのでしょう。
追記
先田光演先生が解読して書かれている「代官記録」に、1690年から与人が鹿児島に上国し藩主に謁見する命令が下されたとあります。上国の際の船旅は命がけであったと。恐らくこの上国の旅で遭難して死亡したのでしょう。
叔母が毎月行っていた26日のお参りも、この方のためのものだったんだろうと思います。3号墓が当家のお墓だったとすれば、それはまた調査の価値がありますね。
もう1つのお墓や26日のことは、また調査の進展があれば記事にしたいと思います。